「ゔ~っ」
森の奥深く、骨喰いの井戸の元でそんな唸り声を上げる七宝が一人必死に奮闘していた。というのも、骨喰いの井戸を塞いでしまった木を抜こうとしているのだ。
しかし相手は井戸を潰してしまうほど大きな木。まだ小さな子狐である七宝にそれを抜くことなどできるはずもなく、とうとうへたり込むように腰を落とした七宝は目の前の木を見やりながら大きなため息をこぼした。
「はあ~やっぱり抜けん…井戸が直らねば
彩音たちは帰って来れん」
井戸の穴を塞ぎ切ってしまっているそれを見つめながら深く肩を落とす。よく見ればわずかな隙間はあるが、これを通ることができるのは恐らく七宝ほどの小さな体の持ち主だけだろう。
このままでは、いつまで経っても
彩音たちが帰って来られない。
「(本当にもう…会えんのか…?)」
目の前の容赦ない現実に理不尽な別れ方をした二人の姿がよぎり、胸のうちにじわじわと不安が広がっていく。それにたまらず表情を陰らせてしまう七宝であったが、続け様に“あいつらがいると、おれは思ったように闘えねえんだよっ”と言い放った犬夜叉の姿が甦り、その表情は瞬く間に怒りへと変わった。
「なにを勝手なことを~~犬夜叉なんぞとはもう…口をきいてやらん!」
むかむかむかと込み上げてくる怒りに任せて拳を握りしめながら大きな声を上げる。それは当然独り言であったのだが、どうやらそれを聞いていたらしい何者かが背後からザ…と足音を鳴らした。それと同時、
「犬夜叉…」
と太く不気味な声がその名を復唱する。それに気が付いて振り返ってみれば、三つ目の狼を複数従えた不気味で大きな妖怪がこちらを真っ直ぐ見つめていた。それは眼窩からこぼれそうなほど丸々と見開いた青い目を持ち、七宝の頭ほどはあろう牙が鋭く並ぶ大きな口を開いている。
「犬夜叉と、言ったか」
「な゙っ…」
あまりに大きくおぞましいその妖怪に問われたのは先ほど自分が口にしたこと。紛うことなく自身へ言っているのだと嫌でも感じてしまった七宝は思わず目を点にし、強く引きつった笑みを浮かべながら凍り付いてしまった。
日が傾き空が朱色に染まる頃、楓たちは鬼蜘蛛をかくまっていた洞穴をあとにして村への帰路を辿っていた。その足取りはどこか重く、「もはや間違いない」と口を開いた楓の声も深刻そうに沈んでいる。
「鬼蜘蛛の邪悪な心が、妖怪…奈落と結びついたのだ。そして四魂の玉を手に入れるために…ついには桔梗お姉さまを死なせた」
数多くの共通点、そして洞穴にまやかしを仕組まれていたことで確信へと変わった鬼蜘蛛と奈落の関係。それを整理するように、実感するように話す楓の言葉で犬夜叉は眉間のしわを深くした。
だがその怒りが再び膨張する直前、遠く前方からザザァ、という複数の忙しない足音が聞こえてきた。それは人間のものではない多くの足音。それに気が付いた楓と弥勒が「ん…?」「あれは…」と口々に漏らした時、その視線の先から小さな影が必死にこちらへ駆けてくるのが見えた。
「い、犬夜叉~~~っ!」
「七宝!」
悲鳴に近い声で叫ぶ七宝。そのすぐ後ろには三つ目の狼たちが何匹も迫っており、彼が狙われていることは一目瞭然であった。一体なにがあったのか――それを考える間もなく一匹の狼が七宝へ襲い掛からんとした瞬間、犬夜叉は「くっ」と小さな声を漏らし即座に地を蹴った。
「散魂鉄爪!!」
七宝を抱え込むと同時にザン、と勢いよく爪を振るえば、激しい血飛沫を上げながら狼たちの首が飛ぶ。
――その時、突如犬夜叉の体に貫くような激痛が大きく迸った。それに低く声を漏らした犬夜叉は顔を歪め、ドシャ、と崩れ落ちるように膝を突いてしまう。その様子に目を丸くした七宝であったが、犬夜叉の衣を握っていた自身の手にべったりと付着するほど滲み出した赤に気が付いては途端に焦るよう顔を強張らせた。
「犬夜叉、血が…」
「くっ… (ちくしょう。腹の傷が開きやがった…)」
衣をさらに深く染めてしまう腹部の傷へ忌々しげな視線を落としやる。
痛みが強く、出血もひどい。そのような最悪な状況に唇を噛みしめるが、それでも狼たちの親玉であろう巨大な妖怪はズン、と重苦しい音を響かせて犬夜叉に迫ってくる。
「貴様が、犬夜叉かっ!」
「なっ…なんだてめえは!」
「地獄の狼、狼野干! トドメを刺しに、来た!」
そう高らかに名乗り上げると同時、狼野干はその大きな口から突如大量の狼たちを放出してみせた。それらが迷いなくこちらへ襲い掛からんとする様を見据えながら、犬夜叉は「トドメだとお!?」と狼野干の言葉を疑うように声を上げる。
「(犬夜叉が手負いということを知っている!?) 下がりなさい犬夜叉!」
犬夜叉同様になにかを悟った弥勒が咄嗟に右手の数珠を手にしながら前へ出る。そして犬夜叉をかばうように立ちはだかった彼は容赦なく右手の風穴を開き、迫っていた無数の狼たちをいとも容易く飲み込んでいった。
それに対し、よもやそんな力を持った者がいるなど思いもしなかった狼野干は驚きのあまり「え゙」と情けない声を漏らし、途端にいくつもの冷や汗を溢れさせて顔を青ざめた。
「な゙な゙な゙な゙な゙…吸い込まれるーっ!」
自身の巨体が否応なく引き込まれる感覚にたまらず叫びを上げる。だが風穴が目先に迫ったその瞬間、狼野干を引き込んでいた凄まじい風がピタ、と止められた。
目の前には吸い込まれた狼の尻尾を握り締めるように右手を閉ざす弥勒の姿。彼は凄むような鋭い視線で狼野干を見据えていた。
「誰に頼まれた? 正直に言えばよし。言わねばこの場で成敗する!」
「だっ…誰だったかなーっ!」
弥勒が選択肢を与えるも大量の汗を浮かべる狼野干はわざとらしく大仰にしらを切る。その瞬間、弥勒たちの背後右方から身を潜めていた狼たちが一斉に襲い掛かってきた。
「! まだいやがったのか!」
途端に気が付いた犬夜叉が鬱陶しげに声を上げながら勢いよく爪を振るえば、狼たちは容易く首を跳ねられ命を散らす。それほど容易い大した襲撃ではなかったのだが、そちらに一瞬でも気を取られた弥勒が再び狼野干へ向き直った瞬間、目の前の光景に「あ…!?」と驚愕の声を上げた。
「逃げた…」
思わず呆然とするように呟かれるその言葉通り、目の前にいたはずの狼野干は音もなく、そして痕跡ひとつ残さずにその姿を消してしまっていた。
情報を吐かせるつもりが叶わなかった現実に悔しさを滲ませる。するとそこへ身を隠していた楓が様子を窺うように戻ってきては先ほどの狼野干を思いながら問うてきた。
「奈落の手先か…?」
「…他に考えようがありませんな」
確信に程近い思いで弥勒が答える。その視線を狼野干が消えた彼方へと移すと、見えない姿を疎むようわずかに眉をひそめた。
「どうも嫌な感じだ。まるで奈落に見張られているような…」
* * *
――二〇一六年。
彩音が本来あるべきはずの時代であり、戦国時代へいってしまうまでは実際に生活をしていたはずの場所――そこで
彩音はいつも他愛のないことに笑い合っていた友人たちを前にしながら、ただ呆然と立ち尽くすことしかできずにいた。
その原因は、目の前の友人たちだ。いつ振りかも分からないほど久しい再会であるにも関わらず、その友人たちは懐かしむことも喜ぶこともなく、ましてや驚くこともなく戸惑うように
彩音へ“奇異の目”を向けている。
「え…誰…? あんたの知り合い?」
「違うよ、こんな人知らないもん」
「あ、あたしも知らない…」
わずかに顔を寄せ合い、ひそめながらも聞こえるほどの声を交わす友人たち。その姿はまるで“自分は関係ない”と他人へなすり付け逃げようとしているかのようであった。
(なに、これ…どういうこと…?)
目の前で繰り広げられる予想もしなかった反応に胸がざわめく。どうしてこのような反応をされているのだろう。姿を消して以来一度も顔を見せなかったからか。否、ずっと共にすごしてきた人間を数ヶ月程度で忘れ去るはずがない。
――いわばそれは、本当に
彩音のことを知らないといった反応。
あり得ない、だがそうとしか思えない彼女たちの様子に顔を強張らせてしまう。冷や汗が滲む。血の気が引くような気さえした。それと同時に、目の前の友人たちの足がわずかに後ろへ引かれ、気味の悪いものでも見るかのような拒絶の表情をその顔に滲ませられる。
「た、たぶん…人違いです…」
「あたしたちもう行くんでっ」
「あっ…」
――“待って”。その一言すら掛けること叶わず、途端に逃げるよう走り去ってしまう彼女たちの背中を立ち尽くすように見つめてしまう。
話したいのに声が出なかった。止めたいのに手を伸ばせなかった。追いたいのに、足を出すこともできなかった。それほど胸のうちに広がる動揺や戸惑いといった感情が大きく、どうすればいいのか分からなくなる思いに飲み込まれるよう視線を落としていた。
一体、なにがどうなっているのだろう。状況が一切理解できない。
必死に、懸命に頭の中を整理しようとするが、先ほど見せられた友人の拒絶するような目が焼き付いて心に荒波を立てる。全てが分からなくてごちゃごちゃに散らばって、なにも考えられなくなる。
たまらず胸を抑えるように制服をグシャ…と握り潰すと、不意に、傍を過ぎ去った男女の会話が微かに聞こえてきた。
「ねえ…あの人、刀みたいなの持ってない…?」
「えー。コスプレとかそんなとこでしょ」
「そうかなあ…すごくリアルだけど…」
どこか不安そうな、怪しむような女の声にギク、と震えを刻む。そうだ、戦国時代で過ごす時間が長く感覚が麻痺していたが、この時代に真剣の帯刀など許されない。もし通報されてしまえば言い逃れは出来ないだろう。
それを思えば最悪な状況が脳裏をよぎって。すぐにでも燐蒼牙を隠さなければと考えた
彩音はすぐ傍の店に目を付け、怪しまれないよう努めて平静を装いながら人気のない路地裏へと入っていった。念のため辺りを見回すが、そこに人影はない。それを確認しては物陰に燐蒼牙を隠し、目を付けた店へと駆け込んだ。そしてすぐに見つけたオーバーサイズのパーカー。迷いなくそれを購入しては足早に燐蒼牙の元へ戻り、柄の方から被せるようにして包み隠した。
これならば一目で刀だと怪しまれることもないだろう。ひとまずの安堵に息をつきたくなるがそうしてもいられず、胸のうちに生まれたわだかまりのような不安に駆られるまま駅へ向かって歩き出した。
一度自宅に帰ろう。帰って、落ち着いてこの状況を整理したい。その思いだけを胸に、
彩音は通学に使っている電車へと乗り込んだ。
懐かしい景色。本当は喜ばしいそれらを前にしても気分を上げることができず、ただ電車に設えられたモニターをぼうっと眺めていた。
そこに流れるのは間違いなく自分が生きていたこの時代のニュース。時間も戦国時代で過ごした分だけ進んでいるようで、モニターには『少女連続昏睡事件の犯人は未だ見つかっておらず――』という知らない事件の字幕が表示されていた。
――やがて電車から降りた
彩音は改札を抜け、馴染みある自宅までの帰路を辿っていく。こうしている間にも先ほどの友人たちの顔が頭を離れずひどく胸がざわついたが、極力考えないように、その落ち着かない気持ちを歩く力へ変えるように強く足を踏み出し続ける。
すると、次第に自分が暮らしていたアパートが見えてきた。
懐かしさすら感じる自宅。それを目にした途端言い表しようのないほどの安堵が溢れ、目の奥に感じた熱を堪えながらそこへ駆けていった。
ここは
彩音が一人で住んでいるアパートだ。物心つく頃にはすでに両親を失っていた
彩音は叔父や叔母だと名乗る人たちからの援助を受けて一人で生活していたため、出迎えてくれる人など誰もいない。
それでも
彩音は寂しさを覚えることなく、かつての日々を思い出すように自身の部屋の前に立った。そして財布に忍ばせていた鍵を取り出し、それを鍵穴へ向ける。
「あれ…?」
カチ、と小さな音を立てて止められてしまう感触に声が漏れる。
どうしてだろう、鍵が入らない。少し力を入れて挿し込もうとするが、それは少しも穴に納まることなく引っ掛かるばかりだ。戦国時代にいる間に歪んでしまったのだろうか、そう思って確認してみるも特に変わった様子はない。たまらず眉をひそめ首を捻りながらもう一度試すが、やはり鍵穴は
彩音の持つ鍵を受け入れてくれなかった。
(なんで入らないの? なにかが詰まってるとかでもなさそうだし…)
鍵穴を覗き込んでみるが特に変わった様子はない。ならば鍵が交換されたのだろうかと考えるも、住んでいる人間の許可もなくそのようなことをするはずもない。
じゃあどうして…と途方に暮れそうになった、その時だった。
「あなた…もしかして、うちの娘のお友達?」
突然聞こえた声。それに驚いて振り返ってみれば、どこか憔悴したような儚げな中年女性が
彩音を見ていた。
どうやら先ほどの声はこちらに向けられたものらしい。だがその言葉の意図が分からず戸惑うように言葉を返せないでいると、その人は「お見舞い? それとも学校のプリントを持ってきてくれたのかしら」と言いながらこちらに歩み寄ってくる。その様子に後ずさるようドアの前を退けると、どうしてだろう、その女性が取り出した鍵が目の前のドアを容易く解錠してしまった。
それに思わずえ…と声が漏れそうになる。戸惑い、混乱するまま咄嗟に見上げたのはその部屋の表札であった。ここは自分の部屋だと、赤の他人の女性が鍵を開けられるはずがないと、どうなっているのだと確認しようとしたのだ。
――だが、そこに書かれていたのは“
結城”ではなく、全く知らない苗字であった。
息が詰まる。瞳が大きく揺れる。このような苗字は知らない、隣人にもいなかったはずだ。そう思いすぐさま両隣の部屋の表札を確かめるが、それらは自身の記憶通りの表記がされていて特に変わった様子はない。自分の部屋だけが、消えている。その信じられない現実に強い動揺を覚え、狼狽えるように小さく後ずさった。
一体なにが起こっている。どうして、なにが、どうなっている。理解できるはずもない現象に混乱するまま同じ言葉を胸のうちに繰り返していれば、
彩音のその様子に気が付いていないらしい女性がドアを開けながらこちらへ振り返ってくる。
「せっかく来てくれたんだし…よければ上がって?」
「あ…」
女性の声に顔を上げると同時、ドアの向こうに覗いた知らない景色にゾクリと悪寒が走る。知らない家具、知らない靴、知らない傘、そして垣間見える生活感に、改めて自分の部屋ではないことを思い知らされたのだ。
「や…いや……しっ…失礼します!」
込み上げる恐怖心に耐え切れなくなった
彩音は咄嗟に声を上げて逃げるように踵を返す。不審に思われたかもしれない、だがいまはそんなことを気にしている余裕など全くなかった。現実と記憶のあまりの相違に怯え、記憶にない場所へ逃げたいと願うばかりだった。
(違う。なにかがおかしい)
強張った表情で息を切らせながら必死に訴えかけるように胸のうちで繰り返す。もう嫌だ、全て夢であってほしい。いつしか願うような思いを抱きながら無我夢中で走り続けた。
もはや行く当ても、頼れる人物さえいないであろう世界を――