13

――ザシュ… 肉を断つ不快な音が短く響く。今まさに爪を振り下ろさんとしていた目の前の鬼の体が、その音に伴うようグラ…と右へ大きく傾いた。その刹那に広がる、鬼の血飛沫。瞬くこともできないほどの緊張に包まれる最中、見張った目で見つめる鮮血の向こうに、長い銀の髪を揺らす男の姿を見た。 殺生丸だ。 だが彼の名を知らない女――美琴はただ放心するようにその姿を見上げており、眉間に微かなしわが寄せられる様子さえ見つめることしかできずにいた。 「邪魔だ」 煩わしげに、ただ小さく呟かれると同時に今しがた振るわれたばかりの爪が再び持ち上げられる。美琴はそれを目で追うこともできないまま、無慈悲にも振り下ろされたその爪に首を切り裂かれた。先ほどの鬼同様、深い赤を散らしながら呆気なく地面へ倒れ伏す。 その様をただ静かに見やっていた殺生丸は、彼女の首を切り裂く刹那に見た“違和感”を確かに感じ取り、その真偽を確かめるかのように彼女へ目を向け続けていた。 「(ほんの一瞬…これの体に奇妙な光を見た気がしたが…)」 …気のせいか。 眺めていてもそのような気配のない美琴の姿に、切り捨てるような思考を浮かべて顔を背ける。同時に踏み出した足が再び地表に着くか否かの一瞬、殺生丸の耳にほんの微かな呼吸音が届いた気がした。 鬼はすでに事切れ、女も首を切ったのだ。生きているはずがない。だというのに確かに聞こえた、息を吸う音。生の気配さえ感じさせ始めるそれを不審に思った殺生丸が再び視線を向ければ、気のせいだと切り捨てたはずの違和感が再び強く甦った。 たまらず眉をひそめる。いま、彼の目の前で。横たわる美琴の体から――それに刻まれた傷口から、蒼く淡い光が柔らかに立ち上っていたのだから。 なにかの術か。しかし、それは確実に死んだはず。辻褄の合わない現象にひそめた眉の下で鋭くした瞳をそれへ向けていれば、光は傷を拭うかのように消し去っていく。徐々にそれが小さく、そして途切れるように美琴の肌を離れた頃、そこには初めから傷などなかったかの如く跡形もなく消え失せてしまった。鬼に与えられたであろう傷も、今しがた殺生丸が与えた傷も、全て。 それを訝しむように見据えていれば、やがて目を覚ました美琴が小さく呻き声のような音を漏らした。 生きている。否、生き返った。 それをはっきりと目の当たりにした殺生丸はわずかに美琴へ歩みを寄せ、微かに開かれる瞳を見やりながら声を落とした。 「どういうことだ」 なぜ生き返った。直接言葉にせずともそう問うているのが伝わるその声に、美琴ははっと我に返るよう意識を判然とさせた。そしてわずかに体を起こすと同時、小さくあとずさりながら目の前の彼を見上げる。 「…見られ…ましたか…」 「答えろ。どういうことだと聞いている」 有無を言わせず、答え以外の言葉を許さないとばかりに問い質してくる言葉に口をつぐむ。 これは、あまりおいそれと話していいものでもない。それを分かっているからこそ、美琴は口を閉ざしたのだ。だが目の前の彼の金の瞳、それを目にしてはただ小さく、ほんの微かに息を飲んだ。 確証はない。だがこの人にならば、話してしまっても問題はないような気がしたのだ。 それはきっと、この男が下心を持って問うているのではないと感じられるから。このあり得ない現象を欲しているのではなく、ただ純粋に、納得できる答えを求めているだけに感じられるからだ。 それを思っては一度視線を落とし、再度意を決するように彼の目を見上げて遠く端から探るように述べ始めた。 「…傷が治ったのは、私の元来の力です。どういうわけか人より治癒力に優れているため…こうしてどのような傷も治してしまうのです」 「息を吹き返したのも、その力によるものということか」 「……いえ、それは…龍神さまより授かった、ご加護のおかげです」 殺生丸の声にわずかな躊躇いを抱きながら、続ける。それに「龍神…?」と漏らされる声を耳にしては、先ほどまでの可能性程度の憶測が確信に変わったような思いを抱いた。やはり彼は、ただあり得ない現象の答えを知りたいだけなのだろうと。 先ほど襲ってきた鬼とは違うその様子に安堵しながらも、警戒を緩めることはできないまま彼を見つめる。 恐らく彼に鬼のような害はない。だが、だからといってこれ以上話を続けるべきなのか。それを悩むよう慎重に思考している間にも、殺生丸はただ静かに、まるで言葉の続きを待つかのようにこちらを見つめていた。そしてその視線を一身に受ける美琴はどこか戸惑うように再び視線を落とし、ついには観念するように、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。 「私の治癒は他者にも使え、これまで様々な方の傷や病を治してきました…それをどこかで耳にした龍神さまの使いの方が、私の元へ赴きお声をかけてくださったのです。大病を患った龍神さまを助けてほしいと…そのため、無事に龍神さまの病を治すことができた私に、龍神さま直々にご加護を…“不死の御霊”と呼ばれるものを、授けてくださったのです」 「不死……ならば貴様はその加護とやらに守られ、死ぬことはないというのか」 「…はい。これまで二度ほど死を経験しましたが…このように、生きていられています」 そう小さく呟くように答えれば、殺生丸は黙り込んだまま美琴を見つめる。 一体なにを考えているのだろう。読み取れないその表情を見つめ返すが、やはり言葉も表情もない彼の思考は分からないままだ。それを思っては小さく口を閉ざし、控えめながら深く頭を下げてみせた。 「あの…此度は足をお止めしてしまい、申し訳ありませんでした。これ以上はきっと…余計なことばかり喋ってしまうかと思われます。ですので、その…ここで失礼させていただいても、よろしいでしょうか…」 憂いを秘め、申し訳なさそうに歪められる美琴の表情。余計なこと、というのがどのようなことなのか殺生丸に分かりはしなかったが、その言葉を受けてなおも彼は黙り込んだまま美琴を見据えていた。 その彼が思うのは、目の前の美琴の雰囲気。彼女元来のものか、あるいは巫女特有のものか。その姿を見つめているだけで、わずかに言葉を交わすだけで落ち着きを…穏やかさを誘われるような気がしたのだ。それだけではない、美琴を放っておけないような、言い表しようのない不思議な感覚さえ抱かされる気がする。 例えるならばそう、繊細な薄氷。美しくも、触れ方を誤ればすぐにでも壊れてしまいそうな彼女の不思議な雰囲気に、どうしてか目を離せないような錯覚があったのだ。ただそれは、壊れてしまいそうなことへの怖いもの見たさか、あるいは違う、なにかか。 そんな言い表しようのない、感じたことのない得体の知れない感覚に言葉を失くしたまま、美琴を見据えていた。しかしそれも静かに外され、自らが辿ってきた道へと向けられる。遠く、大きく広がる景色に人影はない。こちらへ向かってくる気配や音も、聞こえない。 頬を撫でるそよ風が、銀の髪をもてあそぶ。それを纏めるように掬い上げて耳へ掛ければ、殺生丸は音もなく美琴の傍らへと腰を下ろした。 立てた片膝に頬杖を突き、どこかつまらなそうな表情を見せる。 「連れの者を置いてきた。あれが辿り着くまで暇潰しに使ってやる。余計なことでもなんでも、好きに話すがいい」 淡々と告げられるその言葉に、美琴は「え…?」と小さな声を漏らすほど驚いた様子を露わにする。たまらず確かめるような視線を殺生丸へ向けるが、その彼は表情を変えることなくこちらを見据えてくるばかり。 美琴はそれに信じられないという思いを強く抱き、無意識のうちに彼へ問うていた。 「私の話を…聞いて、くださるのですか…?」 「ただの暇潰しだと言っている。話したくないのなら、勝手に去るがいい」 どこか煩わしげに、端的に向けられる言葉に美琴は丸くした目を瞬かせる。それがやがて静かに地面へ向けられると、俯く彼女の口から「ありがとうございます…」という、聞き取れるか否かの小さな声が漏らされた。しかし殺生丸はそれに返すことはなく、まるで聞こえていなかったかのようにただ彼女が語るのを待ち続ける。すると美琴は、姿勢を正すように座り直し、その小さな口をそっと開いた。 ――彼女は誰かに聞いてほしかったのか、語ることを許されると躊躇いを見せながらも自らの口で徐々に自身の身の上話を紡ぎ出した。自身の生い立ちやこれまでに訪れた地域のこと、経験した様々なこと。 殺生丸にとってなにひとつ面白みのない話であったが、それでも聞いていられたのは彼女の不思議な雰囲気、そして彼女の表情の変化に気を引かれたからなのだろう。 美琴は人並み外れた治癒能力を持って生まれたことで両親に気味悪がられ捨てられた、と口にした。その時の彼女の表情はなによりもひどく苦しげで、さらに“そんな思い出があるから自身はこの力をあまり好むことができない”と、“どれだけの人間を救っても誇らしく思えない”と続けてしまう頃にはいまにも泣き崩れてしまいそうなほど痛ましい姿を見せていた。 だが話を続けていくにつれ、どういうわけか彼女の表情は次第に柔らかさを取り戻したのだ。まるで話を聞いてもらえることを、喜ぶように。 先ほど自身を手に掛けた相手だというのに、その警戒心すら失せたように思える彼女の様子に殺生丸はただ静かに目を向ける。特に相槌を返しているわけでもない、本当に耳を貸してやっているだけに等しい状況で、どうして美琴はこれほど嬉しそうな様子さえ見せ始めてしまうのだろう。 理解できない、が、不思議と嫌悪感のないその姿に肩の力を抜かれてしまうような錯覚を抱き、気が付けば彼女の気が済むまで、その話が尽きるまで穏やかに耳を傾けていた―― 「…彩音彩音、そろそろ起きて」 「あっ…?」 身体を揺さぶられる感覚と同時にドクンッ、と強く響く鼓動に目を覚ます。呆然とするように広げた視界には、こちらを覗き込みながら手を伸ばすかごめの姿。それをぼうっと眺めて、ようやく先ほどまでの光景が夢だったのだと理解することができた。 (また美琴さんの夢…あれは…殺生丸と初めて出会った時、なのかな…) まるで自身が経験した記憶であるかのように鮮明に残るそれを思い返す。なぜこのように彼女の記憶を夢に見るのか、規則性のない現象を不思議に思いながら体を起こしては、「ほら彩音」と改めて肩を叩いてくるかごめに顔を上げた。 「ぼんやりしてないで、早く夕飯食べちゃいましょ」 そんな声を掛けられ、ようやく自分たちの傍に夕食が並んでいることに気が付く。白飯に漬物といった、質素ながら普段とは違う夕食。それは一行が身を置くこの屋敷の者に用意されたものであった。 ――この屋敷に辿り着いたのは、彩音が眠る少し前のこと。普段通りの旅を続けていた彼女らは日が傾き始めた頃にこの屋敷がある港町へ訪れ、弥勒の提案と交渉によってここに一泊させてもらえることになったのだ。 そして屋敷の主人の厚意で夕食を用意されるまでの間、眠気に誘われた彩音は部屋の隅でしばしの夢を見て、いまに至る。 それを思い返すように頭の中で記憶を辿っていれば、途端に腹の虫がぐうう、と情けない声を上げた。どうやら知らない間にずいぶんと空腹になっていたらしい。それに気が付いた彩音は困ったように笑い、かごめと共に膳の前へと座り直した。 「「いただきます」」、そう声を揃えては茶碗を手にして白飯を食む。特に味気のない本当に質素なものだが、普段からカップ麺などの即席飯しか食べていないためにその素朴な味がむしろ美味しく感じるような気がして。温かい白飯、綺麗な寝床、それらを堪能できる幸せを現すように、二人は自然と揃って明るい笑顔を見せていた。 「よかったー野宿じゃなくて」 「ねー。屋内最高~」 和やかに、満足そうにそう口にする二人。するとそんな彼女らとは対照的に、後ろで壁に寄りかかるよう座る犬夜叉が「けっ」と不満げな声を漏らした。 「悪かったな、いつもは野宿ばっかりで」 「犬夜叉あんた…最近、ひがみっぽくない?」 「私もそう思う。…あ、さては弥勒に嫉妬してんでしょ」 見抜いたと言わんばかりに言い切ってしまう彩音に犬夜叉は仏頂面のまま「はあ~?」と素っ頓狂な声を大きく上げてしまう。かと思えばずずい、と距離を詰めるように顔を迫らせて訝しげな表情を見せつけてくる。 「なんでおれがあんな奴に嫉妬しなきゃなんねーんだよ」 「そりゃー弥勒はすぐに寝床の確保ができるし色々とそつなくこなしてくれて…なにかと頼れるから」 「な゙っ…!? お、おめーあいつのこと、そんな風に思ってたのか…!?」 「まあ、それなりには」 しれっと言ってしまう彩音の姿に犬夜叉は顔を強張らせるほどひどく愕然とする。そんなに驚くほどのことだろうか、と彩音が目をぱちくり瞬かせたのと同時、なにやら障子の向こうの廊下から二人分の足音と覚えのある声が聞こえてきた。 「これにてこの屋敷の上空にある不吉の雲は、祓われましょう」 「ありがとうございます法師さま」 どうやら足音の主は屋敷の主人と弥勒のようで、そんな短い会話を最後に主人と分かれた弥勒がこちらへ向かってくる。その姿が見えるとかごめが満足そうな笑顔のまま「お祓いご苦労さまー」と声を掛け、それを受ける弥勒は何食わぬ顔で「さて、ゆっくり休みましょうか」といそいそ部屋の中へ足を進めていった。 しかし犬夜叉だけはそれを怪訝そうに見やる。どこか厳しささえ孕んだ、疑いの目。それを向ける彼は真っ直ぐに弥勒を見据え、真剣ささえ感じさせる声で言い出した。 「おう弥勒、おれにはどおーも納得できねえんだが…」 「はい?」 「寝ぐらを探す刻限になると必ず、辺りで一番立派な屋敷の上空に、不吉の雲がたれこめてるのはどーゆーわけでい」 特に気にした様子もなく平然と腰を下ろす弥勒へ犬夜叉が詰め寄りながら問い質す。しかし彼の真面目な問いに対し、弥勒は目を丸くするほどきょとんとした様子で「はあ?」と少しばかり呆れたような声を向けてきた。 「なにを今さら。ウソも方便というではありませんか」 「え゙」 「ウソじゃったのか!?」 本気で信じていたのだろう、犬夜叉も七宝もそれぞれ目を見張るほど驚いた様子を見せる。だがその傍でかごめと彩音は「あたしは薄々勘付いてたけど…」「私も…」と他に聞こえないよう少し言いづらそうに小さな声で話していた。 こう何度も同じ手口を使われていれば嫌でも気が付いてしまうものだが、おかげで食事も寝床も確保できるのはありがたかったために中々言えなかったのだ。 しかしなにひとつ気が付いていなかった犬夜叉は驚愕に狼狽えるよう、信じられないとばかりの目で弥勒を見やる。 「な、なんて悪い奴なんだ」 「お前の頭が固いのです」 正気を疑うような犬夜叉に対し、弥勒はやはり平然と、なにも悪くないと言わんばかりの様子で返す。 騙したことを咎める正しい犬夜叉と、ウソをつきながらも機転を利かせて有利に動いた弥勒。果たしてこれはどちらの肩を持つべきなのだろうか…そんな思いで彩音がかごめとともに苦笑を浮かべてしまった時、突然犬夜叉が振り返ってきたかと思えば「おい彩音っ」と弥勒を指差しながら言い出した。 「おめーこれでも本当に弥勒が頼れるっていうのかよっ」 「おや、私のいないところで彩音さまがそのようなことを?」 「えっ、いや…別にそんな深い意味で言ったわけじゃないんだけど…」 犬夜叉と弥勒、揃って問い詰めるような視線を向けてくるのに驚いては困惑するように言葉を濁した――その直後、彩音とかごめにゾクッ、と冷たい気配が迸った。覚えのある気配。それに弾かれるようかごめが素早く立ち上がり、一点を鋭く見据えた。 「四魂のかけらの気配が…」 「なに!?」 「ものすごい速さで近付いてくる…それにこの邪気…」 「これって、もしかして…」 顔を強張らせるかごめに続き、なにかに勘付いた様子の彩音が顔を上げて小さな声を漏らす。すると突然、港の方角から地響きのような鈍い音が微かに響いてきた。それは一度だけでなく、ゆっくりと回数を重ねるごとに大きさを増していく。それを耳にした途端、一同は犬夜叉を筆頭に屋敷を飛び出した。

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