温泉を堪能したあと、簡単な夕食をすませた一行は普段通りに焚火を囲んで眠りについていた。静かに、安らかな時が流れる森の中。囲んでいた焚火もいつしか燃え尽き、細く薄い煙さえもなくした薄暗い明朝で、ふと
彩音だけが音もなく目を覚ました。
「……」
開いた目を二度ほど瞬く。目線と同程度の高さにある地面の先をしばらく見つめたのち、音を立てないようゆっくりと体を起こした。
どうやらすっきりと目が覚めてしまったらしい。ぼんやりともしない頭でそれを把握してはほんの小さくため息をこぼす。
二度寝をするにはあまりにも目が冴えているし、太陽が覗き始めていることを考えると時間的にもそれほどの余裕はなさそうだ。それを思ってはこれからどうするかと悩みかけた、そんな時。ふと昨夜に至った思考を思い出した。
(そうだ。私の時代に帰る方法…少しでも手掛かりがないか、試してみよう)
自身の横に寝かせる燐蒼牙へ視線を落として思う。
美琴は“時渡り”という行為で時代を越えたのだ。ならば同じ体である
彩音にも
美琴の、あるいは燐蒼牙の力でそれができるかもしれない。
そう考えて燐蒼牙を握り締めると、未だ眠るかごめたちを起こさないよう静かに立ち上がり、この場を離れていった。
――しばらく歩いていれば、やがて開けた場所に辿り着く。あまり離れても危険だろうと考え、その場に足を止めた
彩音は大きく深呼吸をした。そして、握っていた燐蒼牙を見つめる。やはり時渡りの力を持つ可能性が大きいのは燐蒼牙だろうと考えたのだ。
美琴の力といえば優れた治癒能力で、他に目ぼしいものといえば龍神に与えられたという不死の御霊くらい。だがそれらに時を越えるような能力はないだろうと思い、ゆえに未だ知らないことばかりが残る燐蒼牙に可能性を感じたというわけだ。
しかし、燐蒼牙を手に入れた際に冥加から“あまり長く刀身を晒さない方がいい”と忠告されている。そのためにあれ以来燐蒼牙を抜いたことはなく、燐蒼牙を知ろうとしている今もなお抜いていいものかと躊躇いを感じていた。
(でも…触らないと分からないし…少し抜くくらいなら、たぶん大丈夫だよね)
なにかあればすぐに鞘に戻せばいいだけだし。そう考えてそっと鞘と柄をそれぞれの手で握りしめる。そこにゆっくりと力を掛けていけば、一瞬の引っ掛かりを感じたのち、鞘から静かに滑らかに刀身が現される。わずかに金属の擦れる音を鳴らして鞘を離すと、
彩音は木々の向こうから差し込んでくる朝日に透かすよう自身の前にそれを構えた。
蒼みがかった、白い刀身。まるで鉱石のような色合いと透明感を持ったそれは、やはり改めて見ても目を奪うほど美しいと感じられた。
(綺麗…これだけ綺麗だと、闘うためのものとは思えないなあ…すごい高値が付きそう。…なんて、絶対売れないけど)
戦闘向きでない美しさについいやしい考えをしてしまう。それほど素晴らしいものだと感じたのだ。だが、だからこそ、この刀が“繊細かつ凶暴”だと言われることが理解できなかった。かつて燐蒼牙を見つけた際に冥加に言われた言葉だが、そのような気配はとても感じられない。
いままで平気で出まかせを口走っていた冥加のことだ、もしかしたら曖昧な記憶の中で適当なことを言っていたのかもしれない。そう思うとなんだか納得できる気がして、この場にいない冥加を呆れるように笑いながら、鍔をなぞるように指を滑らせた。
――その時であった。
「美しい…」
「!」
突如聞こえた知らない男の声にびくっ、と肩を跳ね上げる。咄嗟に振り返ってみれば、そこには木の陰から顔を覗かせるようにして立つ見知らぬ男がいた。歳は弥勒と同じくらいだろうか、どこかかつての信長に似た風貌のそれは上物であろう着物を着こなし、身分の高さを感じさせる品格が持っている。
まさか人がいたとは…そう思った
彩音は慌てて燐蒼牙を鞘に納め、こちらを真っ直ぐ見つめて離さないその男に後ずさりそうになった。だがその男は茂みを越え、
彩音のわずかな警戒にも構わずすたすたと歩み寄ってくる。
「いやはや、驚かせてすまん。そなた、名はなんという?」
「え…#name2#
彩音、です…」
問われるままに口にして、はっと我に返る。こんな見知らぬ怪しい男に名乗るんじゃなかった、と。だが後悔先に立たず、男は目を輝かせながらより一層詰め寄ってきた。
「
彩音殿! 良い名だ。わしは一之助と申す。時に、美しいそなたに折り入って頼みがあるのだが…」
「え、美しいって…私の方? 刀じゃなくて…?」
「もちろんそなたのことだ。ぜひ、詳しく話がしたい。ついて参れ」
「やだなあそんな急に褒められても…って、え? ちょ、ちょっと!?」
彩音が大袈裟に照れる仕草を見せていれば、一之助と名乗る男は突然
彩音の手を掴んで有無を言わさず彼女を連れて行こうとする。それには驚き慌てた
彩音は「ま、待って!」と声を上げるとすぐさまその手を振り払った。
「勝手に話を進めないでっ。は、話ってなに…? ここではできないこと?」
「そういうわけでもないのだが…うむ、突然連れて行くのは無礼であったな。すまなかった」
警戒する様子を見せれば一之助は案外容易く頭を下げてくる。身分ゆえの性格なのか、それは分からないが少し強引なところがあるだけで悪い人間ではないだろう。それをなんとなく察した
彩音は、わずかに眉をひそめたまま一之助の話に耳を傾けた。
「実は…このところ、わしに次々と見合いの話がくるのだ。だがいかんせんどれも好ましくなくてな…せめて良いおなごが見つかるまでの間、見合いの話を止める口実が欲しかったのだ」
「…それが、私への頼みとどう繋がるわけ?」
理由はどうあれ、一之助が見合いの話を疎ましく思っているのは伝わってきたがどうしても話の全容が見えず、
彩音はやはり不信感を拭えないまま彼を見つめてしまう。しかしそんな
彩音を見ても彼はにこやかな笑みを浮かべたまま、はっきりとことの詳細を告げてきた。
「そなたに思い人を装ってもらおうと考えたのだ」
「……は? はあーっ!?」
思っても見なかった爆弾的提案を向けられては思いっきり声を上げてしまうほど驚いてしまう。
思い人とはいわゆる恋人のことだ。彼は
彩音に恋人のフリをしてくれと言っているということ。それは理解できたのだが、どうして見ず知らずの人間にそのようなことを頼もうとしているのかということだけは全く理解できなくて、
彩音はただただ困惑に狼狽えていた。
だが対する一之助は
彩音をまじまじと見つめており、ついには品定めをするかのように真っ直ぐ見つめたまま自身の顎に手を添えて考え込むような仕草を見せてくる。
「しかし…やはり美しい。そなたならばなにも文句はない。ここで出会ったのもなにかの縁だ…ぜひ、嫁に来い!」
「ぜひもなにもあるか! 無理っ。私は嫁に行くなんて絶対できないから!」
勝手に話を進めてしまおうとする一之助に慌てて力強く念を押すよう否定する。なぜ不慣れな戦国時代で見ず知らずの人間と結婚しなければならないのか。そんな思いで真っ向から拒否するが、やはり一之助はどこかずれているようにきょとんとした様子で首を傾げた。
「なぜそれほど言い切れる。もしやそなた…すでに夫がおるのか?」
「え゙」
不思議そうに向けられる問いにぎくっ、と震えを刻む。夫などいるはずがない。彼氏もいないどころか、そのような恋愛ごとに現を抜かしている暇さえないのだから。
だがそれを正直に言って、この男が引き下がるだろうか。むしろ夫がいると言わない限り付きまとってくる可能性すらある。それほど真剣で、わずかな期待を含んだ眼差しを向けてきていた。
ならば、ここはその嘘で乗り切るしかないだろう。
「そ…そう。私には立派な…だ、旦那さまがいるからっ」
「それはどんな者なのだ?」
「ぐっ…」
まさか詳細に追及されるとは思ってもみず、つい小さな声を漏らしてしまう。もはや変な汗さえだらだらだらと頬を伝ってきた。そんな中で顔色を窺うように一之助を見れば、彼は
彩音を疑っているのかなんとも訝しげな表情を浮かべている。どうやら変なところで疑り深いらしい。
やはり適当な嘘ではやりすごせないか、そう感じては懸命に頭を働かせようとした――その時、突然誰かの手が肩に触れてグイ、と体を引き寄せられた。そこには、見覚えのある深い紫色の袈裟。
「私がその夫ですよ」
にこやかに、穏やかな口調でそう告げるのはここにいるはずのない弥勒であった。自身を抱き寄せ、そのようなことまで平然と言ってのけてしまう彼の姿に驚いた
彩音が咄嗟に傍の顔を見上げれば、弥勒はそっと人差し指を口元へ小さく当てる。まるで任せてくださいとでも言うように。
「…というわけですので、私の
彩音をお渡しすることはできません。他を当たってください」
「そ、そうか…誠に惜しいが、そういうことならば仕方がない。
彩音殿。突然の無礼、本当にすまなかった」
相手がいると分かってか、意外にもあっさりと受け入れた一之助は申し訳なさそうに笑んで踵を返した。そして「ではな」と一言だけを残し、呆気なく去っていく。
その姿が遠く彼方へ見えなくなったことを確認しては、途端に
彩音の口からはあ~っ、と大きなため息が漏れ出でた。
「ほんっと疲れた~…引き下がってくれなかったらどうしようかと思った…」
「全く、見知らぬ男の話に付き合ってやるからそうなるんですよ」
「弥勒に言われたくない気もするけど…まあなんにせよ、あの人があの歳で独り身のままふらふらしてる理由がよく分かった気がする」
「ええ。ずいぶんとだらしない家系のお坊ちゃんなのでしょう」
言いながら揃って一之助が去っていった方角を見つめる。この戦国時代において、あれほどの身分と年齢ならばとうに所帯を持っているはずだろう。だというのに見合いの話も蹴ってこのような森の中にいたという事実に呆れを隠すことができず、
彩音はもう一度疲労感を紛らわすようにため息をこぼした。
そんな時ふと、我に返ったように「そうだ、」と呟いてはすぐ傍の弥勒へ顔を上げる。
「助けてくれてありがとね、弥勒。まさかあそこで来てくれるなんて思いもしなかった」
「いえ。目が覚めたら姿がなかったので、気になって捜していたんですよ。そうしたらお困りの声が聞こえたものですから、少し様子を見にきたまでのことです」
気にしないでください、そう続けながら弥勒は優しく微笑みを向けてくれる。その姿が眩く見えるほど感銘を受けた
彩音は胸に手を当てながら「弥勒がいままで一番格好よく見える…」と感動的な様子で呟いた。ほろり、と涙さえこぼしながら。
そんな
彩音に弥勒は笑い掛けながら「それはありがとうございます」と返すと、踵を返して顔だけをこちらへ振り返らせてきた。
「さて、ことも落ち着きましたし、そろそろ戻りますよ
彩音」
「あ、うん。…うん?」
弥勒の呼び掛けに我に返って返事をするが、すぐに首を傾げてしまう。聞き間違いだろうか、いま“
彩音さま”ではなく“
彩音”と呼び捨てにされた気がするのは。そう感じて思い返してみれば、一之助に対して夫婦を装っていた時から弥勒は
彩音を呼び捨てにしていた。慣れない感覚だったため、よく覚えている。しかし一之助が去った以上もう夫婦を装う必要はなく、彼が普段通りに戻し忘れているのかと思った
彩音は困ったように彼へ笑い掛けた。
「弥勒ってば、もう夫婦のフリはしなくていいんだよ」
「ええ、していませんよ」
「え?」
予想外の返答に、思わず笑い掛けた表情のまま目を瞬かせてしまう。てっきり夫婦のフリが続いているのだとばかり思っていたのだが、当の弥勒にその意思はないというのだ。だが先ほどもはっきりと、普段では聞いたことのない呼び捨てであった。
どうして突然そうなったのだろう。一目見て分かるほどにそう困惑する
彩音へ、弥勒は小さく笑みを浮かべながら優しい表情で語り掛けてくる。
「
彩音も私のことを“弥勒”と呼ぶでしょう? ならば私も同じように呼ぶのが妥当かと思いまして。ただ…犬夜叉がうるさく言うでしょうから、こう呼ぶのは二人きりの時だけで。これは私たちだけの秘密ですよ?」
言いながら、まるで封をしてしまうかのように人差し指を
彩音の唇へ触れさせる。そんな彼の微笑みが、仕草が、やけに色気を感じさせるのは気のせいだろうか。わずかに高鳴った胸の鼓動も、気のせいなのだろうか。
自身よりも年上である彼の余裕を見せられたような気がして、
彩音はなんだか落ち着かない感覚に陥ってしまいそうな気分になっていた。
そんな時、突然遠くから茂みを勢いよく駆け抜けるような騒々しい音が真っ直ぐこちらへ向かっていることに気が付いて。それに振り返るが早いか、バッ、と音を立てて跳び上がった影が二人の目の前に勢いよく降り立った。
「弥勒てめえ、やっぱり
彩音に触りやがって…またスケベなことしようとしてたんだろ!」
「おや犬夜叉。目が覚めましたか」
「目が覚めましたか、じゃねーんだよ! さっさと離れろっ」
顔色ひとつ変えず平然としている弥勒へ怒鳴り付けながら、犬夜叉はすかさず
彩音の手を取って弥勒から引き離した。しかし弥勒は動揺も焦りもなく、ただいつも通りの様子を見せている。それがどこか気に食わなかったのか、犬夜叉は
彩音をかばうようにしながらびし、と弥勒へ人差し指を突きつけた。
「スケベなことはしねえって条件だっただろっ。それを守れなかったんだ。この勝負、お前の負けだからな!」
「へ? 勝負? …って、なんの話?」
犬夜叉の言葉に不思議そうな顔を見せる
彩音が問いかける。当然だ、二人で始めた勝負を彼女が知るはずがないのだから。だがそれを問われた犬夜叉は「え゙っ」と短い声を漏らし、言葉を詰まらせるようにして硬直してしまう。
例え口が裂けても“どっちがお前を落とせるかの勝負だ”などとは言えるはずもなく、犬夜叉はただ戸惑うままいくつもの汗をだらだらだらとこぼしていた。
そんな彼の姿を見兼ねたか、フ…と小さく笑みを浮かべた弥勒が変わらず落ち着いた様子のまま助け船を出してくれる。
「どちらが早く助けられるかという力勝負ですよ。おなごは危ない目に遭いやすいですからね」
「そ、そおだっ。それで、弥勒にはもしおれより先に助けてもスケベなことしたら負けだって条件を付けてたわけだっ」
「ふーん…? 変な勝負…」
そう呟きながら、
彩音はどぎまぎと落ち着かない犬夜叉の様子に未だわずかな疑いの目を向ける。だが
彩音がそれ以上問い質すよりも早く「さて、」と口にした弥勒が気を逸らすように声を掛けてきた。
「そろそろ戻りましょうか。かごめさまと七宝を置いてきてしまっているのでしょう?」
「お、おう。そうだな」
「“
彩音さま”も行きますよ」
「あ…う、うん」
元来た道を辿るよう踵を返す弥勒の言葉に戸惑いを見せてしまいそうになる。彼は宣言通り、二人きりでなくなった途端に普段通りの呼び方に戻したようだ。
ならばあの言葉は――二人だけの約束というのは本気なのだろうか。
そう考えてしまいながら二人のあとをついて歩き始めた時、不意に振り返ってきた犬夜叉が突然右手を握りしめてきた。
「え、犬夜叉?」
「…おめーはこうでもしねえと、目を離した隙にすぐどっか行っちまうからな。その…握ってろ」
どこか照れくさそうに顔を逸らしながら犬夜叉は言う。もしかしてそれは、弥勒への対抗だろうか。慣れないことで恥ずかしい思いをしているに違いない彼の姿に、
彩音はくす、と笑ってしまいながら困ったよう笑い掛けた。
「もう。心配しなくても、ちゃんとついて行くよ」
心配性なんだから、と続けるよう呟く。そのおかげで犬夜叉はより頬の朱を深め、それ以上の言葉を返すことなく顔を隠すように背けていた。
そんなぎこちなさを孕んだ二人の姿を横目に見ていた弥勒は、わずかにペースを落とすようにして犬夜叉同様に
彩音の隣へ並んでくる。
「私もいるというのに、見せつけてくれますね。では私も…」
「おいっ。なんでおめーまで握ろうとしてんだよっ」
彩音の左手へ手を伸ばそうとする弥勒を阻止するよう、犬夜叉がすぐさま食い掛かる。するとそれに手を止めて犬夜叉へ顔を上げた弥勒であったが、彼へ向けようとしていた“冗談ですよ”という声がその口から発せられることはなかった。ただ声もなく、少しばかり驚いたように丸くした目を下へ向ける。
見つめたのは、自身の右手。不気味な呪いを穿たれ封印を施しているそれを、隙間なくしっかりと握りしめてくる柔らかな左手。その手の先を辿るように、視線を上げる。するとこちらを見つめる
彩音と目が合って、
「弥勒の手も握っておかなきゃね。女の人につられていかないように」
と、茶化すような口調で言いながら笑みを浮かべられた。
呆気にとられるような、不思議な感覚があった。それでもへら、と笑みを見せた弥勒は「これはこれは、困りましたね」と口にしながら頭を掻く仕草を見せる。そうして彼女が不満げな犬夜叉に振り返ると同時、再び自身の右手へと視線を落とした。
「(これは…私も犬夜叉も、苦労するな)」
ほんのわずかに眉を下げながら、フ、と小さく笑む。このようなことを自然とやってのけてしまう彼女に、いつか来るであろう苦悩を感じて。
だがそれも悪くないと、そう感じてしまう形容しがたい感覚の中、弥勒は自身よりも小さな手を静かに握り返していた。
――その数分後。みんなで手を繋いで歩いていたためか、元いた場所へ戻った途端かごめや七宝に揃ってぎょっとされ、「な、なにがあったの…?」と正気を疑うような訝しげな目さえ向けられてしまったのであった。