12

紅達から途端に弱々しい声が小さく漏れる。なぜならいまこの瞬間、紅達の目と鼻の先で竹筒から溢れ出した墨が――液体であるはずのそれが彼の腕をザン、と鋭く断ち切ってしまったのだ。 竹筒を握る左手が力なく地面へ転がる。あまりの衝撃的状況に腰を抜かした紅達は、ただ呆然とそれを見つめるままにその場へ崩れ落ちていた。すると竹筒から広がった墨が、大小様々な泡を無数に現しながら紅達へ侵食していく。シュー…と細く小さな音を立てながら、泡が彼の体を包み始める。 「…っ」 思わず足を止めてしまっていた彩音はすぐに駆け出し、「た…助け…」と声を漏らしながら縋るように震える手を伸ばす紅達の元へ向かう。そしてその手を強く握り締め、墨から紅達を引き上げようとした――その瞬間、彼の体はその腕だけを残して墨の中へ跡形もなく飲み込まれてしまった。 血とも墨ともとれない液体が細く音を立てる。地表のわずかな起伏に沿うよう広がるそれの中に紅達の痕跡はなく、面影すら残らないほど彼の存在はなにもかも消え去っていた。 「そん…な…」 「ばか野郎、だから…」 救えなかった者へ、彩音と犬夜叉が悔しげに声を漏らす。残されたのは、彩音に握られる腕だけ。それを確かめるように視線を向けた犬夜叉は、なにかに気が付いたよう眉をひそめると彩音の右手を取った。そして彩音から引き離すように紅達の腕を受け取り、空いた彼女の手の中を埋めるかのごとく強く握りしめる。 「彩音…お前のせいじゃねえ。こいつはいままで何人も人間を殺してきたんだ。これは…その報いだろうぜ」 そう囁きかけてくる犬夜叉の言葉はまるで言い聞かせるよう。それにより、ようやく自身でも気が付いた。紅達の手を取った自身の右手が――犬夜叉に握られるその手が、大きく震えていたことに。 思わず「あ…」と小さな声が漏れる。 人が死ぬところなどいままで何度も見てきた。だというのに、目の前で、自身が触れているその人間が死んだことが、これまでにないほど恐ろしく感じてしまったのだ。 それを実感しては余計に震えが大きくなりそうで、自身の手さえ恐ろしく感じてしまうようで。力を込めることさえ、できないような気がした。 「彩音」 強く、名前を呼ばれる。はっと大きく見張った目を持ち上げれば、こちらを真っ直ぐに見据える犬夜叉の瞳があった。なにを言うでもない。ただ静かに、震えを抑え込むように強く握りしめてくる彼の手が温かさを伝える。 ただそれだけなのに、どうしてだろう。不思議と、震えが収まっていくのを感じた。 いつしか詰まっていた息が自然と小さく吐き出されていく。その様子を見て犬夜叉が同様に小さく息を吐いた時、そこへようやく駆けつけてきたかごめと弥勒が姿を現した。そして足元で泡立つ墨を見つめ、訝しむようにその顔をしかめる。 「墨に…喰われた…」 「ど…どうして…」 「血だ…この墨は人の血と胆でできてる…絵師の野郎の流した血を吸いに出てきやがったんだ」 彩音から取りあげた紅達の腕、足元の墨。それらへ視線を落とす犬夜叉は神妙な面持ちでそう口にする。するとその時、かごめの足にカサ…となにかが触れた。それに気が付いたかごめが手に取り拾い上げれば、彼女はどこか切なげな表情を見せる。 「これは…お姫さまを描こうとしてたんだわ」 そう呟くかごめが見つめるのはひどく汚れたボロボロの紙。そこに描かれていたのは被衣を纏ったいつかの姫の姿であった。 「愚かな…このような汚れた墨で美しいものなど描けるものですか」 まるで悪態づくように、吐き捨てるように墨へ歩み寄り言う。彼が視線を落としたそこには、墨に浸る小さな四魂のかけらが一つ転がっていた。いままで悪意に触れ続けていたからだろう、その光は黒く淀んでいておぞましい気配を持っている。 「(ちっ、せっかく見つけた四魂のかけらも邪気まみれか。おれには危なくて触れねえ) あ゙」 弥勒が恨めしげにかけらを見つめる目の前で、かごめが躊躇いもなく容易くそれを手に取ってしまう姿に思わず声が出てしまう。だがそれに気が付いていないのかかごめは平然とかけらを摘まみ上げ、一同に見えるよう顔の高さへとそれを持ち上げた。 「これ…誰が持つ?」 「(あ…?)」 一同へ意見を仰ぐように言うかごめの指先、そこに見えた小さな変化に弥勒が思わず目を丸くするほど驚いた様子を見せる。 邪気が浄化されたのだ、あれほど重く淀んでいた暗い邪気が。それを確かに目の当たりにした弥勒が呆然とそれを見つめる間、なにやら不満があるらしい表情を露わにした犬夜叉がかごめへ詰め寄るように迫って言った。 「なんで相談すんだよ」 「だって弥勒さまに助けてもらったじゃない」 「私も…それは相談すべきだと思うな」 当然のように言い切るかごめに続いて彩音も頷き彼女の肩を持つ。こうして何度も助けられていて、相手もかけらを集めている人間であれば互いに相談するのは当然だ。弥勒だってそう思っているだろうと彩音たちは考えていたのだが、当の弥勒からは誰も予想しなかった答えが返ってきた。 「…かごめさまがお持ちください」 「え゙…」 「い、いいの? 弥勒…」 あっさりと譲ってしまう彼の提案に三人は驚きを隠せない様子で弥勒を見つめる。それでも弥勒の意思が覆ることはなく、意外そうな顔をするかごめの姿を、弥勒はわずかな戸惑いを秘めながら静かに見つめていた。 「(いまのは見間違いじゃない…この女…かけらの邪気を浄化した…)」 「誰もおらのことを思い出さなかったのかっっ」 「ごめんね七宝ちゃん、怖かった?」 「飴あげるから許して、ね?」 涙目で必死に訴えてくる七宝を宥めるように謝罪する。それどころではなかったことは事実だが、敵陣の真っ只中に向かわせた彼を忘れていたことは事実で、二人は困ったように笑いながら七宝の頭を撫でていた。 その頃、彼女らの背後では大きく盛った土に線香を立てて手を合わせる弥勒と、それをつまらなそうに見やる犬夜叉の姿があった。 「けっ、供養なんかしてやることねーのによ」 「死んでしまえば善いも悪いもありません。あるのは仏の慈悲だけです」 「慈悲だあ? これだから人間の言うことは分かんねえ」 緩やかに細い線を描く線香の煙に背を向けたまま、犬夜叉は呆れたように悪態づく。それに対して弥勒が合わせていた手を下ろすと、静かに目を開くと同時に「犬夜叉」と諭すような声で呼びかけた。 「お前は絵師を斬ろうと思えば斬れたはず。でも斬らなかった。それが慈悲なのです」 「けっ。くだらねえ」 弥勒が微笑みかけながら向けてくる言葉に、犬夜叉は短く吐き捨てるように言いながら背を向けてしまう。 ――そうしてようやく騒動に区切りをつけた一行は再び旅路に着き、次なるかけらを捜すべくゆっくりと歩みを再開させた。そこにはこれまでにはなかった、弥勒の姿も加わっている。 「弥勒さま、一緒に来てくれるの?」 「はい。やはり美しいおなごと一緒の方が楽しいですからな」 「まーっ」 「かごめ、真に受けない真に受けない」 弥勒の言葉に笑顔で喜ぶかごめへ、彩音は呆れたような目をしながら注意を促す。 どうやら弥勒は彩音たちと行動をともにした方が都合も効率もいいと考えたようで、あれほど断ろうとしていた同行の誘いに容易く乗ってきたのだ。彩音としてもそれ自体はよかったのだが、問題は彼のセクハラ紛いの言動。どこか軽薄なところがある彼の言動はどこまでが真実か見極めるのが困難で、彩音はそれを警戒するように弥勒へ少しばかり身構えていた。 するとそれに気が付いたか、弥勒はかごめに向けていた笑顔を彩音へ移し、歩幅を合わせるよう隣に並んで彼女の右手を取った。 「それほど警戒しないでください。彩音さまを騙すようなことはいたしませんから」 「全然信用できない…」 「なぜです?」 「こういうとこ」 そう言いながら彩音は握られる手を指差してやる。言葉と行動が全く合っていないのだ。それを分からせるようにじとー、と細めた目を向けてやれば、弥勒は一切気にする様子もなく笑みを浮かべた。 「これはそういうことではありませんよ。ただ彩音さまの調子を確かめておこうと思っただけですから」 「調子? …って、なんのこと?」 「…いえ、気にしないでください」 彩音が目を瞬かせながら問うが、弥勒はそう言いながらはぐらかすように小さな笑みを浮かべてしまう。そして静かに、そっと手を放される。 またセクハラの類かと思って指摘してやったのだが、どうやらそれは彼が言う通り違ったようだ。呆気なく解放された様子にどこか拍子抜けするような感覚を覚えるまま、自身の右手へ視線を落とす。 そこは握られただけで、別段なにかをされたというわけではない。ただの握手のつもりであったのだろうか、と考えかけた時、ふと、同じように握られた時のことが脳裏に甦った。 それは紅達の死に直面し、怯えてしまった時のこと。犬夜叉に震えを抑えるよう握りしめられたのも、この右手であった。 それを思い出すと同時に、先ほどの弥勒の言葉が再び自身へ言い聞かせるよう甦ってくる。 彩音さまの調子を確かめておこうと思っただけですから」 (…もしかして弥勒も…あの時のこと、見てたのかな) そんな可能性をよぎらせては、ちら、と弥勒の横顔を見やる。しかし彼は特に変わった様子を見せず、「どうかしましたか?」と普段通りの表情で問いかけてくるだけ。 さすがに考えすぎだろうか。気のせいだろうか。本心の読めない彼にそう思ってしまいながら、彩音はなんとなく疑問が残るままに緩く握った右手を下ろした。 そうして気を取り直すように両手を後ろへ回した彩音は「まあ、なにはともあれ…」と口にしながら弥勒の顔を覗き込むよう彼へ向き直る。 「弥勒が一緒に来てくれてよかったよ。一緒に協力した方が、お互いのためになるだろうし」 「そうですね。彩音さまに私の子を産んでもらうことも叶うかもしれませんし」 にっこりと笑みを浮かべながら平然と言う弥勒に「あのねえ…」と訝しむような目を向けやる。せっかくいいイメージを持ちかけていたのに、結局これだ。やはり彼の本心は読めそうにない。 それを思って呆れのため息をこぼしそうになった時、微笑む弥勒の視線が前を行く犬夜叉の背中へと向けられた。 「それに犬夜叉も…見かけと違って善人のようですから」 呟くようにこぼされた言葉に少しばかり目を丸くする。再び彼の横顔を見上げてみれば、それはとてもウソを言っているようには見えない、とても穏やかな表情を浮かべていた。 どうやら弥勒は、知らぬ間に自身の中の犬夜叉の印象を書き換えていたようだ。それが分かる彼の横顔から視線を辿るように、彩音もその先の犬夜叉へ視線を移す。 緩やかな風に銀の髪を微かになびかせる彼は背を向けたまま。一人先を行くその姿を見つめながら、彩音は弥勒の言葉を肯定するように胸のうちに小さく呟いた。 (そうなんだよね…犬夜叉自身がそれに全然気付いてないだけで、本当はいつも…すごく優しい) これまでの犬夜叉の姿を思い返しながらそう考えては、もったいないな、と小さく笑みをこぼしてしまう。するとその視線に気が付いたか、犬夜叉は顔だけを振り返らせて「ん゙~?」と訝しむような声を漏らしていた。

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