12

――わしは地獄絵が好きだった。より恐ろしい絵が描きとうて、戦の跡で無念の亡骸の写生をするのが常であった。 そんなある日じゃ。血だまりの中に――あの不思議なかけらを見つけたのは… 美しかった。血と肝がまるで七色に輝いて… わしはそのかけらを、美しい血と胆ごと持ち帰り――墨に溶かし鬼を描いた。 『もっと…血と胆を…』 なんと素晴らしいことか…わが鬼が生命(いのち)を得たのだ。 幾度も試みを繰り返し、生き胆が最も良いことが分かった。 最初は使用人のものを、そのあとは通りすがりの者を襲い――ちと殺しすぎて、都にいられなくなった。 そして落ちのびたこの地で――わしは姫に出会った―― 以前のわしなら遠くから見つめ、恋焦がれることしかできなかったろうが――今ならこの筆で――わしだけの姫に生命(いのち)を与えることができる。 誰にも――邪魔はさせぬ。 静かなる闘志を燃やしながら、紅達は絵巻を手に窓の外を見つめる。床へ長く広げた絵巻には一点の墨の跡も残っていない。それだけの鬼や妖怪たちを放つほど確実に仕留めんとする彼が見つめる先では、襲いくる鬼たちを次々と鉄砕牙で切り裂いていく犬夜叉の姿があった。 「どけーてめえら!」 怒鳴るように声を荒げ、絶え間なく迫る鬼たちへ幾度となく鉄砕牙を振るい蹴散らし続ける。しかしいくらそれらを倒そうと、発生源である紅達の家からは未だなお絶えることなく鬼たちが量産され続けていた。 それを横目に確かめた彩音は犬夜叉の背中で燐蒼牙を握り、時折鬼たちを殴り払いながら焦りの声を上げる。 「ダメ、キリがない! ずっと出てきてる!」 「けっ、全部たたっ斬って…」 彩音の言葉に吐き捨てるよう言い返していた犬夜叉だが、彼はそれを言い切る前に突然勢いよくダン、と地面へ降り立った。その衝撃に短い声を漏らすほど驚いた彩音が目を見張りながら犬夜叉を覗き込めば、彼は険しい顔をしたまま硬直してしまう。 一体なにごとか、そう思いながら「ど、どうしたの…?」と問いかけた――次の瞬間、犬夜叉は突然目を回してへなへなと地面へ倒れ込んでしまった。 「え!? ちょっ…犬夜叉!?」 「鬼の血の臭気にやられたんだわ。数が多すぎるから…」 どうやらこちらに気が付いたらしいかごめが駆けつけてきてはそう言い、犬夜叉へ手を掛ける。 彼女の言う通りだ。初めて紅達の鬼を目の当たりにした時もたった一体の臭気に気を失ってしまった犬夜叉が、これほど多く充満するそれに耐えられるはずがないだろう。むしろこれまで耐えていたことが信じられないほどだ。 それを理解してはここに留まるわけにもいかず、彩音はすぐさまかごめとともに犬夜叉を遠くへ連れ出そうと手を伸ばした。 ――だがその瞬間、その腕を強く掴まれ体を引き込まれる感覚に襲われた。咄嗟に見張った目をそちらへ向ければ、目の前には自身の腕を掴む馬頭の鬼の姿。そして掲げられた武器の切っ先がこちらへ向けられていることに気が付いた――刹那、目の前で突如眩い光が放たれると同時に鬼の体が消し飛ばされるように散っていく様が垣間見えた。それに驚く間もなく、彩音は体を抱き込まれその場から大きく飛び退くよう離される。 本当に、一瞬の出来事。それに声を漏らすこともできず地に足を着けば、視界を遮っていた深い紫色の袈裟が微かに離れた。 「お怪我はありませんか、彩音さま」 「み、弥勒…」 体を支え、こちらを覗き込んでくる彼の姿に目を丸くする。あの一瞬、咄嗟に鬼を倒し助けてくれたのは弥勒であったようだ。それを実感するように彼を見上げるが、その弥勒はすぐに背を向けて鬼たちを阻むように彩音たち三人の前へ立ちはだかった。 「三人とも私の後ろから離れぬように! 風穴を開きます!」 そう言い切るが早いか、右手に纏っていた数珠をジャッ、と勢いよく取り払ってみせる。直後、解放された風穴は凄まじい風を起こし、空を埋め尽くさんとする無数の鬼たちを容赦なく吸い込み始めた。 抵抗も許されないほどの勢いに虚しく消えていく鬼たち。その光景に「なっ…」と短い声を上げた紅達はたまらず汗を滲ませるほどの驚愕を露わにした。 「わ、わしの鬼どもが…吸い込まれてゆく!」 無敵だとさえ考えていたはずの軍勢が瞬く間に消されていく姿に絶句の声を上げる。それと時を同じくしてかごめや彩音が目を疑うように関心の表情を見せていた、そんな時。不意に弥勒の表情に苦悶の色が滲んだ。 「くっ…」 たまらずそんな小さな声を漏らした途端、弥勒は握りしめた右手へジャッ、と数珠を巻き付けたかと思えばその場に力なく膝を突いてしまう。その姿にたまらず「弥勒…!?」と声を漏らした彩音がすぐさま駆けつけ肩を支えるが、弥勒はそれに振り返ることもなく、ただ右手を握り締めながらその顔にいくつかの汗を滲ませ始めた。 「これほどの邪気を一度に吸い込んだのは初めてだ…いささか疲れました…」 どこか忌々しげにそう呟く弥勒の言葉に、彩音は眉をひそめながら彼の右手を見つめた。 風穴は凄まじい威力を持ち、とてつもなく強力だ。だがどのように有効活用したところで、結局呪いであることに変わりはないのだろう。使い手の体に影響を及ぼしている現状を目の当たりにしてはそれを嫌でも思い知らされ、彩音は得も言われないもどかしさに小さく唇を結んだ。 それと同時、背後で目を覚ましていた犬夜叉が弥勒の背中を見つめたまま、ただ静かに悔しげな表情を強く滲ませていた。 「(ち…ちくしょう…こんな奴に助けられるなんて…)」 自身への不甲斐なささえ感じてしまいながら眉根を寄せた――その時、鬼の軍隊を失った紅達の家から突如地響きのような音が広がり始めた。それは家をわずかに揺らし、大きく軋みを上げる。 主戦力である二人が膝を突いてしまったこの状況、もし次の群を放たれれば勝利はおろか生き残ることすら絶望的だろう。それを覚悟しながら身構えると、激しさを増す地響きにかごめから「今度はなに!?」という驚愕の声が上がった。 次の瞬間、紅達の家から屋根を突き破るほどの勢いで巨大な影が飛び出した。それは三つ首の大蛇のような妖怪。新たな妖怪を放ったかと思われたが、見れば首の一つに大きな籠を背負った紅達が乗っているのが分かった。 ――逃げる!! 誰しもがそう悟った瞬間、苦しんでいたはずの犬夜叉が「くっ、」と声を漏らして紅達へと駆け出した。それに同じく短い声を上げたかごめが驚いた様子で目を見張る。 「犬夜叉、大丈夫なの!?」 「四魂のかけらはどこだ? あのバカから取り上げる!」 「あそこ! 腰の竹筒の中!」 犬夜叉の声にすぐさま目を凝らした彩音が途端に指を差し在り処を伝える。犬夜叉はそれに「よしっ」と声を上げると強く地面を蹴り、瞬く間に紅達が乗る大蛇へと飛び移ってみせた。 だがその時、犬夜叉はなにやらこちらへ振り返り、きっ、と弥勒を睨み付けながら大声を上げた。 「やい弥勒! てめえ、一人でかっこつけてんじゃねーぞバカヤロー!」 牙を露わにするほど大きな口を開けてそう言い放った犬夜叉の姿に彩音たち三人が呆然と立ち尽くす。しかしその途端、犬夜叉を見上げたままのかごめが表情を変えずに胸の前で手を組み合わせながら「ごめんなさい。通訳します」と言い出した。 「ありがとう、あとはおれに任せろ。って…」 「そーは聞こえませんでしたが」 「ちょーっと無理があるね」 輝く目で誤魔化そうとするかごめに弥勒と彩音は呆れ顔を露わにしてしまう。 そんな中、犬夜叉は勢いよく宙を行く蛇の背をジリ…と昇り、先頭の紅達への距離を詰めていた。しかし振り返った紅達がその姿に気付き、すぐさま巻物を取り出しては犬夜叉へ向けてバッ、と強く広げてみせる。それに伴い、またも多くの鬼たちが巻物から飛び出してきた。 その光景に遥か下で見守る三人は不安を滲ませるよう目を丸くする。 「まだいたのか」 「あれ自体は倒せるかもしれないけど…」 「斬ったら、また血の臭気でやられちゃうわ!」 先ほどの犬夜叉の姿が脳裏をよぎり、彩音たちが心配そうに声を上げる。だがその視線の先の彼は焦りひとつ見せることなく、迫りくる鬼たちを前に強く拳を握りしめた。 「悪あがきしやがって!! どけ! てめえらに用はねえ!!」 そう怒鳴りつけると同時にバキバキバキと次々に鬼を殴り飛ばしていく。その躊躇いも容赦もない彼の姿に思わず「おおっ、」と声を上げた弥勒は感心の表情で身を乗り出した。 「あれはどういう術ですか」 「いや…ふつーに殴ってるだけだよ」 感心するまでもないだろう姿に彩音が淡々と言えば隣のかごめがうんうんと頷いてくれる。その言葉通り、術でもなんでもなく犬夜叉はただ力任せに鬼たちを殴り飛ばしているだけなのだ。 だがそのおかげで血の臭気にやられることはなく、全ての鬼を蹴散らしてみせた犬夜叉は大蛇に掴まる紅達へ詰め寄り、バキ、と音を鳴らすほど強く指を曲げながら彼を睨み付けた。 「どうした、もう鬼は品切れか。観念しな…」 「……」 犬夜叉の凄むような瞳と気迫に紅達は汗を滲ませながら黙り込む。その顔に諦めた様子は見えないが、紅達が白旗を上げるのも時間の問題だろう。そう考えたか、下で見守っていた弥勒が落ち着いた声で言った。 「追い詰めましたな」 「でも…犬夜叉は刀を使えないのよ。蛇を斬ったらまた、墨の臭気にやられちゃう」 「あの間合いなら、絵師の首だけ撥ねることもできるでしょう」 戸惑うように言うかごめに対して弥勒は淡々とそう言い捨てる。顔色ひとつ変えることなく。そんな彼の様子とその言葉に、彩音とかごめは言葉を失った様子で弥勒を見ていた。 その時、頭上では蛇の上に立ちはだかった犬夜叉が紅達へ向けて大きな声を上げた。 「さあ、大人しく四魂のかけらを寄越しな!」 「ふっ…愚か者、貴様はわしの描いた絵の上に乗っておるのだぞ!」 「!」 紅達が負けじと言い返してきたその瞬間、二つの蛇の頭が犬夜叉へ向き直りその大きな口を開いて眩い炎の塊を見せた。直後、勢いよく噴射されたそれは容赦なく犬夜叉へ襲い掛かり、瞬く間に彼の体を包み込んでしまう。 「犬夜叉っ!」 「地獄の業火で骨も残さず焼き尽くしてくれるわ!」 彩音がたまらず声を上げると同時に紅達が勝ち誇った様子で言い放つ。だがその時、蛇の体を転がっていた犬夜叉がガッ、と爪を突き立てた。眩いほどの炎に全てを包み込まれるまま、短い声を漏らした彼が蛇にしがみつきながら顔を上げれば、そこに紅達を恐ろしく鋭く睨み付ける双眼が光る。 「てめえ…いい加減にしろよ…」 「なっ…」 一切怯む様子のない犬夜叉の姿に紅達が驚愕を見せる。それは犬夜叉を見守る三人も同様、あれだけの業火を纏いながらも堂々と立ちはだかる彼の姿に眉をひそめるよう驚いていた。 「犬夜叉…平気なのですか」 「で…でも、まだ燃えてる…」 その言葉通り、犬夜叉を包む炎は未だ消えていないどころか勢いさえ治まっていない。そのためかごめが不安げな表情を見せるが、視線の先の彼は気にする様子もなく紅達を睨み付けるままジリ…とその距離を詰め始めていた。 「な…なぜ死なぬ…」 徐々に迫ってくる彼の姿に驚愕と怯えを露わにする紅達がたまらずそのような声を漏らす。するとそれを耳にした犬夜叉は「ふっ…」と小さく声を漏らすほど胡乱げな笑みを見せた。そして、 「バカ野郎! このおれが人間なんぞに殺されてたまるか!」 シャッ、と音を立て勢いよく弧を描きながら引き抜かれる鉄砕牙。業火を振り払うほどの勢いで現された獲物に紅達は「ひっ、ひい~っ」と情けない悲鳴を上げると、わずかに後ずさりながら犬夜叉へ制止の手を向けた。 「ま、待て! 命ばかりは…こ、これを…」 「四魂のかけら…」 紅達が大きく震える手で差し出してきたのは、四魂のかけらが入っているという一本の竹筒。それを訝しむように見つめていれば、紅達は焦りに声を詰まらせそうになりながらも必死に懇願の声を紡ぎ出した。 「これがなければわしはもう鬼など操れぬ。ただの人じゃ」 「けっ、散々人を殺して、血と胆をとっていた野郎が命乞いか」 「わ、わしは元々非力な男…こんなものさえ手に入らなければ…」 「…………」 涙を流すほど怯え、がくがくと震える紅達の姿とその言葉に犬夜叉は眉をひそめたまま黙り込む。やがて「ちっ」と舌打ちをひとつこぼすと、彼は手にしていた鉄砕牙を大人しく鞘へと納めてしまった。 「(斬らんのか…!?)」 手を下さなかった犬夜叉の姿に弥勒はわずかながら顔をしかめる。 それと同時、突如あれだけ怯えていた紅達の口元に怪しげな笑みが浮かんだ。直後蛇の体が真下へ大きくうねり、犬夜叉の体がガク、と崩れ落ちるように宙へ放られる。するとその隙を突くように首を捻った二つの蛇の頭が犬夜叉へ牙を剥き、彼の体を拘束するよう左腕と右脚へ勢いよく喰らいついてきた。 「くっ。ちくしょう!」 思わず短い声を漏らすがそれでも怯むことなく、犬夜叉は腕に喰いつく蛇の下顎へ骨を砕かんばかりの拳を容赦なく叩き込んだ。 だがその間にも紅達は自身が乗る頭を地面へ向かわせ逃げようとする。よほど焦っているのだろう、まだ地面に達していないにも関わらず飛び降りた紅達はバランスを崩し、頭から地面に叩き付けられるよう着地してしまった。 「くっ…」 「てめえっ!」 負傷するほどの衝撃に紅達が小さな声を漏らす頃、逃げようとするその姿を見逃さなかった犬夜叉が声を荒げる。だがそれに一層焦ったか、紅達はすぐさま体を起こすと竹筒だけを握り締めてよろめく体のままその場を駆け出した。 (逃げられる!) 走り去ろうとする紅達の姿にそんな思いをよぎらせ、彩音が咄嗟に地を蹴ってその背を追い始める。すると犬夜叉も自身の脚に喰いつく蛇の口をこじ開け、すぐさま彩音同様に紅達を追った。 「待ちやがれ!」 「かけらを返して!」 「はあっはあっはあっ…」 強く声を投げかけるが当然従うはずもなく、紅達は反論さえする間もなく息を切らせて逃げ続ける。その額や頬には無数の汗と、落下の際に負った傷から流れ出る血が痛々しく伝っていた。 その時、彩音は視線の先のわずかな異変に気が付くと、「なっ…」と声を漏らすほど大きく目を見張った。 「犬夜叉、あれ!」 「!」 咄嗟に犬夜叉へその異変を伝えるよう指を差した先。そこにはボコ…と奇妙な泡立ちを見せる竹筒があった。それは墨が独りでに溢れ出している、明らかな異変。同じく気が付いた犬夜叉も目を見開くと、瞬時によぎった嫌な予感に大声を上げた。 「危ねえ! 手放せ…」 「手放すものか…わしにはまだやることが…え…」

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