12

弥勒が仲間に加わり旅を再開させた一行。だが、その足は弥勒と出会う前に訪れた温泉へと運ばれていた。この先また温泉どころか風呂にも入れないだろうと考えたかごめと彩音から強い要望があったためだ。 浮足立つ二人とそれに連れ立った七宝が温泉に浸かる頃にはすでに日も暮れ、晴天の夜空には煌めく星々が無数に散らばっている。立ち上る湯気越しにそれを見つめながら、かごめと彩音はまたしばらく味わうことができないであろう感覚をじっくりと堪能していた。 「やっぱり温泉は気持ちいいわねー。戻ってこられてよかった」 「犬夜叉の奴は不満そうじゃったがな」 「いいのいいの、いつものことだから。はあ~っ、生き返るう~」 ぐ、と体を伸ばした彩音は気の抜けた声を上げながら溶けるように深く体を浸ける。そんなだらしない彼女を目の当たりにしたかごめは「まー」と声を上げながらどこか呆れる様子で言った。 「やだ彩音、おっさんくさいわよ」 「だって、温泉どころかお風呂にさえ滅多に入れないんだよ? おっさんくさい反応にもなるよ」 「言いたいことは分かるけど…」 「彩音は変わっとるのー」 岩にもたれ掛かりながら当然のように言えばかごめは苦笑を見せて七宝も不思議そうな顔をする。しかし彩音はそれに構わず脱力するよう岩に背を預け、再び紺碧の夜空を仰いだ。 静まり返った夜の森に聞こえるのは、虫の小さな合唱や風に揺れる木々のさざめき、それと温泉の水音くらいであった。犬夜叉たちは離れた場所に待たせているため、彼らの声も届かない。それほどの安らかな静寂に身を包まれながら、彩音はただ静かに思考を巡らせていた。 考えたのは、自身が置かれるこの状況。弥勒が仲間に入り、その彼には成し遂げなければならない重い宿命があることを思っては、そのままずるずるとこれまでのことや自身のことへと思考が及んでしまったのだ。 突然戦国時代に投げ出され、助かるためとはいえ犬夜叉の封印を勝手に解いてしまったこと。自身とかごめの体から出てきた、不思議な力を持つ四魂の玉を不慮の事故で砕いてしまったこと。自身やかごめがかつて存在した巫女の生まれ変わりではないかと言われ、敵対していた犬夜叉とともに玉のかけらを全て集める使命を言い渡されたこと―― 全ての出来事がフィルムのように続けざまに甦り、ふ…と小さく息を吐き出す。 (そのあと殺生丸が現れて、美琴さんのことを詳しく知って…さらには甦った桔梗にまで出会って……こっちにきてから、本当に色々あったな…) 戦国時代で過ごし始めてからそれほど長くは経っていないはずなのに、経過時間に釣り合わないほどの出来事に見舞われてきたことを思い出しては細くため息が漏れる。 これまで経験したそれらの出来事は、どれも忘れられないほど重く胸のうちに存在を残し続けている。だが、それ以上にひどく圧し掛かってくるのは“自分の時代に帰れない”という事実。こちらの時代と自分の時代を行き来できるかごめと違い、彩音は一度たりとも自分の時代である二〇一六年に帰ることができていないのだ。 (…いい加減、自分の時代に帰る方法を捜すべきかな…) 見舞われる数々の出来事にかまけて、いつしか見ない振りをしてしまっていた目的。心のどこかではどうしようもないとさえ諦めかけていたが、戦国時代と現代を両立させようと奮闘するかごめの姿を見ていては気を改めるべきではないかと思わされるのだ。 やるせなさのような、形容しがたい感覚に静かに視線を落とす。不規則に広がる波紋が消えていく様を見つめていた、そんな時だった。 「彩音はどう思う?」 「…へっ?」 不意を突くように投げかけられたかごめの声に、思わず目を丸くして素っ頓狂な声を漏らしてしまう。どうやら彩音が思慮を深めている間にかごめと七宝がなにかを話していてそれを振ってくれたようだ。 しかし彩音はそれをなにひとつ聞いておらず、その様子に気が付いたらしいかごめは不思議そうな顔をして身を寄せてくる。 「どうしたの彩音。ぼーっとしちゃって」 「え、あ…ご、ごめんごめん。ちょっと考えごとしてて…」 「なんじゃ? その考えごとって」 素直に白状すれば七宝がきょとんとした様子で問いかけてくる。どうやらそれはかごめも同じ思いのようで、二人は彩音の答えを待つように目を向けてきていた。 別に考えていたことは大したものではない、が、自分の時代に帰れないことを考えていたなどと話してしまっては辛気臭くなることは明白だ。それを思っては「えっと…」と口籠り、なにか適当なことで誤魔化せないかと途端に思考を巡らせた。 その間にも、七宝とかごめの純粋に気になっているのであろう目が見つめてくる。それに焦らされるような錯覚を抱いた彩音は、二人の気が逸らせそうな話題を頭の隅から咄嗟に引っ張り出した。 「ほ、ほら! 犬夜叉も弥勒も、よく見たら結構イケメンだなー! …とか、思ったり…なんて…」 咄嗟に出たのがこれか。 勢いに任せて口走った言葉にそう思ってしまっては、自分を責めるような思いを抱えながら声を小さくしていく。絶対にもっとマシな話題があったはずだ。どうしてこんなことを…と後悔に苛まれながら深く俯けていた顔を恐々持ち上げてみる。すると案の定、かごめは呆気にとられたようにぽかんとした表情を見せていて、七宝は「“いけめん”ってなんじゃ?」と首を傾げていた。 ほら、やっぱりそういう反応になる。自身を責めるようにそう胸中で漏らしてしまいながらすぐにでも撤回の声を上げようとした、その時。かごめがなにやら表情を真剣なものに変えて彩音に迫りながら問うてきた。 「彩音…まさか二人に惚れて…」 「え゙っ!? ち、違うよっ。そんなわけないじゃん!」 「そ…そうよねっ。好きになっても犬夜叉か弥勒さま…どっちか一人だけよね」 「まあ二人同時は…って、そうじゃない! 否定したいのはそこじゃないからっっ」 ぶんぶんと首を横に振りながら力強く否定してやれば、なんとか分かってくれたらしいかごめがその勢いに気圧されるよう「そ、そう…」と小さく声を漏らした。つい必死になってしまったが、誤解は免れたらしい。それを察しては脱力するように顔まで浸かり、ぶくぶくぶくとため息を泡にした。 すると不意に、不思議そうにしていた七宝が言う。 「では、彩音はどっちが好きなんじゃ?」 「ごぼっ」 しれっと放たれる突然の爆撃に思わず吹き出してしまう。おかげで何度か咳き込んでしまいながらもなんとか呼吸を整えると、ずい、と顔を迫らせて彼の頬を大きくこねくり回した。 「し・っ・ぽ・う~?」 「な、なんじゃ、そういう話ではなかったのか~っ」 「ほら、七宝ちゃんもそう思うわよねー」 不意にかごめがそう言いながら七宝をひょい、と抱き上げるよう救出する。どうやらかごめは仲間を見つけたことで強気になっているらしい。彼女の楽しむような目がそれをありありと語っている。 「で、どうなのよ彩音。白状しなさい」 「白状もなにも…別に好きって言ってるんじゃないの。ただ単純に、顔がいいなと思っただけ」 そう説明をしながら照れてしまいそうになる。確かに犬夜叉と弥勒に対してそう思っているのは事実だ。だがそれを口にするのはやはり恥ずかしいものがあり、もうこの話は終わりだと言わんばかりにふい、と顔を背けてやった。 しかし、肝心のかごめが諦めてはくれない。 「じゃあどっちがタイプかくらいあるでしょ? それならどっち?」 「いや、それは…」 「あっ。ま…まさか二人じゃなくて…殺生丸がいいとか言うんじゃないでしょうね!?」 「なっ…だ、だからっ、そういうんじゃないって言ってんのーっ」 これでも食らえ! そう言わんばかりにバシャ、とかごめへお湯をかけやる彩音。するとそれにはかごめも「きゃっ。やめなさいよ~っ」と言いながら笑い、七宝共々応戦するように反撃した。そのおかげか三人はいつしか質問のことなど忘れ、ただ楽しそうに笑いながらお湯を掛け合っていた。 ――その姿を木陰からこっそりと覗く、人影が二つ。 「いやはや…おなごの戯れは良いものですね。あの中に入れる七宝が羨ましい限りです」 「なにバカなこと言ってやがる…別に問題はなかったんだ。さっさと戻るぞ」 木陰から温泉の方を眺める弥勒へ犬夜叉は呆れた様子で言ってやる。 二人はやけに温泉の方が賑やかで、念のためにという弥勒の提案で様子を見に来ていたのだ。しかし実際にはただ雑談に盛り上がっているだけ。特に異常のないことを確認すると、犬夜叉は待たされる退屈な時間に「つまんねー」とぼやきをこぼしていた。 「そう言いながら、犬夜叉もしっかり見ているではないか。素直に楽しみなさい」 「ばっ…」 横へ来いと言わんばかりに手招きをする弥勒に思わず大声で反論しそうになるが、咄嗟に我に返ってはそれを押し込めるように黙り込んだ。ちら、と様子を窺ってみるが、賑やかに戯れている三人には先ほどの短い声も届いていないらしい。それを確認しては安堵のため息を微かにこぼし、弥勒と目線を合わせるようにしゃがみこんで深く顔を迫らせた。 「勘違いすんな。おれはおめーがヘンなことしねーか見張ってんだ」 「なに、私はここで見ているだけ。手出しはしませんよ」 「それもダメだって言ってんだよっ」 平然とした様子を見せる弥勒へ犬夜叉はひそめながらも反論の声を上げる。しかし弥勒がそこを離れる様子はなく、お構いなしに彩音たちの方へと視線を向けていた。 殴ってでも向こうへ連れて行くか。そう考えるもそんな物音を立てれば三人に見つかってしまう可能性が高く、どうしようもない現状に困り果てた犬夜叉は「おれは見ねえぞっ」と吐き捨てるなり背を向けてしまった。 しばらくすれば弥勒も覗きをやめるだろう。そう思って大人しく待つことにしたのだが彼は一向にやめる気配がなく、さらには「ところで犬夜叉」と視線を温泉に向けたまま唐突に声を掛けてきた。 「お前も先ほどの話は聞きましたね?」 「あ? どの話だよ」 「“たいぷ”という言葉は分かりませんが…話の流れ上、恐らく彩音さまの好みの話です」 そう話す弥勒の言葉にぴく、と耳が揺れる。弥勒はなにを思ってそのようなことを言い出したのか…訝しむように、確かめるように振り返ってみれば、彼もまたこちらへ振り返り真っ直ぐな瞳を向けてきていた。 「彩音さまは結局あの問いに答えてはいない。…ということは、まだ決めあぐねているのかもしれんというわけです」 「だ、だからなんだよ…」 なにやら真剣に、言い聞かせるようにそう告げてくる彼に息を飲んでしまいそうになる。それほどの様子にわずかながら眉根を寄せて見つめれば、弥勒の表情はころっ、と普段通りのものに変わって人差し指を立ててきた。 「私とお前さまで、勝負しようということです」 「……はあ!? なんでそんな話に…」 あまりに唐突すぎる提案に再び大きな声を上げてしまう犬夜叉。それを途端にはしっ、と押さえた弥勒はしばらく様子をみるように黙り込み、どうやら三人に気付かれていないらしいことを確認しては安堵のため息をこぼした。そして犬夜叉から手を離し、彼を説得するように言葉を続ける。 「考えてもみなさい。一人のおなごを狙う男二人が、この先平穏に旅を続けられますか」 「べっ、別におれは彩音のこと…って、おい。弥勒おめー、本気で彩音のこと狙ってたのか…!?」 「なにをいまさら。私は一度も冗談などとは言っていませんよ」 「な゙っ…」 飄々と告げられる弥勒の言葉に犬夜叉は愕然と目を見張る。これまでの弥勒の彩音に対する言動は本気ではないと思っていた。だがそれが勘違いだと思い知らされては一層眉根を寄せ、ただ信じられないとばかりの表情を浮かべることしかできない。 そんな犬夜叉を見て、弥勒はなんら変わった様子もなく平然と続きを口にした。 「この先の平穏のためにも、どちらかが彩音さまを正式にもらい受けることが最適だと思ったのですが…犬夜叉にはその気がないようですね。ならばやはり私が…」 「おい」 低く、短く吐き出された犬夜叉の声が弥勒の言葉を遮る。それに口をつぐんだ弥勒が顔を上げてみれば、先ほどまでとは打って変わった表情を浮かべる犬夜叉がはっきりと告げた。 「その勝負、受けてやるよ」 その表情と同じく、真剣な声色。それを向けられた弥勒は思わず少しばかり目を丸くしてしまったのだが、それを伏せて小さく笑みをこぼすと「望むところです」と言い返した。 「勝負に方法は問いません。どちらかが彩音さまをその気にさせたら勝ち。それでよろしいか?」 「…ああ。だが一つだけ条件がある」 「条件?」 思わぬ言葉につい呆気にとられたような顔をしてしまう。まさか犬夜叉が条件を提示してくるとは思わなかったのだ。一体どのようなことを言い出すのか、そう考えながら犬夜叉を見つめれば、彼は凄むような気迫で顔を迫らせ言い切った。 「スケベなことは絶対にするな」 「……はあ。そんなことですか」 拍子抜け。まさにそのような感覚で脱力するよう呆れれば、対する犬夜叉は「当たり前だっ」と声を上げるほど食い掛かってきた。 「おめーはすぐ女に手を出そうとするだろっ。それは絶対になしだ」 「仕方ありませんね…ではこの勝負において、手を出すようなことはしないでおきます」 「この勝負以外でもだっ」 「……善処しましょう」 「信用ならねー間だな」 どこか不服そうにも見える弥勒の姿に犬夜叉はじとー、と疑いの目を向ける。あまり信用できない予感はするが、ここでいくらなんと言おうとそれは変わらないだろう。それを感じた犬夜叉は大きくため息をこぼし、弥勒を誘うように立ち上がりながら踵を返した。 「いい加減戻るぞ。見つかったら勝負どころじゃなくなるからな」 「それもそうですね」 仕方ない、そう言わんばかりに重い腰を上げた弥勒は先を歩く犬夜叉のあとに続く。焚火をくべている待機場所までの短い道のり、そこを辿る犬夜叉は行く先を見据えたまま静かに思いを抱えていた。 「(正直彩音のことをそういう風に見るのはよく分からねえ…でも誰かにとられるのだけは…それだけは、なんか嫌だ)」 自分ではない誰かに笑い掛け離れていく彩音の姿が脳裏に浮かび、胸がざわつくような落ち着かない感覚に包まれていく。 その後ろ姿を眺めながら歩を進める弥勒は、彼が言いようのない感情に見舞われていることを静かに感じ取っていた。 「(少し確かめる程度のつもりだったが…案外その気なのかもしれないな。これは苦労しそうだ)」 眉根を寄せながら、それでも小さく笑みを浮かべる。次第に姿を現した焚き火は、風のない夜に大きな揺らめきを見せていた。

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