03

「飛刃血爪!!」 聞き慣れない言葉が響かされたかと思えば、掠れかける視界に赤いなにかが過ぎ去ったのが垣間見える。すると途端に彩音の首に巻き付いていた髪が緩み、同時に腕や足を拘束していたそれも解けるように彩音を解放した。 だが、支えを失った彩音の体は力なく落下する。その勢いのまま地面に叩きつけられることを覚悟しかけた刹那、髪を握りしめる犬夜叉が勢いよく飛び込んできては彩音の体を抱き込むように容易く受け止めてみせた。 「い…犬夜叉…」 「ったく、手間のかかる女だな」 面倒くさげにそう言うと、犬夜叉は傍の岩場に着地してトン…と彩音を降ろしてくれる。首に浅い傷をつけられたが、それ以外は目立った傷もなく無事な様子。それを確認した犬夜叉は彩音とともに結羅へ向き直ったのだが、彼女は手首から先を失った自身の右腕を呆然と見つめているようだった。 「あたしの手…」 「ふっ、手がなけりゃ髪も操れねえだろ」 挑発的にそう言いやる彼が持ち上げた手の平や爪は赤く染まっていた。恐らく強く握りしめることで爪を食い込ませ、その血を刃として使ったのだろう。それを悟った結羅は左手を腰の刀へ触れさせながら冷ややかに目を細めた。 「往生際の悪い奴ら…さっさと諦めていれば楽に殺してあげたのに…」 「けっ。残念だったな。てめえなんぞにくれてやる命は持ち合わせてねえんだ!」 結羅の胡乱げな笑みを一蹴するように吠え掛かる犬夜叉。だが対する結羅の表情が崩れる様子はなく、次の手を示すようにゆっくりと腰の刀を抜いてみせた。 「その強気な態度…いつまで持つかしら」 そう呟くように言うと結羅は勢いよく髪から飛び降りてくる。その左手に掲げられる刀が向く先は――彩音だ。それに気が付いた瞬間わずかに舌打ちのような音が聞こえたかと思えば、強く突き飛ばされるような衝撃の直後、ドカッ、という鈍い音が響き渡った。 「! 犬夜叉っ!」 はっと目を見開けば、目の前には背中から大きく血しぶきを上げる犬夜叉の姿。彩音を突き飛ばした彼が、代わりに結羅の刀の餌食となったのだ。 「よかった。あんたは髪だけじゃ殺せないから、これでも斬れなかったらどうしようかと思ってた。どお? あたしの愛刀“紅霞”。これはね、髪を斬らずに肉と骨を断つ鬼の宝刀」 結羅はそう告げながら刀身に付いた血を小さく舐め取ってみせる。あれだけ髪に触れても傷一つ負わなかった犬夜叉だが、鬼の宝刀ともなれば話は違うようだ。地面に膝をつく彼の白小袖があっという間に深い赤に染められていく。 彩音がそれに顔を強張らせてしまう中、対峙する結羅がその程度で手を止めるはずもなく、彼女の手は再び刀を大きく振り上げた。 「つまりあんたの髪を傷つけることなくあんたを切り刻めるってわけよ!」 とどめを刺さんばかりに勢いよく振り下ろされる刀。彩音が声すら上げられないほど強く息を詰まらせたその瞬間、地面に強く手を突いた犬夜叉は結羅の下へ潜り込み、彼女の胸へ力の限りで鋭い爪を突き込んだ。 「!」 目を見開く結羅の背後に見えた、犬夜叉の手。確かに彼女の胸を貫いてみせるその光景に驚きながらも勝利を確信すれば、犬夜叉の腕はそこからズボ、と音を立てるほど強く引き抜かれた。 「けっ、ざまあみやがれ… !」 「え!?」 結羅の血に濡れる犬夜叉の手、突如そこへ容赦なく突き立てられた刀に目を疑う。なぜならそれを刺したのが他の誰でもない、結羅本人だったからだ。谷間に大きな空洞を作った彼女は顔色ひとつ変える様子もなく犬夜叉を見下ろし、手にした刀をしかと犬夜叉の手に刺しつけている。 「図々しいわね。会って間もない女の懐に腕突っ込むなんて。ふんっ、しかもちゃっかり四魂の玉まで掴み出して」 平然と、それでいて呆れを見せる結羅は髪を差し向け、犬夜叉の手の下からたっぷりと血を吸った小袋を引き抜き取り返してしまう。 またも奪われてしまった。だがそれより、二人は“胸を貫かれたはずの結羅が生きている”という事実に言葉を失うばかりであった。 犬夜叉が結羅を貫いたのは見間違いだったのか。気のせいだったのか。そう思ってしまうが、目の前の彼女の胸にしっかりと開いた穴は向こう側の景色を覗かせていて、見間違いでもなんでもないということを嫌というほど伝えている。 ならばなぜ結羅は生きている。どうすれば結羅を倒せる。そればかりが脳内を巡って呆然とするように結羅を見つめていれば、それはどこか見下すような冷ややかな目を向けてきた。 「考えたって無駄よ。あんたたちにあたしは殺せない」 「っ…」 こちらを見るその目が、彩音の焦燥感を駆り立てる。彼女を倒す方法が分からないこの状況では成す術もなく、いずれ自分たちが殺されても不思議ではない。それを思うといても立ってもいられず、彩音はすぐさま背負っていた弓矢をその手に構えた。 「あんたなんかに…殺されてたまるかっ!」 そう叫ぶと同時に強く引いた矢を放つ。バシュ、と音を立てて勢いよく飛んだそれは結羅の方を向いていたが、彼女に当たることはなく真っ直ぐに過ぎ去っていく。避けるまでもない、そう感じてしまうほど離れていた矢に結羅は呆れ果て、ついにはため息さえこぼして彩音を見下ろした。 「なーに、それ。どこ狙って…」 彩音を馬鹿にするようにこぼす結羅だったが、過ぎ去る矢が髪を消してしまうほんの一瞬の光景に目を疑った。そして背後からわずかに聞こえたパシ…という音に嫌な予感を覚え、咄嗟に振り返る。 その瞬間思わず「あっ…」と声を上げた彼女が見たもの、それは彩音の矢が刺さったことで溶けるように崩れ中身を露わにしてしまう自身の巨大な巣であった。 「なっ…!?」 「ひどーい、あたしの獲物が…」 ガラガラガラと騒々しい音を立てて姿を現す大量の白い頭蓋骨に彩音が顔を歪め、結羅は軽い悲鳴を上げる。どうやら結羅は今まで殺してきた者たちの髪を頭ごと持ち帰っていたようで、巣の髪に絡められたそれらの中には未だ骨と化していない生首さえもぶら下がっていた。 「っ…」 「さっきの落武者どもの首か…」 たまらず目を背けてしまう彩音に反し、犬夜叉はその首を静かに見据えながら焚火の元で見た光景を思い出す。これまで彼女の餌食となった人間はもう数え切れないほどだろう。巣の下方に雪崩れるようぶら下がる白骨にそれを思っていれば、髪を手繰るように離れていった結羅が犬夜叉へ胡乱げな笑みを向けた。 「あんたの首もすぐにあの中に加えてあげる。本当は仲良く女の首もいただこうと思ってたんだけど…」 結羅の視線が彩音へ向けられるに伴いその声色が低くなる。浮かんでいたはずの笑みもいつしか消えると、結羅は持っていた刀を納めてチャッ、と朱色の櫛をかざして見せた。 「女!! あんた怖いから死んで!」 「! いやっ…ああ!!」 突如勢いよく振るわれた櫛から放たれる炎の線たち。どうやらそれは炎を纏った髪のようで彩音が抵抗する間もなくその体へ巻き付いてしまった。するとその勢いは増していき、轟々と燃え上がる炎が瞬く間に彩音を包み込む。 その光景に「くっ」と声を漏らした犬夜叉が弾かれるように駆け寄ろうとするが、その体はすかさず向けられた髪の毛たちに拘束されて強引に持ち上げられてしまう。「ダメよ。助けになんて行かせない」そう呟くように言う結羅は櫛を当てる口元に不穏な笑みを浮かべ、燃え盛る彩音を蔑むように見下ろした。 「どお? あたしの“鬼火髪(おにびぐし)”。あの女、骨も残らないよ」 「てめえ…あいつの髪が欲しいんじゃねえのかよ…」 「仕方ないじゃない。あの女の矢、危なっかしいんだもの」 睨視してくる犬夜叉を気にする様子もなく、結羅は消され千切られた髪を自分の元へ手繰り寄せる。彩音の破魔の力は結羅にとって相当分が悪いのだろう。消された部分に触れながらそれを感じ取った結羅は髪を放し、すぐに櫛から刀へと持ち替えて犬夜叉へ向き直った。 「あんたの大事な女は死んだ。あとは半妖…あんただけよ」 「くっ…」 「安心して。あんたもすぐ、女と同じあの世(ところ)に行かせてあげる!」 結羅はそう言い放つと勢いよく犬夜叉へ襲い掛かる。だがその刹那、犬夜叉の背後から彼の頬を掠めてなにかが過ぎ去った。それは鈍くも凄まじい音を立てて結羅の残された左手を飛ばし、瞬く間に彼方へと消え去っていく。 「当たった…!」 「女っ…!!」 バランスを崩す結羅が見たもの、それは焼かれたはずの彩音が弓を握りしめて立つ不可解な姿だった。 確かに鬼火髪によって焼いたはず。だというのに彼女は初めて狙い通り射止められたことを驚いており、平然としているどころか怪我すらも負っていない様子。一体どうして――たまらずそんな思いがよぎると同時に、周囲では地響きのような音とガラガラガラという頭蓋骨たちがぶつかり合う騒々しい音が大きく響き始めた。 結羅が両手を失ったことで髪を支えるものがなくなり、巨大な巣や周囲へ張り巡らされたもの全てが保てなくなったようだ。それにより雪崩のように崩れる髪と頭蓋骨は、あっという間に眼下の地面を埋め尽くしていく。その時、それを見つめていた彩音は巣の奥から現れた一つの頭蓋骨に小さな違和感を覚えた。 なにかが他とは違うそれ。いったい何が…そう目を凝らすと、数本の光る髪が垣間見えた気がした。 (あの髪…! もしかしたらあの頭蓋骨が…結羅を倒すヒントかも!) そんな予感をよぎらせてはすぐさま頭蓋骨で埋め尽くされた地面へ駆け出した。不安定な足場に何度も体を傾けながら、それでも懸命に駆け続けて遠くに見えるそれへ向かっていく。 だがその時、不意にヒュン、と風を切る音が聞こえた気がした。それに気付いた次の瞬間、突如なにかに背中を勢いよく殴りつけられドシャ、と倒れ込んでしまう。 突然の強い衝撃。思わず小さく咳き込みながら振り返ると、そこには月明かりを鋭く反射させる刀を握った結羅の手がひとりでに宙に浮かんでいた。 「なに? なんで傷もつかないの? 身体はただの人間にしか見えないのに…」 ガラ…と音を立てて歩み寄ってくる結羅が忌々しげな目で見降ろしてくる。彼女は確かに両腕を失っている。だというのに髪を操り、落としたはずの手を自在に扱っていた。その不可解な状態に思わず顔をしかめると、結羅は一層眉根を寄せて彩音を睨み付けた。 「ほんと怖い女…あんただけはさっさと始末しておくんだった!」 「っ!」 ビュッ、と強く風を切る音が鳴る。振り下ろされる刀に思わず強く目を瞑ったその瞬間、「飛刃血爪!!」という怒号に近い声が大きく響き渡った。直後複数の血の刃が刀を弾き、同時に結羅の手を切りつけていく。それに目を見張った結羅が振り返れば、爪に血を滴らせる犬夜叉が結羅を鋭く睨み付けていた。 「てめえの相手はこのおれだ!」 もう一度振るった血の刃が結羅へ迫る。たまらず強く舌打ちした結羅は両腕を失っていても軽々と飛び上がり、それを難なくかわしてみせた。だがすぐに「あんた邪魔!」と叫び上げると、鋭い刀の切っ先を犬夜叉へと迫らせる――その瞬間、結羅の体にピシッ、と電撃のような衝撃が迸った。 はち切れんばかりに見開かれたその目が捉えたもの。それは彩音の放った矢が、ただ一つの頭蓋骨を貫く光景であった。眼窩から十本の光る髪を伸ばすその頭蓋骨。それが割れた隙間から覗く、同様に貫かれた朱色―― 「櫛!!」 犬夜叉が思わず声を上げたそれは、結羅が操っていたものとは別のもう一つの櫛。それを見とめた次の瞬間、櫛は耐えきれなくなったようにパン、と乾いた音を立てて砕け散った。 すると突然結羅の体が輪郭を失うように薄まって。瞬く間に霧散した彼女は、身に着けていたもの全てを残して虚空に溶けるよう消え去ってしまった。同時に頭蓋骨の地面へ刺さる鞘に引っ掛かった結羅の着物が、彼女の無念を現すようにバタバタと音を立てる。 ――ようやく終わった。それが分かるほどの静寂に包まれる中、息の詰まるような緊迫感を一気に失った彩音は呆然とその場にへたり込んでいた。 「やっぱり…あの頭蓋骨が結羅の弱点…」 「結羅の野郎…櫛に魂移ししてやがったんだ。斬っても突いても堪えなかったわけだぜ…」 彩音の言葉に続くよう犬夜叉が小さく声を漏らす。それによって振り返った彩音は慌てて彼の元へ駆け寄り血だらけのその体に触れようとしたが、躊躇うようにその手を迷わせた。 「い、犬夜叉…あの、ごめん…私が衣を借りちゃったからこんな…」 「大したことねえっ、それより四魂の玉…」 すぐに衣を脱いで返そうとするが勢いよく体を起こす彼は結羅の着物を見上げる。きっと四魂の玉のかけらはそこにあるということだろう。彩音は犬夜叉に衣を返すと「ここにいて」とだけ言い残し、すぐに駆け出した。 頭蓋骨だらけの足場は不安定なうえに気味が悪くて仕方がないが、結羅が頭蓋骨の頂上で消えてしまった以上そこまで登らなければならない。それに恐々と顔をしかめながら、それでもなんとか頭蓋骨の山を登って行き、ようやく結羅の着物の元へと辿り着いては視線を落とした。 「あ、あった…うん。ちゃんと入ってる」 落ちていた小さな巾着袋を拾い上げ、中のかけらを摘まみ上げる。あれだけ激しい闘いに揉まれていたが、かけらに破損などはなさそうだ。それを確認しては思わず安堵と、それとは違うため息が口を突いて出てしまう。 (これ一つでもこんな大変な目に遭ったのに、全部集めなきゃいけないんだよね…全部なんて…この先、どれだけ時間がかかるんだろ。そもそも…集められるのかな…) 「おい。行くぞ、彩音」 もう一度大きなため息をこぼしかけた時、ふと背後からぶっきら棒な犬夜叉の声が投げ掛けられる。思わずその声に目をぱちくりと瞬かせた彩音は呆気にとられるように振り返って、平然と立つ犬夜叉の姿をじっと眺め始めた。 「なんでい」 「い、今…私の名前、呼んでくれなかった…?」 「…それがどおした」 何度も目を瞬かせる彩音に対して犬夜叉は至極普通、それどころか彩音の方が変な反応をしていると言わんばかりに訝しげな顔を向けてきていた。しかし彩音はぱっと表情を明るくし、輝く目で嬉しそうに犬夜叉へ身を乗り出した。 「初めて! 犬夜叉が私の名前呼んでくれたの初めてだよっ。ねっ、ねっ、もう一回呼んで?」 「はあ? なんでだよ」 「だって一気に仲良くなれた感じがするじゃん。だから、ね? お願いっ」 ぱんっ、と手を合わせて頼み込む彩音。その姿に眉をひそめた犬夜叉は呆れたような表情を見せると、やがて「けっ」と吐き捨ててそっぽを向いてしまった。 「そう簡単に呼んでやるかよ。調子に乗んな」 「ええーっ、いいじゃん。犬夜叉のケチーっ」 「なんとでも言いやがれ」 仏頂面を浮かべては彩音を置いてさっさと歩き始めてしまう犬夜叉。彩音はすぐにその背中を追いかけながらぶーぶーと頬を膨らませていたが、やがてそれも小さな笑みに変えて隣に並び、犬夜叉の顔を覗き込むように腰を屈ませた。 「色々大変そうだけど、改めてこれからよろしくね、犬夜叉」 そう言って柔らかく微笑みかけてくる彩音の姿。それを見た犬夜叉はかつての巫女とその姿が重なりそうになった。だが、確かに違う。どうしてか彩音からは彼女特有の明るさや楽しげな雰囲気が感じられて、つい目を奪われるように黙り込んでしまった。 しかしそれも束の間。すぐにいつもの仏頂面に戻ると、またも「けっ」と吐き捨てて村の方へと向かって歩いて行った。 「お捜ししましたぞ…犬夜叉さま」 頭蓋骨の上をピン、と跳ねながら移動する小さな影。それはようやく辿り着いたこの地から離れていく犬夜叉の背中をただ真っ直ぐに見つめていた。

prev |5/5| next

back