03

鳥たちのさえずりや木々のざわめきが鼓膜を緩やかに刺激する。そんな中で二人は一歩一歩を踏みしめるよう、辺りを強く警戒しながら進んでいた。 それもそのはず。二人がこの道で野盗に襲われたことはまだ記憶に新しいのだから。あの時は玉のためとはいえ犬夜叉が助けてくれたが、今回は先ほど言い合いをしたばかり。もしなにかあったとしても、もう彼が助けに来てくれることはないだろう。 (……さすがに…きつく当たりすぎたかな) あの時助けてくれたことを思い出すと先ほどの自分の対応に不安を覚えてしまう。しかし思い返せば思い返すほど頭に強く蘇るのは不躾で無礼な彼の物言い。終いには“へっ”と馬鹿にするよう顔を逸らされる光景が甦ってくると、いましがた感じていたはずの後悔に似た不安が、ほんの一瞬でウソのように消え去っていった。 (うん、私が悪いんじゃない。あいつがあんな態度なのが悪い) さっきの後悔はきっと気のせいだ。まるで自分にそう言い聞かせるようにぱん、と軽く頬を叩いては頭に残る犬夜叉の姿を掻き消す。 そしてずかずかとかごめのあとを追っていけば、その彼女から「あ!」と短い声が上がった。それに視線を上げてみればかごめが笑顔を振り返らせている。 なにか見つけたのだろうか。誘われるままに彼女が掻き分ける茂みの向こうを覗き込んでみれば、開けた空間の中央に鎮座する古めかしい木製のものが見てとれた。 「か…枯れ井戸っ…!」 ようやく見つけたそれに思わず上ずった声を漏らしてかごめを見る。すると彼女もこちらを見つめ、互いに決意するよう頷き合った。 これが、帰宅へのヒント。このような枯れ井戸が元の時代に繋がっているかどうかなど分かりもしないが、他に手段が思いつかないいま、これを試さずにはいられない。たまらず駆け足で井戸に近付いては、すぐにその縁へ手を掛けた。 (私たちはここから出たんだ…ここなら、きっと…) まるで縋るような気持ちでかごめとともに井戸の中を覗き込んだ――その瞬間、二人は底に見えた影にギク、と肩を震わせる。 井戸の底は薄暗く、はっきりと見えるわけではない。だがそこには確かに物々しい骨の数々が投げ込まれているのが見てとれたのだ。 「骨…?」 「なんでこんなとこに…」 そう呟いた時、ふと楓に聞かされた話を思い出した。それはこの井戸が骨喰いの井戸と呼ばれ、物の怪の亡骸の捨て場にされているという話。ここに投げ込まれた亡骸は何日か経つとどこかへ消えてしまうようで、付近の人間はいつもここに亡骸を捨てているのだとか―― おかげで骨が捨てられていることに納得はしたのだが、同時にそんな話を思い出したことをひどく後悔してしまう。なぜならば最近この付近の村で退治された妖怪など、あまりにも身に覚えがありすぎるからだ。 (じゃあこの骨は…百足上臈の…) 思い出さなければいいのに、意思とは関係なく自分たちを襲ったあの女妖怪の姿が脳裏に甦る。おかげで不安は膨らみ、もし復活でもしたら…と余計なことばかり考えてしまう。そのせいか足が竦み、いつしか後ずさるように数歩離れてしゃがみ込んでいた。 それは彩音だけではない。かごめも同じことを考えてしまったのか、怯えた様子で腰を落とし固まっているようだった。 せっかくここまで来られたのに…そんな思いを滲ませながらわずかに震える体を押さえていると、こんな自分たちとは対照的なほど楽しげに鳴き合う雀が飛んでくる。静かなこの場所には雀の鳴き声がよく響き、まるでその声に恐怖が緩和されるような心地よささえ覚え始めた、その時だった。 突然その声がピタリと止み、代わりにバタバタと不揃いな音を鳴らしてなにかが彩音の足元に落ちてくる。 胸がざわつく感覚。瞬時にそれを抱きながら視線を落とすと、そこには胴体が真っ二つに分かたれ翼さえも千切れた雀の残骸があった。 「ひっ…!?」 その恐ろしい光景に驚きのあまり息を詰まらせて後ずさる。その直後、どういうわけか彩音の右腕と頬から小さく血が噴き出した。 「っ!?」 「彩音!?」 彩音が鋭い痛みに顔を歪めると同時。目を丸くしたかごめが驚くように立ち上がった瞬間、突如かごめの右頬にも同様の赤い線が走った。 なにかある。それを悟っては体を強張らせる二人が視線を上げると、辺り一面に至極細い糸のようなものが張り巡らされているのが見えた。 それは、先ほどまで確かになかったはずのもの。これが自分たちを切り付けたのか。にわかには信じがたくもそう推測して目を凝らせば、その黒く細い糸は独特の光沢を持っており、日の光を白く艶やかに反射させていた。 見覚えのある質感、光沢。二人が糸だと思っていたこれは―― 「「髪…!?」」 「ふうーん、あんたたち…視えるんだ。あたしの“髪籠(くしのかご)”。でも視えるだけじゃ駄目」 不意に降らされる声。それに咄嗟に振り返れば、先ほど彩音たちを傷つけた髪の上に平然と立つ見慣れない女の姿があった。 黒い髪を短く切り揃え、面積の少ない黒い着物を纏うそれは、大した興味もなさそうな薄い笑みで静かに見下ろしてくる。よく見れば周囲に張り巡らされた髪は全て、彼女の十本の指に繋がれているようだった。 「誰!?」 「逆髪の結羅。覚えなくてもいいよ。あんたたちもう…んー?」 結羅と名乗る女が手を振り上げようとした時、それはすぐに目を細めるようにして止められた。その目が捉えるのは彩音の姿。どういうわけかじっと見つめてくる結羅に眉をひそめると、突然どこからともなく髪の束が現れ彩音の両腕に巻き付いた。 「えっ!?」 「彩音!」 巻き付いた髪は突然グイ、と彩音の体を引っ張り上げ、抵抗する暇も与えないまま結羅の目の前へ吊るしてしまう。突然のことに目を白黒させる彩音だが、その眼前に立つ結羅はまじまじと彩音の髪を見つめ始めていた。 なにが目的なのか、なにがしたいのか。困惑する頭でそんな思いを巡らせていれば、不意に結羅の白い手が伸ばされ、まるで彩音の髪を梳くようにスルリと撫で下ろした。 「すごい…吸い込まれそうなくらい綺麗な髪…」 うっとりと、恍惚に浸ったような甘い声で囁かれる。その目はまるで恋に落ちた少女のように柔らかく真っ直ぐで、それを目の前にした彩音はあまりの豹変ぶりにたまらず口元を引きつらせてしまった。 しかしそれも束の間。突如髪をグイ、と掴まれると結羅の目は挑戦的な、強気な色へと変貌した。 「決めたわ。あんたの髪、あたしのものにしてあげる」 「はっ…!?」 わけの分からない宣言に思わず目を丸くする。だが突きつけられた不敵な笑みは紛うことなく本気で、その瞬間頭のどこかからけたたましい警鐘が鳴り響く錯覚を抱いた。 逃げなければ、早く、今すぐに。そればかりが頭の中を巡るが彩音の両腕は髪の束で拘束されており、振り払うことすら叶わない。 一体どうすれば――そんな思いがよぎったその時、突然小さな石が結羅の傍を過ぎ去った。はっと振り返ってみれば、眼下にいくつかの小石を握りしめたかごめの姿。 「彩音を放して!」 勇敢な彼女はそう言い放つと同時に再び小石を投げつける。結羅は大してかわす動作もなくそれを避けてみせるが、かごめを見下ろすその表情は確かに怒りの色を滲ませていた。 「なによあんた…生意気ね」 舌打ちせんばかりに唇を歪めた結羅は突如右手を大きく振り上げた。その瞬間周囲の髪がかごめを鞭打つように叩き付け、咄嗟に身を縮めた彼女の巫女装束を細く鋭く切りつけていく。すると結羅は腰の刀に手を掛け、 「あんたは死んでいいよ!」 そう声を上げながら勢いよくかごめへ襲い掛かった。途端に彩音が「かごめ!!」と叫ぶも刀は無情に振り切られる。 だがそれは驚いたかごめがバランスを崩したことで空を切り、そのかごめは井戸の中へ落ちてしまうようグラリと倒れ込んだ。 「逃げたって駄目!!」 井戸へ真っ逆さまに落ちていく彼女へ結羅は追い打ちをかけるよう刀を投げ入れる。しかしすぐに「ん?」と不思議そうな声を漏らし、刀に繋いだ髪を呆気なく引き上げてしまった。 どうしたのだろうか。かごめの安否も分からず鼓動が早くなる中、彩音はこめかみに一筋の汗を伝わせながら結羅の様子を見つめた。 すると結羅は刀を手にタン、と井戸の縁へ降り立ち、「んー?」と唸るような声を上げながら薄暗い空間を覗き込む。 「いない………なんだ? あの女」 (え…) 不思議そうに顔を上げる結羅の言葉に小さく心臓が跳ねるような錯覚を抱く。見たところ刀に血はついていない。そして井戸の中に落ちたはずのかごめがそこにいない。 ということは、かごめは―― (無事に…帰れた…?) その可能性に気が付いた瞬間、伝っていた汗がポタ、と落ちる。それに伴うように、感じていた不安は霧散していくよう消え去っていた。そしてかごめの無事と、彼女が元の時代へ帰ることができたのかもしれないという事実に、呼吸も忘れるほどの形容しがたい思いが膨らんでいく。 しかしその安堵も「ま、いいか」というやけにあっさりした声によって掻き消されてしまった。その声の主が見ているのはもう井戸でなく、彩音の方だ。 「あんたが持ってんでしょ? 四魂の玉」 「……」 「さっきの女は持ってなかったようだし、あとはあんたしかいないわよね」 その言葉に気取られないよう小さく息を飲めば、結羅には確信的な怪しい笑みが浮かぶ。それがあっという間に彩音の目の前へ迫ってくると、やがて白い手が彩音の懐へ伸ばされた。 「さっ、触らないで! 少しでも触れればあんたが欲しがってるこの髪、全部切り捨てるからっ」 「あら、威勢だけはいいのね。でもあんた、その状況でどうやって髪を切るわけ?」 「…それはねえ…」 結羅の挑発的な声。それに負けじと小さな笑みを浮かべては、勢いをつけて結羅の腕を強く蹴り上げた。まさか蹴られるなどとは思ってもみなかったのだろう。不意を突かれた彼女はひどく驚き、気を逸らされたことで彩音を拘束する髪の束を緩めてしまった。 直後、解放された彩音は着地の際にバランスを崩しそうになりながらも片手を突いて耐え、その勢いのまま強く地面を蹴って駆け出した。 (逃げなきゃ!) 「このクソガキっ…」 蹴られた腕を押さえる結羅は怒りを露わにした瞳で彩音を睨み付ける。直後髪を引くように腕を振るい、彩音が逃げ込もうとした井戸の周囲を細かな網目状に組んだ髪で囲い込んだ。 こっちはダメだ、瞬時に足を止めた彩音はほんの一瞬迷いそうになりながら、それでもすぐに反対側の森へと駆け出した。 「待ちな!!」 「っ!」 相当苛立っているのか、結羅は乱暴に叫びながら操る髪で彩音の体を切りつけていく。どれも掠る程度ではあるが鋭い痛みに足が挫けそうになる。それでも彩音は時折木を突き飛ばすように手を突き、深い森の中を複雑に縫うように駆け回った。 (どうにか…どうにかあいつを振り切って、井戸の中に逃げないと!) その思い一つで息を切らせながらも懸命に駆け続ける。こうして森の中を複雑に走れば結羅も狙いにくいはずだ。そう考えながらすぐ傍で切り散らされる木の葉や木片を振り払い、他よりも一層深い茂みを見つけてはすぐさまそこを突き抜けようとした。その時―― 「あっ!? いやあああ!!」 茂みへ足を踏み込んだ瞬間にズッ、と足が滑る感覚。途端に体は大きく傾き、茂みの奥深くへ引きずり込まれるように飲み込まれてしまった。 「!」 髪にぶら下がるように木々を飛んでいた結羅が目を丸くして足を止める。いましがた追っていたはずの少女の姿が忽然と消えてしまったからだ。振るった髪で辺りを漁るように切り刻み散らしていくが、その姿は出てこない。しかし相手は人間、そう簡単に姿は消せないだろう。そう思ったが、反面、先ほどのかごめのことを思い出しては訝しむように大きく顔をしかめた。 ひとまず下に降りて茂みの中を探すか、そう考えて枝から飛び降りようとした時、ふと木の葉に埋もれる小さな袋が目についた。 「んー?」 ヒュン、と差し向けた髪でそれを拾い上げる。袋の口を開き振るうと、そこから小さくも淡く光る、綺麗なかけらが一つ手のひらに転がった。 「んまー。これ四魂の玉あ? こんなにしちゃって…」 覚えのある色、光。それを確認するように摘まみ上げたかけらへ呆れの声を漏らすと、遠くに繋いでいた髪がピク…と反応を見せた。 なにやら不思議な感触。結羅は再びかけらを袋に入れて懐にしまい、反応があった方角へ試すような視線を向けながら指を繰った。それはまるで操り人形でも扱うかのように。 しばらくその感触を確かめていた結羅だが、とうとうその手を止めるとニヤ、と怪しげな笑みを小さく浮かべた。 「あっちに面白い奴がいるようね…かけらももらったし、あんたはあとでじっくり殺してあげる!」 結羅は彩音が消えた場所へ向けてそう言い放ち、すぐさま髪を辿るよう勢いよく飛んでいった。楓たちが住む、村の方へと――

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