03

不思議な浮遊感に包まれたあと、先ほどまでとは違う冷えた空気に肌を撫でられる。頭上を見上げれば古ぼけた木製の天井はなく、漆に塗り潰されたような暗い空に小さな星々が瞬いているのが見てとれた。どうやら無事に戦国時代へ戻ってこられたらしい。 それを確信すると、二人は慎重に井戸を上り始めた。 「その逆髪の結羅とかいう女が、おれたちを狙ってるって言うのかよ」 井戸の縁に手を掛けながら犬夜叉がそう問いかけてくる。同じくそこまで登り切った彩音は「うん」と頷きながら、身をひそめるようにして辺りの様子を窺った。 「たぶんあいつが四魂のかけらを持って行ったと思うんだけど…それでも現代まで追ってきたでしょ? あいつ…私の髪が欲しいとか言ってたし、きっとそれだと思う」 「ん゙!? 待てこら。盗られたのか!?」 あまりにも自然に暴露された事実に犬夜叉が慌てて身を乗り出すほど怒鳴り込んでくる。それもそのはずだ、彼は彩音が四魂の玉のかけらを持っているものだと信じていたのだから。 だが彩音の手にそれはなく、それどころか彼女は“しまった”という顔をしながらすぐに誤魔化すような笑みを見せていて。大きく顔を引きつらせた犬夜叉はたまらずぷるぷると震える拳を握りしめた――が、それも束の間。頭上から聞こえた微かな音に気がついては彩音が大きく目を見張った。 「うっ、上! 上から来てるっ!」 彩音が叫び上げた先、そこにはザザザザと音を立てながら迫りくる大量の髪の毛たちがいた。犬夜叉が大声を上げたことで見つかってしまったのか、それは物凄い勢いで彩音たちへ降り注いでくる。しかし犬夜叉はその直前で彩音を背負い込み、「おーっと」と声を挙げながら軽々とかわしてみせた。 「髪の元を辿れっ。親玉をぶっ殺す!!」 強くそう言い切り、犬夜叉は張り巡らされた髪の中を顔色ひとつ変えることなく駆けていく。彩音に衣を貸しているというのに、彼の体はどれだけ髪に触れても掠り傷すら負っていない様子。そんな彼の頑丈さに改めて驚かされると、彩音は犬夜叉の衣にしっかり包まり直して周囲の髪を鋭く見つめ始めた。 犬夜叉に髪が見えない以上、自分が彼の目にならなければ。その思いで全ての髪に目を走らせていれば、ふと他とは違う、月明かりの反射ではない光を持つ髪が何本か張り巡らされていることに気が付いた。 (あの光る髪…現代で見たものと同じだ。それならきっと、あれが他の髪を操ってるはず…) 現代でのことを思い返しては確信に近い思いを抱く。あの光る髪こそが、結羅に繋がっているはずだと。それを思っては周囲の光る髪に注視し、それらが伸びる方向へ犬夜叉を先導した。 そんな時、前方の暗闇の中にぼんやりとした灯りが見えてくる。 誰かいるのだろうか。訝しみながらそこへ駆けていけば、やがてその揺れる灯りが焚き火だということに気が付いて。身を潜めるようにしながらそこを覗き込んだその時、視界に飛び込んできた凄惨な光景に強く息を詰まらせた。 「な…なに、これ…!?」 思わず震わせた声で呟く。二人が前にしたのは、焚き火を囲んでいたのだろう三人の男たちが首を失くし、深紅の血に塗れて力なく転がっている惨状だった。周囲には切り離された腕や足が転がり、今も生々しい血を滴らせる結羅の髪が張り巡らされている。 そんな、あまりにも残酷すぎる光景。たまらず顔を歪めた彩音がつい目を逸らしてしまうのに対し、犬夜叉は目の前の血に濡れた髪をピン、と指で弾いていた。 「落武者ども…髪に引っ掛かったのか。運のわりー奴らだな。あれ? 首だけ持ってかれてるぞ」 犬夜叉の言葉通り、男たちの首はどこにも見当たらない。だというのに犬夜叉は全く表情に苦を見せず、惨状を目の前にしているとは思えないほど平然とした様子でそれらを眺めていた。 そんな彼に彩音は顔をしかめるが、小さく口を結ぶとやがて木陰に隠れるようにしゃがみ込んでしまう。するとそれに気付いた犬夜叉が「ん?」と声を漏らして振り返り、どこか厳しく咎めるような眼を彩音に向けやった。 「なにへたり込んでるんだよ。腰が抜けたから帰りたいとか言うんじゃねーだろな」 「そんなんじゃない…その、これ借りて行っても、バチ当たらないよね…? 結羅を倒せば、呪われたりしないよね?」 弱々しくそう言いながら彩音が手にしたのは矢筒と弓だった。落武者が持っていたものだろう。わざわざそれを捜したらしい彼女は恐々としながら、それでも確かな決意を持った瞳で弓矢を握りしめる。 そんな姿に、犬夜叉はしばらく言葉を失うよう立ち尽くしていた。ただ怯えているわけじゃない、その心にはちゃんと、強い意志があるのだと。そう、感じられたから。 だがそれもすぐに振り払われ、どこか馬鹿にするような表情に変わっては「けっ」と素っ気なく吐き捨ててしまった。 「ビビるのかやる気出すのか、どっちかにしろよ。だらしねーな」 「う、うるさいなっ。いいから、早く行こ!」 彩音は呆れるような顔で言ってくる犬夜叉の背中を無理やり押してここから離れようとする。しかし去り際に落武者へ視線を向けては、一層強い決意を固めるように唇を結んだ。 (この人たちは私が現代に帰ってる間にやられた…だから、私が償わなきゃ…これ以上関係のない人たちを死なせないためにも、私が結羅を倒さなきゃ!) 自身に言い聞かせるように、念じるように胸の内で強く唱えては弓を握る手に力を籠める。そして再び犬夜叉の背中へ乗せられると、強く地を蹴るようにそこから駆け出した。 街灯などあるはずもない真っ暗なこの世界で頼れるのは、月明かりと唯一の手掛かりである光る髪。懸命にそれを辿るよう無骨な岩肌を駆け上っていけば、またも髪の束が現れこちらへと迫ってきた。 「犬夜叉! 右から来た!」 「ちっ」 犬夜叉は舌打ちをすると見えないながらに髪をかわしてみせる。次いで左から伸びてくるそれも彩音の誘導によって軽々とかわしたが、明らかに先ほどまでよりもその量が増えている。結羅が近いのだろうか。そんな可能性を抱きながら彩音が次々と伸ばされる髪の方角を逐一伝えていたが、突然前方から伝達し切れないほどの束が一気に襲い掛かってくるのが見えて目を丸くした。 「ごごごめん無理っ! いっぱいいるから適当に避けてーっ!」 「な゙っ…役に立たねえ女だなっ」 「あーっ目の前目の前ーっ!」 苛立った犬夜叉が彩音を睨みつけた瞬間だった。隙を突くように伸ばされた髪は犬夜叉の手首へ巻き付き、そのまま彼の体を勢いよく引っ張り上げてしまう。それにより犬夜叉の背から振り落とされた彩音が地面に叩き付けられ、「った!」と声を漏らすほどに顔を歪めた、その直後―― 「あっ!」 体勢を立て直す間もなく迫らされた髪に右腕を巻き取られ、犬夜叉同様宙へと体を引き上げられる。そしてもう一方から伸びた髪によって左腕まで拘束されると、二人はともに宙吊りの状態で大量の髪に捕らえられてしまった。 手首に掛かる痛みに「く…」と小さな声が漏れる。同時に思わず瞑ってしまっていた目を開くと、突然視界に飛び込んできた壮大な塊に息を飲むよう強く目を見張った。 「なっ…玉…!?」 突如二人の前に姿を現したもの――それは月明かりに煌々と照らされる、あまりにも巨大な黒い玉であった。 まるで虫の繭のようなそれ。どうやら全て無数の髪によって構成されているらしく、様々な場所へ伸ばされる繭糸のようなそれも特有の艶めきを見せていた。 気味の悪ささえ覚えるほどのそれは、まさか結羅の巣ではないのか。そんな思いがよぎったその時、突然一人の女が月に重なるように高々と飛び出してきた。 「あら、見事な獲物が引っかかった」 「! 結羅…」 楽しげな声に顔を上げてみれば、細い髪の上へ軽やかに立つ結羅の姿。やはりこの髪の玉は結羅のものか、そう確信を抱き息を飲む彩音に対して、結羅は二人を交互に見据えるとやがて犬夜叉へ静かに視線を留めた。 「あんた犬夜叉ね?」 「てめえが逆髪の結羅かい…どうしておれを知ってる」 「あたしたち鬼の仲間の間ではもう評判になってるよ。犬夜叉っていう半妖が、生まれ変わりの巫女たちの手下になって、四魂の玉を集めようとしてるって」 “生まれ変わりの巫女たち”、結羅はそう口にすると同時に彩音へ怪しげな視線を向けてきた。それに彩音が鋭い目を向け返した時、語りかけられた当の犬夜叉は「んなっ」と驚いたような声を上げて大きく眉を吊り上げた。 「おれがこのマヌケ女の手下だと!? ふざけるな!!」 「な゙っ、マヌケ女…!? 髪が見えなくて頼ってくるくせに、なにその言い草! このっ、バカワン公っっ」 「ばっ…!? んだとてめーっ!」 「あーもううるさいわねー。なんにしたってあんたたちは邪魔なのよ」 ぎゃんぎゃんと吠え立てる二人にどうでもいいと言わんばかりの表情を見せた結羅は懐から見慣れた小袋を取り出してくる。それに犬夜叉がいち早く我に返り反応を見せると、結羅はその小袋から小さなかけらを摘まみ上げた。 「だからまずあんたたちを殺してから、ゆっくりこれを集めようと思ってね」 そう言いながら結羅はわざとらしく四魂のかけらを見せつけてくる。それによって犬夜叉が鋭く結羅を睨み付けたが、彼女はそんな姿に目もくれず。再びかけらを懐へしまい込んでは髪にぶら下がり、彩音の目の前へ滑るように飛び移ってきた。 「じゃ、あんたから始末してあげる」 「っ…」 結羅はクイ、と彩音の顎を持ち上げて不敵な笑みを迫らせる。妖艶で危険なその雰囲気に思わず言葉を失ってしまいそうになりながらも、vはギリ…と小さく歯を鳴らして顔を大きく逸らし、強引に結羅の手を振り払った。 「気安く…触るなっ!」 かつてそうしたように体を捻り、結羅の手を狙って足を振り上げる。しかし今度ばかりは結羅も読んでいたようで軽々かわされ、終いには新たに伸ばされた髪によって足さえも拘束されてしまった。 「ほんと足癖の悪い女ねー。油断も隙もありゃしない。いい加減大人しく、その首をあたしに寄越しなさい」 そう言って笑みを浮かべながら勢いよく手を振りかざされる。その瞬間首に感じた、わずかな圧迫感と鋭い痛み。至極細い結羅の髪が彩音の首に巻き付けられたのだ。生身の首ではそれを防ぎようがない。あの落武者のように、首を落とされてしまう。瞬時にそれがよぎり顔を強張らせると同時にキリ…と力が籠められかけた――その時だった。

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