02

風の吹き抜ける音が細く響き、ひどく傷んだお堂はガタタタと小さな悲鳴を上げる。それがやけに耳につくほど静かなこの場所には、目の前に座るお頭の「げふ。げふ」という不気味な声だけが絶えず発せられていた。 嫌な緊張が包み込む。彩音たちが息を飲むこともできないまま顔を強張らせると、同時に立ち上がったお頭が緩慢な動きでこちらに手を伸ばしてきた。 「四…魂の…玉あ…」 (! なに、こいつの匂い…) わずかに鼻を掠めた異臭に彩音は表情を歪める。ゆらりゆらりと覚束ない足取りで歩み寄ってくるお頭からはなにやら血生臭いような、形容しがたい不快な臭いが纏わりついている気がしたのだ。 ここにいる男たちは恐らく野盗。それほどの臭いがこびりつくほど人を襲ってきたのだろうか。鼻を塞ぎたい思いにかられながらそう考察していれば、容赦なく距離を詰めてくるお頭が突然かごめの胸ぐらをグイ、と強引に掴み上げ、すぐに放り捨ててしまった。 「かごめっ」 思わず声を上げるが体を起こそうとする彼女に怪我はない様子。それに安堵したのも束の間、「げふ」とどこか嬉しげな声を漏らすお頭の手にはかごめが持っていたはずの四魂の玉がぶら下がっていた。 「あっ…」 「玉…!」 ――妖怪だけではない。邪な心を持つ人間どもも四魂の玉を狙っておる。 かつて楓に告げられた言葉。満足げに口を歪ませるお頭の姿にそれを思い出すと、途端に嫌な悪寒が走るような感触を覚えて目を見張った。 「だめっ。返して…」 焦燥感に駆られたかごめがすぐにお頭へ手を伸ばしたが、その瞬間ドカ、と鈍い音を立てて刀が突き立てられた。それはかごめの目と鼻の先、触れそうなほど近く。鈍く光を反射させる刀に血の気が引くような思いを抱えては体が怯んでしまい、かごめはずるずると逃げるように後ずさった。だがそれもすぐに大きな柱に阻まれ、とうとうその場から動けなくなってしまう。 するとお頭は突き立てた刀を握り締め、焦点の合わない目を子分たちへと向けやった。 「押さ……えてろ…」 「え…」 「へっ、へえっ」 子分たちは突然の命令に戸惑いながらもすぐさまかごめの腕を掴み拘束する。途端に嫌な予感を覚えた彩音が「だめっ、放して!」と声を上げるほど抵抗するが体を押さえる男たちの力には敵わず、その間にもお頭は刀を頭上高くに掲げてみせた。 「!」 「いやっ、だめ! かごめえっ!」 掲げられた刀を前に目を見開くかごめへ彩音は必死に声を荒げる。だがお頭がその手を止める気配はなく、背後で子分たちが「殺しちまうのかよ」「あーあ、もったいねえ」と口々にこぼす声を聞きながら、その腕は容赦なく振り下ろされた。 たまらず声にならない悲鳴を上げる彩音の前で、鈍い音が強く響き渡ると同時に激しく血しぶきが広がる。 ――だが、それはかごめのものではなかった。 「え…?」 思わず声を漏らした子分の男。かごめの腕を押さえていた彼の肩は深く斬られ、目を覆いたくなるほどの真っ赤な血が噴水の如く吹き出していた。それを目の当たりにした子分たちは「お…お頭!?」と瞬く間にどよめき始め、かごめを押さえていたもう一人の男も彩音を押さえていた男たちも、逃げるように慌てて仲間の方へと身を寄せていく。 だがお頭は目の前で力なく崩れ落ちる子分を見据えながら、茶目っ気を示すように舌を出し、あろうことか緩やかな笑みさえ浮かべていた。 「ま、間違…えた…げふ。げふ。今度は、首を」 「(な…なにこの人…)」 (こいつ…やっぱりどこかおかしい…) 子分を殺したというのに戸惑う様子も詫びる様子もなく、ただへらへらと笑みを浮かべ続けるお頭に強い違和感を抱く。それも相まってか一層早く逃げなければという思いが強くなり、かごめと彩音は互いに抱き合うよう身を寄せて小さく後ずさった。 その瞬間お頭は突如刀を振り上げ、ドスドスドスと鈍い音を響かせるほど強く駆け出してくる。 「死…ねえええ」 「やだ!!」 「こっち来るな!!」 二人は迫りくるお頭へ声を荒げながら必死に逃げ回る。だがここはさして広くもないお堂の中だ。二人が逃げた先に怯える子分たちが固まっているのが見えると、二人はそれの前で咄嗟に左右へ別れるように飛び退いた。その瞬間ほぼ同時に振るわれたお頭の刀、それは代わりと言わんばかりに子分二人の首を容赦なく刎ね飛ばしてしまった。 「なっ…」 「ひいいいっ!」 「い、いってえどうしたんだ、お頭!!」 ドン、と音を立てて目の前に転がってくる仲間の首に子分たちが悲鳴を上げる。だがお頭がそれに耳を貸すことは一切なく、ただ血に染まった刀を掲げ、壁際へ追い込まれたかごめへと詰め寄っていた。 そんな時、突然お頭の後頭部に小さな盃がぶつけられる。 「そこのデカいの! あんたが欲しいのはこれじゃないの!?」 そう言いながら彩音が掲げたのは自身の首に下げていたもう一つの四魂の玉。玉を狙っているのなら必ず食いつくはずだと見せつけてやれば、振り返ったお頭は狙い通りこちらへとその足を向けてきた。 少しでも隙を作ってかごめを逃がさなければ、そんな思いで傍に落ちていた刀を拾い上げる。ひどく錆びているようだが応戦くらいはできるだろう。そう願うように柄を握り締めると、目の前まで迫った男に刀を構えた―― 「げふ」 「あれっ?」 ぱきーん、そんな情けない音を立てたのは彩音が構えた刀だった。軽々と振り下ろされたお頭の刀に叩かれた刀はやはり錆が祟ったのか、なんとも呆気なくその身を真っ二つに分けられてしまっているではないか。 まさかこれほどまでに使えないとは思ってもみなかった彩音は誤魔化すように「あはははは」と笑い、お頭の笑みを誘ってお互い和やかに笑い合った。 ――しかしそれも束の間、 「っ!」 突然腕を掴まれ、それに目を見張る間もなく床へ叩き付けられる。その衝撃に大きく顔を歪めた彩音が体を起こそうとしたその時、突如かごめが「逃げて彩音!」と声を張り上げた。それにはっと顔を上げて見えたのは、再び刀を高く掲げるお頭の姿――直後、刀は彩音に向けて勢いよく振り下ろされる。 (もうだめ!!) 目にも留まらぬ速さで迫る刀に強く目を瞑る。それと同時に、鉄が砕けるような凄まじい音が大きく響き渡った。しかし彩音には痛みも衝撃もなにひとつ感じられない。そんな不思議な現象に目を開けば、視界いっぱいに燃えるような赤と輝かしい銀が揺らめいていた。 (え…) 思わず見とれてしまうような感覚。それを感じながらも、彩音は目の前のその光景に目を疑っていた。 なぜなら自身の目の前にいるのはあの犬夜叉。あれほど自分たちを毛嫌いしていたはずの彼が、今この瞬間、自分の命を救ってくれたのだ。まさかと思ってしまうこの事実に信じがたい気持ちを抱えるが、彩音の体はひどく安堵するような、気さえ抜けてしまいそうな感覚に包まれていく。 「おめえら… !」 犬夜叉が不機嫌そうに振り返りかけたその時、彩音はなにかが弾けたように犬夜叉の背中に抱き付いていた。今度こそ死ぬかもしれないと思わされた反動だろうか、驚きながらもどこか戸惑う犬夜叉の様子に気付かないまま、彩音はただ夢中でその体を抱きしめていた。 「お、おいっ。いつまでくっついてやがる! さっさと放しやがれっ」 「!」 不意に咎めるような声を降らされ、ようやく我に返った彩音ははっと顔を上げる。夢中で気が付かなかったが、今しがた自分がしていたことを遅れて理解すると途端に顔全体が熱くなるほどの羞恥心に駆られてしまう。いそいそと犬夜叉から離れては、少しばかり顔を隠すように小さく頭を下げた。 「ご、ごめん急に…それより、ありがとう。助けに来てくれ…」 「四魂の玉は!?」 「…たわけじゃないのかー…そっかあー…」 「玉はどうした!!」 せっかく感動したというのに、犬夜叉は自分たちの無事などそっちのけで四魂の玉の心配をしていたようだった。それをはっきりと思い知らされると自分だけが感動していたことに余計恥ずかしさを感じて、同時にものすごくがっくりと肩を落としてしまいたい気持ちになった。 思わずはあ…と大きなため息をこぼしてしまいながら、それでもすぐに気を持ち直す。そして握っていた四魂の玉を犬夜叉に見せると、立ち尽くすお頭の方へ顔を向けた。 「一つはここにある。けどもう一つはあれが…」 「…こいつか…ひでえ臭いだ。腐りかけた死体の臭いがぷんぷんしやがる…」 「死体の…?」 不快そうに袖で鼻を覆い隠す犬夜叉の言葉に引っ掛かりを覚える。確かに自分でもわずかながら異臭を感じた。だが“腐りかけた死体”など、このお堂のどこにも見当たらないのだ。 ならばまさか、先ほどから感じていたこの異臭の正体は… 彩音の思考がそこへ至った時、犬夜叉はすでにお頭に向かって爪を構えていた。 「そこに居るんだろ! 屍舞烏!!」 そう言い放ちながら飛び掛かった犬夜叉は爪を振るい、お頭の大きな鎧を容易く切り裂いてみせる。すると外れ落ちた鎧の下、心臓があるべき場所にギュギュギュ、と不気味な鳴き声を上げる三つ目の烏が姿を現した。 「うっ…うわーーーっ!!」 「きゃああっ」 その不気味な光景に逃げ惑う子分たちやかごめの悲鳴が高く上がる。彩音は声を出すこともできないほど絶句し、込み上げてくる気持ち悪さに口を覆いながら顔を逸らした。しかし犬夜叉は表情ひとつ変えることなく、お頭の心臓部に鎮座する血塗れの烏をしかと見つめていた。 「大方昨日の夜辺りから…胸を喰い破って巣くってやがったんだ」 「そんな…」 「お…お頭…死んじまってたのか…?」 「なんか様子が変だとは思ってたが…」 「ひ…ひどい…」 犬夜叉の言葉に一同は思い思いの声を漏らしながら顔を青ざめさせる。それに対して死舞烏はどこか馬鹿にするかのようにギュギュギュ、と鳴き、こちらの様子を窺っていた。 「てめえは大して強くねえから…死体を操って戦いやがる…タチが悪いぜ」 腐りかけの死体の臭いが嫌なのだろう、犬夜叉は再び袖で鼻を覆いながら厄介そうに眉をひそめた。すると死舞烏は正体が明かされてなおもお頭の体を操り、傍に落ちていた刀を拾い上げて勢い任せに犬夜叉へ斬りかかった。しかし犬夜叉はそれに怯むこともなく、即座に負けじとお頭の胸へと飛び込んだ。 「さっさとその生臭い巣から出てきやがれ!!」 まるで怒鳴るように叫ぶと鋭い爪を光らせ、死舞烏が喰い破った穴へ勢いよく手を叩き込んだ。心臓を抉り出すようなその行為に誰しもが目を伏せる中、背中側から抜け出した死舞烏は血塗れの翼をバタタタ、と羽ばたかせる。 見ればそのくちばしに、かごめから奪い取った四魂の玉が光っている。 「玉!!」 「! 返せっ!」 犬夜叉の声に顔を上げた彩音はすぐさま足元に落ちていた木片を投げつける。だが死舞烏は容易くそれをかわし、鋭く光る三つの目で彩音を見据えた。それも束の間、死舞烏は彩音目掛けて飛び掛かりその鋭利な爪を向けてくる。 「どけっ!」 突然犬夜叉がそんな声を上げたかと思えば彩音を押し退けるように死舞烏へ爪を振るった。しかしそれが死舞烏を捉えることはできず、かわした死舞烏は一瞬の隙に身を翻し、その固い尾で彩音の手を容赦なく打ち払った。 「あっ!」 鞭で打たれたような強い衝撃に握っていた玉が弾かれる。コン、と固い音を鳴らして転がる四魂の玉に犬夜叉が大きく舌打ちすると、すぐさまそれへ向かって跳び掛かった。 犬夜叉の手が玉に触れる――その刹那、すでに咥えていた玉を口に含んだ死舞烏が犬夜叉よりわずかに早くもう一つの四魂の玉を掻っ攫ってしまった。 死舞烏はその勢いのまま飛び上がり、大きく割れた壁の穴から外へ飛び去っていく。 「ち、ちくしょうっ。待ちやがれーっ」 即座に足元の槍を拾い上げた犬夜叉が死舞烏へそれを投げ放つが、軌道がわずかにずれていたためか当たらず、死舞烏は瞬く間に遠ざかっていった。その姿に悔しげな表情をにじませる犬夜叉。それを見ていた彩音は傍に落ちていた弓矢と刀を抱え、すぐさま犬夜叉の傍へ駆け寄った。 「私、あいつを撃ち落とす」 「なに? ……乗りな! お前の足じゃ追いつけねえっ」 一刻を争う状況のためか、相手が信用していない彩音であろうと犬夜叉はすぐに腰を低く屈めてくれる。彩音はそれに強く頷くと、すぐに犬夜叉の背中へ乗り込んだ。 「ごめんかごめ、少しここで待ってて」 「分かった…気を付けてね、彩音」 心配そうな表情を見せるかごめにしっかりと頷いて見せる。彩音は次いで野盗たちに視線を移し、硬直する彼らへ射抜くような鋭い目を向けやった。 「あんたら、かごめに手を出したら犬夜叉が許さないから」 「ひっ、ひいいっ!」 「な、なにもしませんっ」 「はあ? おれは関係ねえ…」 「いいから行くよ!」 勝手に名前を使われたことに不服そうな顔を見せる犬夜叉だったが、彩音はそんな彼の肩を強く掴んで先を促す。すると犬夜叉はペースを乱されることに顔をしかめながらも死舞烏が飛び去った空に向き直り、先ほどまでの真剣な表情を取り戻した。 「しっかり掴まってな!」 そう言い放った瞬間に犬夜叉は強く床を蹴り、瞬く間にお堂を飛び出して行った。

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