02

「さあ美琴…ケガしたくなかったら、四魂の玉を寄こしな。もちろん、二つともな」 鋭利な爪を怪しく光らせながら踏み出してくるのは封印されていた少年、犬夜叉。彼は目を覚まして以来彩音のことを“美琴”という人物だと勘違いしているようだが、いまはそれを訂正することすら許されぬほど緊迫した空気が漂っていた。 ただ静かに視線を交わらせる彩音の頬を、滲み出た汗が一筋伝っていく。 「彩音とやら…渡してはならんぞ」 「わ、分かってます…」 背後に立つ楓からの注告に返事をすれば、自身の声が想像よりずっと震えていることに気が付く。どうやら緊張により分からなくなっていただけで、本心は相当怯えていたようだ。 それもそのはず、これほど死と隣り合わせになったことなど生まれて初めてなのだから。 それに気が付いてしまっては手さえ震えそうになるものの、それでもしかと二つの玉を握り直して息を飲んだ。 ――その時、楓の声にぴくりと眉をひそめた犬夜叉が怪訝な様子を見せる。 「彩音…だと?」 「! そ、そうっ。あんたずっと私のことを美琴って呼んでるけど、本当に人違いなの! 私は結城彩音っ」 「そんなはずはねえ! 確かに覚えてる…この匂い、姿…お前は美琴だ!」 そう言い放った犬夜叉は突然彩音の目の前に飛び掛かり、腕を掴むと同時に顔を迫らせてきた。その瞳のなんと真剣なことか。彩音は思わずその気迫に狼狽えそうになったが、はっと我に返るとすぐさま半歩後ずさり、覚悟を決めるように強く足を踏みしめた。 「違うって…言ってんでしょ!!」 どすんっ、 そんな鈍い音が響くほど強く、犬夜叉の腰へ思いっきり回し蹴りを叩き込んでやる。するとまさか蹴られるなど思いもしなかったのだろう、愕然とする犬夜叉は目を真ん丸と見開いて呆気にとられているようであった。 その隙に彩音が慌てて手を振り払い木の陰へ逃げ込むと、やがて状況判断が追い付いたらしい犬夜叉は大きくひくついた笑みをぐぐぐ…と振り返らせてくる。 「てめえ…いきなりなにしやがる…」 「あ、あんたが急に近付くからっ…」 「美琴はこんな暴力女じゃなかったぞ!」 「だから違うって言ってんでしょ! これで分かった!? あと、暴力女って言うなっ!」 どこか訴えるように吠え掛かってくる犬夜叉に彩音も負けじと言い返す。それが功を成したのか否か、犬夜叉は怪訝そうな瞳でもう一度彩音を見つめると、なにかを悟ったように「ふっ…」と目を伏せた。 ようやく理解してくれたのかも知れない。そう安心しかけたその時、犬夜叉は再び大きく指を曲げてその鋭利な爪を怪しく光らせてみせた。 「…まあいい。お前が誰であろうと、その四魂の玉をいただくまでだ!」 「なっ…!?」 強くそう言い放つと同時に地を蹴り鋭い爪を振るわれる。それは暗闇に三日月のような弧を閃かせると、間一髪かわした彩音の足元を一瞬で抉り返してしまった。 もし一瞬でも逃げ遅れていれば、今頃あの百足上臈のようにバラバラに引き裂かれていただろう。そう思わざるを得ないほど手加減のない一撃に、彩音は血の気が引くような錯覚を覚えながらよろ…と後ずさった。 「いや…ウソでしょ…これ…」 「美琴じゃねえなら容赦はしねえ。次は…真っ二つだ…」 「はあ!? 絶対いや!!」 胡乱げな笑みを見せる犬夜叉にすぐさま抗議の声を上げる。しかし彼はやめる気も手加減をする気もないようで、再び地を蹴りつけ鋭い爪を高く掲げた。 「覚悟しな!!」 「するかバカ!!」 向けられた大きな声に咄嗟に反論しながら違う木の陰へ逃げ込む。だが振り下ろされた爪に呆気なく薙ぎ払われてしまい、こちらへ倒れてくる木はわずかに逃げ遅れた彩音の手を強く叩き付けてしまった。その衝撃にたまらず緩んでしまった手の隙間、そこから無情にも二つの玉が転がり落ちた。 「しまっ…」 「もらったあ!!」 すぐに手を伸ばす彩音の背後で犬夜叉が好機と言わんばかりに勢いよく飛び出してくる。このままでは彼の手に渡ってしまう――そう思った次の瞬間、突然どこからともなく飛んできた複数の小さな影がしかと犬夜叉の首を捕えた。 それはいくつもの黒い珠と白い勾玉。首元で数珠のように繋がるそれに犬夜叉が「ん!?」と短い声を上げた途端、背後で見守っていたはずの楓から大きな声が響かされた。 「彩音、魂鎮めの言霊を!」 「た、魂鎮めの言霊!? なにそれ!?」 「なんでもいい! 犬夜叉を鎮める言葉を!!」 「そんなっ、急に言われても…」 突然知りもしない言葉を投げかけられて慌てふためく彩音のすぐ傍へ、「おれを、鎮めるだとお!?」と声を荒げた犬夜叉が爪を振るい激しく穿ちつけてくる。どうやらわけの分からないものを付けられたうえに“鎮める”などと気に食わないことを言われたため、彼は一目で分かるほど怒りを露わにしているようだ。 「ふざけんじゃねーっ!!」 「ひえっ!?」 たまらず怒号を上げながら爪を向けてくる犬夜叉に目を白黒させる。必死に身を翻して逃げ惑っては、彼が再び飛び掛かってくる様子を見つめながら焦るように思考を巡らせた。 (えっと、犬夜叉を鎮める言葉…!? 犬夜叉を…犬、夜叉を…あれ、犬…? そうだ、犬を鎮めるっ!) 迫る彼の頭に見えた犬の耳。その瞬間“これしかない!!”と確信に似た思いを抱いた言葉へ念を込めると、深く息を吸い込んだ途端に犬夜叉へ強く言い放った。 「おすわりっ!!」 「ぎゃん!!」 森中へ響き渡るほどの大きな声は数珠を反応させ、いましがた目の前へ跳び掛かってきていたはずの犬夜叉を見事な直角でビターン、と地面に叩き付けてしまった。そんな目に見えない不思議な力に彩音が目を丸くすると、見守っていた村人たちも感心するように歓声を上げてくる。 一方で犬夜叉はなにが起こったのかを把握できていないらしく、地面に横たわったまま目を点にして硬直しているようだった。 ――しかしそれも束の間、 「なっ、なんだこれはーっ」 勢いよく飛び起きるなり得体の知れない数珠に声を荒げる。それと同時に両手で強く握りしめ、力任せに数珠を引き千切ろうとするがそれはビクともせず、ついには首から外そうと上へ上へ引っ張るものの、それでも数珠は決して外れる様子を見せなかった。 「無駄だ犬夜叉、その念珠はお主の力では外れん」 彩音の元へと歩み寄ってきた楓が諭すように犬夜叉へ語りかける。しかし犬夜叉は冷静になるどころか「んなっ…」と短い声を漏らし、大きく眉をひそめては途端に身を屈めた。 「ふざけんな、ばばー!!」 「言霊を」 「おすわり」 思い切り飛び掛かってくる犬夜叉だったが即座に放たれた言霊により呆気なく地面へ沈められる。楓はそれに目をくれることもなく、村人たちへ振り返っては「さて皆の衆、村に帰るか」と呼び掛けながらそちらへ歩み出してしまった。 そんな中彩音はしゅうしゅうと煙を上げて地面に倒れ伏す犬夜叉の頭をつつき、心の片隅で“これちょっと楽しい”なんて思っていたのであった。 * * * ようやく静けさを取り戻した村。辺りはすっかり明るくなっており、村人たちは休む間も惜しんで破壊された家々を直す作業に勤しんでいた。 しかしその中でも楓の家だけは違う。ざわめき立つ村人に囲まれ、修復などの作業音とは違う騒がしさに包まれているようだ。 それもそのはず。突然どこからともなく現れて体内に四魂の玉を持っていた少女たちに加え、封印されていたはずの犬夜叉までもがこの場に揃っているのだから。 中でも彩音は犬夜叉の封印を解いてしまったことで、より一層の注目を浴びている様子。そんな状況に落ち着かない気持ちを覚える彩音だが、対照的に楓は冷静なまま傷の手当ての準備をしていた。 「どれ腹の傷をお見せ、薬草を塗ってあげよう」 そう声を掛けた相手はかごめ。楓の家に運ばれてすぐ目を覚ました彼女は言われるがままに裾を捲り上げ、薬草を塗り込まれる脇腹に「あいた」と小さな声を漏らした。 隣でそれを見守る彩音が“次は自分の番か…”と痛みに小さく覚悟を決めようとしたそんな時、手当てをする楓が二人へ言い聞かせるようにぽつりと語り始めた。 「しかし困ったことになった。四魂の玉が再びこの世に出てしまった以上――それを狙う悪しき者どもが群がってくるであろう」 「え゙…」 「あの…妖怪みたいのとか…?」 楓の言葉に彩音が思わず顔を引きつらせるのに続いてかごめが問いかける。すると楓はかごめの傷口から手を放し、「妖怪だけではない」と諭しながらこちらへ向き直ってきた。 「邪な心を持つ人間どもも…この戦乱の世で四魂の玉の妖力を得れば、どのような野望も達成できようからな」 「はあ…って、え? 戦乱の世…?」 なにやら慣れない話だと聞き流しそうになった言葉に眉をひそめる。それは聞き間違いではない、楓はいま確かに“この戦乱の世”と言っていた。それをはっきり思い返してしまうと、この世界に迷い込んでから一度は考えた小さな可能性が否応なく甦ってくる。 (うそ…じゃあ私…本当にタイムスリップしたってこと…?) 信じられない、信じたくはなかった可能性。それがとうとう確信に変わったような錯覚さえ抱いてしまうと、途端に頭が真っ白になっていくような気がした。 そんなはずはない、タイムスリップなんてあるわけがない、そう思いたいのに周囲の全てはその説を強く強く肯定していて、どこを捜しても否定に足り得るものなど見当たりはしなかった。 どうして自分がタイムスリップなんてしたのか。こうしている間、自分が元いた世界はどうなっているのか。 そんな纏まらない思いばかりが巡って言葉を失っていると、不意にその思考を遮るようにかごめが横たわる犬夜叉へ声を掛けた。 「あんたは…なんで四魂の玉が欲しいのよ」 「……」 「強いし、こんな玉の力を借りなくたって…」 ふて腐れるように黙り込んだままの犬夜叉にかごめは不思議そうに言う。 確かに彼女の言う通りだ。すでに強い犬夜叉がさらに力を求める理由はなんなのか、少しばかり気になった彩音も同じく犬夜叉を見つめると、重ねて彼を見やった楓が小さく呟いた。 「そやつは半妖ゆえ…」 “半妖”――百足上臈も口にしていたその言葉を耳にした瞬間、犬夜叉は勢いよく起き上がると同時に凄まじい音を立てて床板を叩き割った。思わずびくりと肩を跳ね上げてしまう彩音の前で、犬夜叉は苛立ちを露わに楓を鋭く睨みつける。 「ばばあ、さっきからなんなんだよてめえは。おれを知ってんのか!?」 「分からんかね…無理もないが、お主を封印した桔梗の妹…楓だよ」 「楓っ…?」 その名に覚えがあるのか、犬夜叉はそれを聞くなり確かに眉をひそめる。すると楓は当時のことを思い出すように目を伏せ、しみじみといった様子で顎を擦った。 「あれから五十年…わしも年をとったからね」 「へえ…あのガキがなあ…ってことは…桔梗の奴もすっかりばばあか? しょーがねえな、人間なんて」 「桔梗お姉さまは死んだよ。お主を封印した同じ日に」 “死んだ” その言葉に犬夜叉はほんのわずかな反応を垣間見せた。だがそれはすぐに消え失せるように変わり、口角を吊り上げて怪しげな笑みを浮かべてしまう。 「へえ…そうだったのかい…くたばりやがったのか、あのアマ。けっ。そりゃ清々したぜ」 「ちょっと、そんな言い方…」 「おいで彩音。傷を見せてごらん」 あまりの言い草に犬夜叉を咎めようとした声は楓によって遮られてしまう。楓を見るも気にした様子はなく、犬夜叉のこのような態度は昔からのことなのだろうかと一人納得しては彼への言及を留めた。 そしてかごめと入れ替わるように楓の隣へ腰を下ろすと、ふと脇腹に違和を感じた気がしてくる。この違和の正体はなんだろう。痛みがひどいというわけではない、むしろ痛みを全く感じないというか――そう思いながら制服の裾を捲り上げると、それを目にした楓が大きく目を見張った。 「な、なんと…お主、百足上臈にやられた傷はどうした!?」 「え? どうしたって…あ、あれ!? うそ、治ってる…!?」 「!」 自身も脇腹を見下ろしてみれば、そこにあったはずの大きな傷はこびりついた血だけを残して綺麗に消えてしまっていた。 いましがた感じた違和感の正体は恐らくこの“知らぬ間に傷が消えていたこと”だろう。そう悟りながらも、確かにあったはず傷が見当たらない現象に彩音は大きく眉をひそめた。 ここはあの時確かに百足上臈に切り裂かれた箇所。あれほど深い傷が数時間で痕も残さないほど綺麗に完治することなど、どう考えてもあり得ない話だ。 ならばなぜ、その傷が残っていないのか―― 「…お前、本当に美琴じゃねえのか?」 傷があったはずの場所に指を滑らせていれば、ふと犬夜叉が訝しげな声色で問いかけてくる。納得したものだと思っていたのに、またしても確認をとる彼に彩音は呆れを露わにしながらため息交じりで言い返した。 「またそれ? 何回言えば分かるの。私は彩音だってば」 「美琴は治癒の力は誰よりも強かった。人間で…あんな傷がすぐに治せるってことはやっぱり…」 「聞け。犬夜叉よ」 真っ直ぐに彩音を見つめて語る犬夜叉の声を遮ったのは楓だった。楓は彼の意識を容易に攫ってみせると、同様に視線を向ける彩音たちへ向き直るよう、焚火に落としていた視線を静かに持ち上げる。 「これはわしの推測だがな。かごめ、恐らくお主は桔梗お姉さまの生まれ変わり」 「え…」 「そして彩音、お主はその美琴とやらの生まれ変わりではなかろうか」 「生まれ…変わり…?」 楓から放たれた言葉に小さく首を傾げてしまう。果たしてそのようなことがあり得るのか、そう思ってしまうところだが、空想の産物だと思っていた妖怪が存在する戦国時代にタイムスリップをしてしまった身だ。生まれ変わりという話も、なんだか本当のように感じられてくる。 ――どうやら、かごめは姿形が似ていることや神通力が使えたことだけでなく、四魂の玉を体内に持っていたことがなによりの証だという。そして同じく四魂の玉を持っていた彩音は、犬夜叉の話から姿も匂いも同じで人間離れした治癒能力が決定的な要因だろうという話だ。 しかしその美琴という人物、犬夜叉以外誰も見たことがないと口を揃える。だというのに生まれ変わりで間違いないとばかりに決めつけられ、それでいいものかと思ってしまう彩音は訝しげに眉をひそめながら、首飾りのようにしてもらった四魂の玉を手のひらに乗せて静かに見つめていた。 (“四魂の玉はお主らが守らねばならぬぞ”…なんて、言われてもな…) 楓に告げられた言葉を頭の中で復唱しながら、とぼとぼ村の中を歩いていく。なにやら難しい話ばかりを聞かされ、ついには責任さえも背負わされてしまってひどく疲れた気がした彩音は、途中で出ていった犬夜叉を追うように外へ出て散歩をしていた。 (うーん…出てきたはいいけど、どうしよう…) ふと足を止めて顔を上げる。そうして見えたのはやはりのどかな古めかしい景色ばかり。昨日この時代に迷い込んだ彩音にとってここに分かる場所などなく、気分転換とはいえ下手に歩き回ることはできないなと思わされてしまう。 仕方ない、そう思って適当に足を踏み出そうとした時、なにやらやけに視線を感じるような気がした。どうやらそれは村人のもの。彩音を見つけた数人の村人が揃って見つめながら、身を寄せ合って小さく声を交わしているようだ。 「ほら、あのおなご。あの犬夜叉の封印を解いたってよ」 「深い傷も綺麗さっぱり治っちまったらしい」 「きっとすげえ巫女さまかなにかに違いねえ」 どこか感心するような声色で話すそれが聞こえてきて、彩音はついその村人たちの方へと振り返った。するとなぜだかその場にいた全員が両手を合わせ、彩音に向かい深々と頭を下げているではないか。 それはどこからどう見ても拝まれている光景。それには彩音もたまらずぎょっとしてしまい、ただ引き攣った笑顔のまま、村人たちへ小さく手を振ることしかできなかった。

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