「
美琴!! なんで二つあるのか知らねえが…四魂の玉を寄越せ!」
「えっ…?」
先ほどまでの落ち着きはどこへいったのか、少年は突然態度を一変させて焦りを露わに四魂の玉を求めた。だが次の瞬間、不意に視界が暗く影を落とす。それにはっと顔を上げるもすでに遅く、百足上臈は
彩音やかごめを掬い取るように体を滑らせ、二人を大木へダン、と叩きつけた。
「っ…く…!」
脇腹の傷に加えて叩き付けられた衝撃に
彩音が顔を歪める。その傍らで、少年だけは「玉がっ…」と変わらず四魂の玉に執着する様子を見せていた。
しかし肝心のその玉は叩き付けられてしまった拍子に
彩音の手から抜け落ちてしまい、さらにはかごめの手にもそれはない。おかげで少年は手が届かない煩わしさに悔しげな表情を垣間見せたが、「くくくく…」と不気味な笑い声を耳にしては途端に表情を改めるよう強く眉をひそめた。
「四魂の玉を狙う犬夜叉…とかいう半妖の小僧がいると聞いたが…お前かえ…」
シュル…と微かな音を立てて頭を下ろしてきた百足上臈が少年へ挑発的な声色を向ける。しかし対する少年――犬夜叉はほんのわずかな反応を見せたかと思えば、余裕そうに不敵な笑みを浮かべて百足上臈を睨みつけた。
「なめんなよ百足上臈。てめえみてえな雑魚、おれが本気を出しゃあ…」
「動けないんだろう、強い力で封印されているようだからね。そこで指を咥えて見ておいで」
どうやら百足上臈は犬夜叉が動けないことを知っているようで、まるで見せつけるように地面に近付けた口から細長い舌を伸ばした。その先には
彩音たちの体内から出た二つの玉。百足上臈はそれを器用に舌で絡め取ってしまった。
「あっ、ちくしょう!」
玉が容易く口へと運ばれるその光景に犬夜叉は身を乗り出してまで悔しげに大声を上げる。よほど四魂の玉が欲しかったのだろう。だがそれは百足上臈に呆気なく飲み込まれてしまい、同じくその光景を見ていた村人たちが再び大きくざわめきを広げ始めた。
「玉、食っちまったぞ!」
「い、いかん」
「どうなるんじゃ、楓さま」
このような事態に直面するのは初めてなのか、村人たちは誰が誰のものなのかも分からなくなるほど口々に声を上げていた。するとそんな村人たちの視線の先で、かごめに落とされた百足上臈の腕たちがザワザワザワと蠢き出す。かと思えばそれらは独りでに浮き上がり、再び百足上臈の体へと戻っていった。
(なっ…腕が、くっついた…!?)
切れ目さえ失くしてしまうほど自然に結合していく腕に
彩音は強く目を疑う。しかしそれはまだ序の口、百足上臈の瞳が赤く染まっていくと同時に額にピリ…と裂け目が入り、やがてそれは白い肌全体へ広がった。
直後百足上臈は凄まじい音を立ててその皮を破り、不気味な姿を露わにしてみせた。
「嬉しや…妖力が満ちてくる…」
そう恍惚の声を漏らす百足上臈は無数の鋭い牙を剥き出しにし、いまにも零れ落ちそうなほど大きな目玉をギョロリと動かす。
初めて目にする、人でもなければ動物でもないおぞましいもの。それはまるでおとぎ話に出てくる“妖怪”そのもののようであった。そんな姿に
彩音が血の気を引かせた瞬間、突如自分たちを締めつける百足の体に凄まじい力が込められた。
「かはっ…く…」
締めつけられる腹部から空気が込み上げる。大樹が大きな軋みを上げるほどの力に圧迫される体は、いまにも内臓が破裂してしまいそうだとひどく悲鳴を上げていた。
絞め殺される――苦しみと痛みの狭間にそんな言葉がよぎった。上手く呼吸もできず、掠れ始める視界に映ったのは見慣れない光景。
知らない森、知らない村、知らない人たち、知らない化け物。それらに囲まれて、自分はなにも分からないまま、なにも知らない場所で死んでしまうのか――そんな思いが先ほどの言葉を追いかけるように浮かんでくる。
それに伴うよう触れていた少年の衣を握り締めたその時、突然頭上から「おい」という無愛想な声が降らされた。
「この矢…抜けるか!?」
「…矢っ…?」
なにを言い出すのか、そんな思いで視線を上げてみるとそこに一本の古びた矢が見えた。それは犬夜叉の胸に深々と突き刺さっているもの。
恐らく彼はこれのことを言っているのだろう。それは瞬時に理解できたが、なぜ“抜けるか”と問うてきたのか。言葉の真意こそ分からなかったが、彼は百足上臈を睨みつけたまま、真剣な様子で矢が抜かれるのを待っているように見えた。
(これを抜けば…助かるの…?)
どこにも確信などない。しかし藁にも縋りたい状況のせいか、犬夜叉のあの問いかけがひどく救いのように感じられて仕方がなかった。
躊躇っている暇などない。少しでも助かる可能性があるのなら、いまはそれに賭けるしかないのだ。そう自分へ言い聞かせるように唇を噛みしめると、苦しさに震える手をゆっくりと矢へ伸ばした――その時であった。
「抜いてはならん!! その矢は犬夜叉の封印…そやつを自由にさせてはならん!」
「え…」
突如強く響かされた声、それは楓のものであった。この危険な状況から助かるかもしれないというのに、楓は鬼気迫る様子で
彩音を止めようとする。そんな不可解な姿に眉をひそめると、頭上から痺れを切らしたような怒号が放たれた。
「なに寝ぼけてやがんだ、ばばあ! 百足のエサになりてえのか!? そいつが四魂の玉を完全に取り込んじまったら…終わりだぜ!!」
「終わ、り…」
「どうした
美琴!! ここでおれと死にてえのか!?」
楓へ向けられる言葉にゾクリと悪寒を走らせた途端、犬夜叉はまくし立てるように
彩音にも声を荒げてくる。彼がこれほどまでに焦りを露わにして言うのだ、ただ封印から逃れたいがためのウソではないだろう。
それを感じてしまうと、“ここでおれと死にてえのか”という言葉が際限なく頭の中を駆け廻った。
「…っそんなの…絶対に嫌!!」
喉が張り裂けんばかりに叫び矢を強く握りしめた――その瞬間、バチバチと凄まじい音が響くと同時に電気のような眩い光が迸った。しかしそれも束の間、光が呆気なく治まったかと思えば、握りしめていた矢がパシ…と音を立てて虚空に溶けるように消え去ってしまう。
「矢が…」
「消えた!?」
本来ならば抜くこともできないはずの矢が消えたことに、周囲の村人や楓が血相を変えてざわめき立てる。しかし誰もが目を疑うような状況の中、
「はははっ!!」
大きく高笑いした犬夜叉は全身で喜びを表すかのように思い切り両腕を広げ、自身に巻き付いていた木の根や百足上臈の体を強く弾き飛ばしてみせた。その勢いで
彩音とかごめも地面へ投げ出されてしまうが、犬夜叉はそんなことに構う様子もなく回転し、軽々と百足上臈の目の前に立ちはだかる。
「小僧おおお」
「いくぜ年増あ!!」
諦めることなく向かってくる犬夜叉に声を上げた百足上臈が突進すると同時に、彼もまた百足上臈目掛けて勢いよく飛び掛かった。
「散魂鉄爪!!」
そう叫びながら振り下ろされた犬夜叉の鋭い爪。それはほんの一振りで百足上臈の体をいとも容易く切り裂き、断末魔さえ上げる間もなくバラバラの肉片へと変えてしまった。
あまりの速さ、呆気なさに周囲の村人たちは目を見開き、「い、一撃で…」と驚愕の声を漏らすばかり。だが当の犬夜叉にとってそれは分かり切っていた結末のようで、ダン、と音を立てて着地した彼の表情は強気な自信に満ち溢れていた。
そんな姿を見つめていた
彩音は、弾き飛ばされた際に気を失ってしまったらしいかごめに寄り添いながら、ただ呆然と目を瞬かせて滲む汗を伝わせる。
(こ、この犬夜叉って奴…すごい…めちゃくちゃ強いんだ…)
あれほど大きく多勢で闘っても歯が立たなかった相手を、たったの一撃であっさりと倒してしまったその姿に感服せざるを得ない。そんな気持ちで気が抜けたように犬夜叉を見つめていると、ふと視界に入った肉片がわずかに蠢き、思わず「ひっ!?」と短い悲鳴を上げながら後ずさった。
するとそれに気が付いたらしい楓が真剣な表情を見せ、どこか緊迫した様子で
彩音に駆け寄ってくる。
「光る肉片が見えるか!? その中に四魂の玉があるはず」
「へっ…?」
「玉を取り出さねば、こやつは何度でも甦るぞ」
「は…!? そ、そんなの絶対やだ!」
楓からとんでもないことを聞かされ慌てふためいた
彩音は、怯えながらも散らばる肉片たちの中へ足を踏み入れた。できることならばあまり見たくなかった残骸に視線を巡らせ、「光る肉片…光る肉片…」と呟きながら辺りを見回していく。そんな中、数ある肉片の一つだけが内側から淡い光を漏らしているのが見えた。
「あった!」
たまらず声を上げて駆け寄ると、途端にめちゃくちゃ嫌な顔をしながらその肉片へ手を伸ばす。形容しがたい感触にとにかく顔が引きつってしまうが、それでもなんとか二つの玉を取り出した
彩音は両の手のひらに乗せたそれを不思議そうに見つめた。
「この四魂の玉っていうのは…要は妖怪が強くなるためのものってこと…?」
「そうさ、
人間が持っていてもしょうがねえものだ」
「え」
楓に問いかけたはずが返ってきたのは男の声。思わず目を丸くして顔を上げると、そこには不敵な笑みでこちらを見下ろす犬夜叉の姿があった。
「おれの爪の餌食になりたくなかったら、大人しく四魂の玉を渡しな。
美琴、相手がお前だろうとおれは容赦しねえぜ」
そう告げる彼は百足上臈を呆気なく切り裂いた鋭利な爪を見せつけてくる。その姿から感じられるのは明らかな敵意。そのおかげか、犬夜叉も百足上臈と同じく四魂の玉を狙う者なのだと、すぐに感付くことができた。
そうと分かっては素直に渡せるはずもない。
彩音は二つの玉をギュ…と握りしめると、少年の琥珀色の瞳を見つめ返しながら静かに息を飲み込んだ。