01

パチ、パチ、小さな音が聞こえる。それによって意識を取り戻した彩音は薄っすらと目を開け、ぼんやりする目を凝らすように眉をひそめた。 どうしてだろう、明るい場所にいたはずなのに霞がかる景色はまたも薄暗くなっている。だが井戸とは違い、目の前に誰かの背中があるようだ。その向こうにはゆらゆらと揺れる灯りが見え、その傍にも人影が確認できる。 彩音はそれらを確かめるべく体を起こそうとしたのだが、その瞬間ぎこちない違和感を覚えた。なぜか体が思うように動かせないのだ。それには思わず「ん…?」と小さな声を漏らしてしまい、抵抗するように身を捩る。するとそれに気が付いたらしい目の前の人物が突如弾かれるようにこちらへ振り返ってきた。 「よかった! 目が覚めたのね」 そう声を掛けてくるのは彩音と同じくらいの年頃であろう少女。癖毛なのか、少しウェーブのかかった柔らかそうな黒髪を揺らして彩音の顔を覗き込んできた。 どうやら彼女は彩音が目覚めることを待ち望んでいたよう。そんな姿を目にした彩音は驚きながらも、彼女同様、ようやく取り付く島を見つけたような得も言われぬ安堵を胸の奥に滲ませた。 それもきっと、彼女の服装が彩音と同じであったからだ。緑色で揃えられた襟とスカートに、学校指定の赤いスカーフ。近隣の学校でこのような制服を着るのは自分が通っている学校しかないと感じた彩音は、ここが学校の近くなのかもしれない、そう思ったのだ。 そしてすぐにここがどこかと彼女に尋ねようとした、その時であった。 「気分はどうだ?」 不意に投げかけられたのは目の前の少女とは違う女の声。釣られるようにそちらを見れば、囲炉裏の火をいじる老婆がこちらを見つめてきていた。 その姿や光景に感じた、強い違和。彩音は心ここに在らずといった様子で「まあ…」と生返事をすると、今時珍しい囲炉裏に注視していた。 囲炉裏だけではない、壁も天井も、周りの全てがいまではほとんど目にすることもないほどとても古い造りをしている。そのうえ老婆が纏っているのは巫女装束。そういう趣味なのかと疑いかけてしまうが、ずいぶん着込んでいる使用感や見たこともない形の眼帯をしていることから、それが老婆の普段通りの、当然の装いなのだろうと感じられた。 拭い切れないほど漂う違和感。 例えるならそう、時代劇の風景を見ているようだ。 たまらずそんな思いがよぎっては形容しがたい悪寒に小さく身を震わせる。だが老婆はそんな彩音に気が付くことなく囲炉裏に掛けていた鍋へ手を伸ばし、二つの木製のお椀に煮汁を注いだ。それを少女の前とその隣へ並べては、 「食べよう。お主らと少し話がしたい」 そう申し出てくる。だが少女と彩音はぱちくりと目を瞬かせ、一度顔を見合わせたまま。目の前に置かれた煮汁に視線を落としはするものの、一向に手を付けようとはしなかった。 そんな二人の姿に首を傾げた老婆が「どうした、食べんのか?」と不思議そうに問い質してくると、ようやく老婆へ視線を上げた二人は眉をひそめてひどく難しい顔を見せた。 「食べんのかって言われても、この手じゃ…」 「ほどいてください」 「あ」 少女がぶんぶんと手を振りながら訴えかければ、すっかり忘れていたらしい老婆は間抜けな声を小さく漏らしてしまう。 そう、二人とも両手両足を縄で縛られていたため動くに動けなかったのだ。彩音が思うように体を動かせなかったのもこのため。おかげで彩音は床に転がったままである。 それもようやく解放されては、二人とも手首や足首を擦りながら改めて囲炉裏の傍に座り直していく。 目の前には相変わらず湯気を立ち昇らせるお椀が一つずつ。まじまじと眺める二人はそれに対してどうしても芽生えてしまう微かな不安を脳裏によぎらせるが、話がしたいと言っているくらいだ、さすがに毒は入っていないだろう。そう願うように信じた二人は手を合わせると、揃ってお椀を持ち上げた。 そうして恐る恐るといった様子のままそっと一口啜ってみれば、特におかしな味はせず、それどころか緊張を解すような優しい味が広がるのを感じて、彩音と少女は途端に明るい顔を見合わせる。 どうやらこの老婆に敵意はないらしい。それを実感したであろう二人の落ち着きを確認すると、老婆は「そういえばまだ名乗っていなかったな」と呟いて二人に向き直ってきた。 「わしの名は楓という。この村を守っておる巫女だ。それで…目覚めたお主に聞きたいのだが、お主は何者だ。なぜ犬夜叉の森にいた」 「い、いぬやしゃの森…? えっと…それが私も、なんでこんなことになってるのか全然分からなくて…」 「あたしは井戸から出てきた変なバケモノに捕まってここに来たの。あなたは見てない?」 「バケモノ…? それは見てない…けど、井戸には落とされた気がする」 そう言いながら思い返したのはあの奇妙な現象。彼女の言うバケモノどころか生き物すら見ていないが、彩音は確かに井戸らしき穴へと落とされた。それは唯一彼女と共通すること。 なぜ二人とも井戸を通ったのか、なぜ二人ともそれぞれ不可解な現象に遭ったのか、なぜ二人とも同じ場所に出たのか。分からないことはとても多くあったが、どうやら楓にも気になることがあるようで険しい表情のままぶつぶつと呟く声が小さくも確かに届いてきた。 「なぜ突然素性の知れぬおなごが二人も…一人は犬夜叉に触れていたし…もう一人は桔梗お姉さまに似ている…」 「ねえ…そのあたしが似てるっていう桔梗は誰なの?」 彩音が気を失っている間になにかやり取りがあったのだろう、少女がずっと気になっていたといわんばかりに楓へ問いかける。すると楓ははっと我に返り「すまん」と一言謝ってこちらに顔を上げた。 「桔梗はわしの姉でな、村を守る巫女だった。もう五十年も昔…わしが子供の頃に死んでしまったがね」 老婆がそう語るのを聞きながら、彩音は空になったお椀を置いた。 巫女、桔梗――その言葉はいまここで初めて聞いたもの。だというのにどこか、遠い記憶の奥深く、手の届かないところで聞いたことがあるような不思議な感覚を抱いていた。 だが、詳しくは分からない。なぜこんな感覚に陥るのかも、全然見当がつかないのだ。 またも感じる不思議な感覚。どこか気味の悪さを覚えてしまいそうになり、すぐさまその思考を掻き消すよう頭を振るったその時、ふと同じくお椀を置いた少女が彩音に声を掛けようとして「えっと…」と微かに口籠った。 「そういえばあたしたち…まだ名前知らなかったわね。あたしは日暮かごめっていうの。あなたは?」 「私は結城彩音彩音でいいよ」 「それじゃ、あたしのこともかごめって呼んで。よろしくね、彩音」 「うん。よろしく、かごめ」 そう頷けば自然と互いに表情が綻ぶ。同じ境遇、同じ学校の者同士、なんだか簡単にパーソナルスペースに踏み込み合える気がしたのだ。そのため想像以上に話は弾み、二人はここに来るまでの状況を互いに教え合っていた。 ――どうやらかごめは実家が古くからある神社で、その敷地内にある祠の井戸から百足のような体をした女のバケモノが現れ、かごめを井戸の中へと引きずり込んだのだという。そして彩音と同じように森の中の井戸に出たのだが、外に出たところを村の男たちに掴まったらしい。 そのあと少年に触れている彩音も捕えられ、縛られた二人は楓の元へと連れて来られた――というのが、ここに至るまでの流れだとか。 しかしこうしていくら話そうと、結局ここがどこなのかという情報だけが未だ手に入らない。それに歯痒くなったのか、かごめが楓へ不安げな顔を向けた。 「あのここ…東京じゃないんでしょうか」 「…聞いたことがないが…それがお主らの生国か」 (しょ…生国…?) 「えーまあ…そろそろ帰りたいかなって…」 聞き慣れない言葉に加えて、楓が本当に知らない様子を見せることに戸惑いを隠せなくなる。かごめも言葉を返しながら困っている様子がよく分かる。 この時世、どんな辺境の地に住んでいようと東京を知らない人間などいないはずだ。自分たちが日本とは一切縁のない場所に来てしまったかと疑った瞬間もあったが、こうして難なく言葉が通じている様子からその可能性はないに等しいだろう。 それに使い込まれた囲炉裏や古めかしいこの家の造り、かごめが見たという着物を纏う村人たちの姿――それらは、ずっと昔の日本の情景にとてもよく似ているような気がして仕方がなかった。 (まさか私たち…タイムスリップした、とか…?) どうしてもよぎるその可能性。あんな怪奇現象を体験したあとだ、タイムスリップまでしていてもおかしくはないのかも知れない。 そう思うものの、やはりにわかには信じがたい、信じられるはずがないと思う心も確かにあった。 それならば――ここはどこで、いまはいつ? ゾクリとする不安とともにそんな思考がよぎった次の瞬間、突然それを掻き消すかのような凄まじい破壊音とけたたましい悲鳴が響き渡ってきて楓が素早く腰を上げた。 「なにごとだ!!」 「うわっ!?」 咄嗟に駆けだす楓に続き外を覗き込んだ直後、彩音の目の前にドシャッと鈍くも凄まじい音を立てて一頭の馬が叩き付けられた。 それは軌道を描くように大量の血を吹き出して力なく地面に沈む。顔を強張らせたままその馬を見れば、脇腹の肉が大きく抉られるように欠損していて白い骨がはっきりと覗かされていた。 一体なにが起こったのか。わけも分からぬまま顔を上げれば、視界いっぱいに広がる古風な景色の中で巨大な体をうねらせるものがいた。 それは今しがた食い千切ったであろう馬の肉を咥える引き眉の女。人間のような顔をしているが、人間ではないことを一目で思い知らされるほどおぞましい姿をしていた。 肉を咥える口には大きな牙を覗かせ、体には五本の腕と一本の千切れた痕。そして一際目を引く不気味な下半身は巨大な百足そのもの―― 「あ…あいつ!!」 「まさか…かごめの言ってたバケモノって、あれ!?」 「そうよ!」 想像以上の不気味さに絶句する彩音の隣でかごめが再び出会ってしまったそれに顔を歪める。 するとその時、百足女の目が確かに二人を捉えた。彩音がその目に得も言われぬ悪寒を走らせかけた直後、百足女は天高く伸ばしていた上半身を低く下ろし地面に貼り付くように這わせてきた。 「四魂の玉をよこせえええ」 ザザザザと地を摺る音を立てながらとてつもない速度でこちらに迫ってくる。思わず「ひっ」と短い声を上げた彩音とは対照的に、百足女の死に物狂いの声を聞いた楓は血相を変えてこちらへ振り返ってくる。 「し…四魂の玉だと。お主ら…持っているのか!?」 「そもそも四魂の玉って…!? かごめ持ってる!?」 「わ、分かんないけど…村の外に連れ出さなきゃみんなが…」 彩音もかごめも心当たりなどなかったが、それ以上に気掛かりなのは村の人々の姿。応戦する者も逃げる者も、ただ一直線にこちらへ迫りくる百足女の体に激しく突き飛ばされているのだ。 このままでは死人が出てしまう。そう思わざるを得ない状況に眉根を寄せれば、どこからともなく血だらけになった男たちがこちらへ駆け寄ってきた。 「槍も矢も効かねえっ」 そう声を上げた男たちはまるで楓に縋るように後ずさっていく。やはり楓はこの村の有力者なのか、このような状況でも男たちのように取り乱すことなく百足女を見据え、すぐに一つの策を上げた。 「これは枯れ井戸に追い落とすしかない」 「枯れ井戸に…あの、それってどこですか!?」 「犬夜叉の森にある…」 “犬夜叉の森”――聞き覚えのある単語にはっと目を見張ると、彩音はすぐさまかごめと顔を見合わせた。 間違いない、自分たちが出てきた古い井戸。あれこそが楓の言う枯れ井戸だ。そう認識するなりすぐに向かおうとした彩音だが、この村へ運ばれた時にはすでに気を失っていて道など覚えているはずがない。それを思い出すと食い掛からんばかりに楓へ身を乗り出した。 「その森はどっちに!?」 「東の…」 「彩音! あの光ってるとこよ!」 かごめがそう指し示したのは広い田園の向こうでぼんやりとした光を灯す大きな森。なぜ森が光っているのかは分からないが、いまはそれを気にしている暇などない。確かに自身の目でその光を確認しては、彩音は囮となるべくすぐさま森の方へと駆け出した。するとそれに続くように駆ける足音が聞こえ、「待って彩音っ」というかごめの声が響かされる。 「あたしも行くわ!」 「駄目! 危ないからかごめはそこで…」 ついて来ようとするかごめに言い聞かせるよう振り返ったその時――百足女の目がかごめをしかと捉えていることに気が付いた。それだけではない、かごめに向かって大きく口を開こうとしている。 「! かごめっ!」 嫌な寒気が全身を駆け巡ると同時にかごめへ飛び込む。その勢いでその場を離れるよう地面へ倒れ込んだ直後、百足女の頭は今しがたかごめが立っていた場所に強く叩き込まれた。 だがその口に獲物はない。それに遅れて気が付いたか、ゆっくりと首を持ち上げた百足女は鋭い眼光でギロ、と見据えた。 そう、彩音とかごめ――二人が立っている場所を。 狙われているのはかごめか、そう考えた彩音はかごめとともに百足女が起き上がるよりも早くその場を駆け出した。だが百足女も易々と獲物を逃すはずはない。すぐさまその奇怪な巨体を持ち上げたかと思えば、途端に地面を這うよう凄まじい速度で追ってくる。 「お待ちいいい」 「だ、誰が待つかっ!」 つい言葉を返してしまいながら二人は死に物狂いで走り続ける。森は目に見えているのに、こんな状況のせいかやけに道のりが長く感じてしまう。それでも二人は決して速度を緩めることなく、息を切らせながらも懸命に森への距離を縮め続けた。 ――その頃、深い夜闇に包まれる森の中。不穏な風に揺られる木々がザザ…と鳴き声を上げる中、そこにあるひとつの命がドクン、と強い鼓動を打った。 「匂うぜ…おれを殺した女の匂い…近づいてくる…」 闇の中に浮かんだ琥珀色の瞳に怒りを灯し、低く唸るような声でそう呟くのは一人の少年。彩音たちが向かう森の中心にある巨大な樹に縛られた彼は、心の底から湧き上がる憎悪の念に体を震わせていた。

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