01

「四魂の玉を寄越せえええ」 勢いよく地を這う音と容赦なく木を薙ぎ倒していく破壊音を響かせながら百足女が叫び続ける。街灯もなにもない森は不気味なほどに暗く静かで、ただ必死に息を切らせながら駆ける彩音とかごめは聞きたくもないその声だけを耳に逃げ続けていた。 そもそも百足女の言う“四魂の玉”など、二人にとっては身に覚えのない代物だ。なんの確証があってこちらを狙っているのかと苛立ちを覚えたその時、百足女が突然凄まじい音を響かせるほどの速度で二人の頭上に飛び上がった。 「きゃっ!!」 「! かごめ…っく!」 百足女が二人を襲うことはなかったが、頭上を過ぎ去るその風に圧されてかごめが地面に叩きつけられてしまう。その瞬間彩音がかごめへ振り返ろうとするも百足女の風圧が凄まじく、ただその場に留まるよう強く地面を踏みしめることしかできなかった。 風を切る音に耳が痛む。呼吸さえ許してくれないほどの圧に体を強張らせて耐え抜くと、ふと水を打ったような静けさが二人を包み込んだ――その時だった。 「百足上臈みてえな雑魚相手になにやってんだ?」 「「え…?」」 突然投げかけられた少年の声。この場に男など――自分たち以外に人などいなかったはずだと、つい小さな声を漏らした二人は釣られるようにその視線を上げた。 そして見えたのは、彩音が気を失う前に見つけた赤い着物の少年。 確かに眠っていたはずの彼はしっかりと目を覚まし、依然として木の根に縛られたままこちらを見つめていた。否、その琥珀色の瞳が捉えているのはかごめ一人。彩音が見つけた時とは対照的に不敵な笑みを小さく浮かべ、悠然とした態度で彼女を見下しているようだった。 (あの人…なんであんな表情…) 「あ…あんたは…?」 彩音がどこか挑発的な少年に疑問を抱くと同時に、少年を見たこともないかごめは戸惑いを含んだ声で問いかける。しかし少年はそれに答える気がないようで、一層胡乱げな笑みを深めながら鋭い牙らしき歯を覗かせた。 「一発で片付けろよ、桔梗。おれを殺った時みてえによ」 「桔梗って…なに言ってんのよ、あたしの名は…」 「来るぜ」 かごめが反論しようとした刹那、少年はほんの一瞬匂いを嗅ぐような仕草を垣間見せたかと思えば呟くように言う。その言葉に彩音もつい「え…?」と声を漏らしてしまうと、頭上で小さく物音が聞こえた気がした。 ――次の瞬間、突如二人の目の前に“百足上臈”と呼ばれたあの百足女が飛び込んでくる。頭上で隙を伺っていたのか、巨大な体を丸ごと降らせてきたそれは油断していた二人の体へ掴み掛かろうとした。 だがその刹那、百足上臈を阻止せんと勢いよく放たれた複数の銛のような武器が、瞬く間にその白い肌へ突き立てられていく。どうやら村の男たちが二人を追ってきていたようだ。二人がそれを横目に確認すると同時、男たちは銛に繋いだ綱を引き寄せて二人から百足上臈を強引に離してくれる。 いまのうちに少しでも離れよう。そう悟った彩音はすぐにかごめの手を取ると、そのまま大樹の陰へ逃げるように身を潜めた。 「た…助かった…」 「はあ、よかった…かごめ、大丈夫?」 「うん…」 バクバクと痛いくらい早鐘を打つ心臓を抑えながらひとまずの安堵にため息を漏らす。しかしそんな緊迫した空気の中、慌てふためくかごめを嘲笑うかのように「へっ、」と吐き捨てた少年だけは変わらず侮蔑的な笑みを浮かべていた。 「ざまあねえな、桔梗…」 「あんたね――」 本気でかごめを桔梗だと思っているのだろう、依然として名前を訂正する様子はなく初対面でも平気で馬鹿にしてくる彼に当然かごめは眉根を寄せた。それどころか彩音の手を振り払い、少年の眼前へと詰め寄っていく。 「人違いしないでよ、あたしは桔梗なんかじゃ…」 「けっ。ふざけんな、こんな鼻持ちならねえ匂いの女お前の他に……ん?」 反射的に吠え掛かった少年だったがおかげでしっかりとかごめの顔を見止め、途端に大きく眉をひそめながら黙り込んでしまう。どうやら、ようやく人違いだと理解したようだ。かごめの顔を見つめていた少年はやがて大きな目を丸く見開き、「桔梗じゃ…ねえ…」と狼狽えるように呟いている。 するとそれを聞き逃さなかったかごめがすかさず釘を刺すように、少年へ身を乗り出すほどはっきりと強く言い放った。 「わかった!? あたしの名前はかごめ。かっごっめっ」 「桔梗はもっと賢そうだし…美人だ」 「な゙っ…」 (こいつ、めちゃくちゃ失礼だな…) なんともあっさりと言ってしまう少年に彩音まで呆れのような表情が浮かんでくる、そんな時、かごめから顔を背けた少年と自然に目が合った。 思えば少年は目を覚まして以来かごめしか見ていなかったため、目を合わせるのは初めてだ。それを頭の片隅で思った彩音が改めて少年を見つめると、対する彼は途端に面食らったように血相を変えて彩音の姿を見つめ返してきた。 「美琴…!? お前っどうして…」 駆け寄ろうとしたのか、少年は途端に彩音へ身を乗り出してくるが、その体は依然として太い蔓のような根に拘束されたまま。彩音との距離は一切縮まることがなかった。それにひどくもどかしい様子を見せる少年とは打って変わり、少しだけ驚かされた彩音は次第に眉をひそめてかごめとともに呆れの表情を浮かべてみせた。 「今度は私? 残念だけど、それも人違い」 「あんた、いまあたしと桔梗を間違えたばっかりじゃない」 「いいや…お前は確かに美琴だ」 「はあ…? その根拠はどこからくるわけ?」 譲らない少年に悪態づくよう目を細めて言うが彼の様子は変わらない。どこか切なく申し訳なさそうに歪めた表情で、ただ真っ直ぐ彩音を見つめていた。 それはあまりに真剣そのもの。なぜだかその目を見ていると、勘違いなどではなく彼の言っていることが本当なのではないかと思えてくるほどだった。 かごめを桔梗と間違えていた時とはずいぶん違うその態度。美琴とは誰なのか、それほど似ているのだろうか、一体少年はその人物となにがあったのだろうか。思わずそんな疑問が脳裏によぎったその時、突然傍でかごめの短い悲鳴のような声が上がった。 直後、振り返ろうとした彩音のすぐ傍へドカドカと鈍い音を立てながら村の男たちが投げ飛ばされてくる。百足上臈に振り払われたようだ。さらに百足上臈はすぐさま身を翻し、男たちに気を取られていたかごめの脇腹を強く掴み込んできた。 「あ…」 「かごめ!」 百足上臈に引きずり込まれそうになった途端かごめと彩音が互いに手を伸ばす。だがその手が取れたのは片手だけ。慌てた二人は咄嗟に空いた手で近場のものを強く握りしめ、百足上臈に必死の力で抵抗しようとした。 「は~な~し~て~っ!」 「かごめを放せ~っ!」 「いででででお前らが放せっ!」 引き込まれる体を必死に留めようとする二人の声に加えて少年の悲鳴が混ざり合う。どうやら二人が咄嗟に手にしたのは少年の銀色の髪だったようで、勝手に巻き込まれた少年は抵抗もできないまま二人と同じように大声で叫んでいた。 しかしその時、三人の悲鳴の中にミシミシミシとなにかが裂けるような音が割り込んでくる。それは百足上臈の方から聞こえた音。たまらず振り返るとそこには、大きく裂けた口に二本の鋭い牙を露わにするおぞましい妖怪の顔があった。 「面倒だ…この体…四魂の玉ごと喰ろうてやる…」 「「なっ…」」 「(四魂の玉…!?)」 百足上臈の口から出た言葉に各々が表情を一変させる。だが中でも少年だけは“四魂の玉”という言葉に耳を疑い、ひどく驚いたように目を見開いていた。しかしその真偽を確かめようにも少年は拘束されている。それどころか誰にも隙を与えんばかりの勢いで百足上臈の大きな牙がかごめへと迫った――その刹那、 「やめてーっ!」 途端に大きく響いたかごめの悲鳴。それと同時に突き出された右手が百足上臈の顔面に押し当てられた瞬間、パシ、と乾いた音を立てて眩い光が放たれた。すると途端に百足上臈の腕が全て溶けるように千切れ、ボロボロと落ちていく。 その快挙に村人たちからは「おおっ!?」と歓声が上がるが、彩音は目にしたこともない力に目を丸くし、かごめ自身も己の知らない力に戸惑っているようだった。 だがその一瞬の隙――そこを衝くように「おのれえええ」と割れんばかりの怒号を上げた百足上臈がかごめの脇腹へ勢いよく喰らい付いた。目にも留まらぬ速さで天に突き上げるよう襲われたかごめの体は宙を舞い、百足上臈の口から離れ、落ちていく。 その時だった。彼女と百足上臈を繋ぐように線を引く鮮血の中で、カッと光り輝くものが宙を舞ったのは。 「ああっ!? 腹の中からなにか…」 「四魂の玉!」 「!」 言葉を失う彩音とは対照的に、村人や楓はその光輝く小さな玉に驚愕の声を上げた。強い反応を見せたのは犬夜叉も同じだ。皆信じられないとでも言うように目を見張り、地面へ転がるその玉に注視していた。 横たわるかごめの目の前には血に濡れた玉が一つ。手のひらに収まるほどのそれは紫がかった桃色をしていて、まるで誘惑するかのように淡い光を揺らしている。 (あれが…四魂の玉…!?) 「(あたしの…中から…?)」 全員の意識を奪う玉に、言葉を失う彩音とかごめまでもが釣られるよう目を向ける。少し不思議な雰囲気はあるが、どう見てもただの硝子玉だ。なぜこれがそれほどまでに執着されるのか、その理由を露ほども知らない彩音が眉をひそめると同時にかごめはゆっくりと震える手を伸ばそうとする。 そんな時、口の端を血で汚した百足上臈が低く唸るような声を漏らした。 「やはり体内に隠し持っていたな…だが…まだ感じる…」 「!?」 聞こえた言葉にゾクッ、と悪寒が走る。まだ感じるとはどういうことなのか、それを考えるよりも早く見上げた百足上臈の鋭い眼光は、間違いなく彩音を捉えて離さなかった。 ――逃げなければ。直感的によぎったその思いは即座に彩音の体を動かした。逃げなければ自分も襲われる。しかし逃げるなどどこへ、どうやって。 そんな思いで頭が埋め尽くされかけた時、地面から露出していたらしい樹の根にガッ、と足をとられてしまった。 「あっ…!?」 「玉を寄越せえええ」 「美琴っ!」 体が傾き始める中、百足上臈と少年の声が同時に響く。その直後、脇腹に鋭く激しい痛みが走った。百足上臈の牙が、彩音の脇腹を斬り裂いたのだ。その衝撃に弾き飛ばされた彩音の体は地面に叩き付けられ、強く顔を歪める。だがその目の前にトンッ、と小さな音を立てるものが落ち、彩音の手に触れるよう転がってきた。 (…え…これ…って…) 「四魂の玉が二つ!?」 手に触れた感触に薄く目を開ければ、そこにはかごめの体内から出てきたものと同じ“四魂の玉”と呼ばれるものがあった。それは確かにいましがた彩音の体から取り出されたもの。それを見た周囲の村人たちがひどく戸惑い困惑する声を大きく上げては、一層慌ただしくざわめき始めていた。 どうなってるんだ。 どうして四魂の玉が二つも。 どっちが本物なんだ。 誰しもが口々に喚き立てる様子に彩音は強く眉をひそめる。本来この玉は、二つも存在しないはずのものなのだろうか。村人たちの声にそんな思いがよぎらせては、そっと手にした玉を見つめた。 自身の手の中に収まるほどの、不思議な玉。それはどこかで見たことがあるような、いわゆるデジャヴを微かに感じさせるもの。だがどうしてそう感じてしまうのか、一体どこで見たというのか、それを思い出そうと顔をしかめた――その時だった。

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