01

二〇一六年、東京―― 溢れ返るほどの人々が行き交う都会のとある場所。敷かれたレールの上を規則正しく走る電車が、今日もまた時刻通りに多くの人々を運んでいく。 そんな中、心地よい揺れに眠る一人の少女がいた。 ――ふわふわとした感覚に包まれながら、まるで白い真綿に覆われるような曖昧な景色の中に立つ“少女”。目の前にはそれよりも背の高い、一人の男が“少女”を見つめていた。 その男の姿は雪のように白く、それでいてどこか氷のような鋭さを秘める端麗な顔立ち。膝裏まであろう長い銀の髪を緩やかに揺らす彼は、微かに憂いを帯びた瞳をしている。 そしてそれを静かに見つめていた“少女”は視線を落とし、得も言われぬ寂しげな表情を垣間見せた。とても、痛ましく。 ――だがその“少女”は、今この夢を見る少女自身ではなかった。 「なぜお前が…自らその役目を負うと言う」 少女がわずかな違和感に苛まれる中、男が低くそう呟く。目の前に立つ彼ははっきりと表情に表さないものの、それでも確かに悲しげな色を秘めた瞳で“少女”を見つめていた。 「ごめんなさい…でも、これを成し遂げられるのは…私しか…」 対する“少女”も悲しみに顔を歪めながら持ち上げた顔を再び俯かせ、言葉を返す。 これは少女がそうしたいと意思を持ったわけではない。“少女”の視点こそは眠る少女と同じだが、その体はまるで全く別の人間が操っているかのように、少女が意図しない言動を勝手にとっているのだ。口も瞳も、表情も、全てが誰かの意思で動いている。 そんな形容しがたい感覚に少女が気味の悪さを感じ始めた頃、体は小さく持ち上げた右手を緩く開いてみせる。すると白い指の下に見えたのは、手のひらに収まってしまうほどの大きさをした一つの玉。それは紫がかった桃色をしていて、同色の淡い光をほのかに纏っている不思議なものであった。 「私の力では…四魂の玉の妖力を半分に分けることしかできなかった…だからせめて、これだけでも私が…」 「全て…あの巫女とともに葬ってしまえば良いのではないのか」 玉を握り締める“少女”に男は食い下がる。その言葉に“少女”はより強く玉を握りながら、小さく唇を噛みしめた姿を隠すように力のない笑顔を浮かべた。 「…最期まで全て任せるなんて、できない…したくないの…」 どこか懇願に似た声色でそう告げると、男はほんのわずかに眉間にしわを寄せて口をつぐんだ。すると“少女”は手を伸ばし、絆すように男の頬へ優しく触れる。愛おしく、惜しむように。その手に男の大きな手が重なると、“少女”は柔和に綻んだ笑みで男の金の瞳を見つめた。 「大好きよ――」 「――(せつ)…」 目を覚ますと同時に口を突いて出る小さな声。その瞬間ドクン、と強く脈打つような感覚に襲われて、少女――彩音ははっと目を見張った。 いつの間にか眠っていた。そのうえ、小さくも寝言を言ってしまったらしい。意識が覚醒した途端にそれに気が付いてはすぐさま辺りの様子を窺う。 しかしどうやらそこには彩音以外の人影などなく、誰にも聞かれていなかったと分かってはほっ、と安堵のため息を漏らした。 (電車内で爆睡したうえに寝言とか…) 思わず自分自身に呆れ返れば乾いた笑みが浮かぶ。よほど疲れでも溜まっていたのだろうか、などとぼんやり考えながらスマホを取り出すとホームボタンに力を込めた。 ホーム画面には様々なアプリのアイコン、その上部には電波や時計、バッテリー残量が表示される。見慣れたそれをぼうっと見つめる彩音は、いつも電車を降りる時間までまだ掛かるな、と考えてスマホをポケットに押し込んだ。 しかしそんな時、ふと強い違和感に苛まれた。 「え…あれ…?」 つい小さな声を漏らしてしまいながら顔を持ち上げる。先ほどは寝言を聞かれていないかと焦ってしまい気に留める余裕もなかったが、冷静になってみればその不自然さが嫌というほど分かった。 どういうわけか、辺りに“誰もいない”のだ。通勤ラッシュであるはずこの時間に、誰一人。 電車に乗った時には確かに大勢の人々がいたはずだった。それからしばらく揺られていたとはいえ、これほどごっそりと人がいなくなったことなど今までに一度もない。まさかみんな違う車両へ移動してしまったのだろうか、そんな思いをよぎらせては座席を立って両側の別車両を見つめてみるが、そのどちらにも、どこにも人の存在を感じられはしなかった。 「な…なにこれ…どういうこと…?」 あまりに強すぎる違和感は徐々に大きな不安を膨らませる。それに伴うように心拍数が上がりつつある中、何度も周囲を見回した。 何度、どこを見ても、誰もいない。そのうえ窓の外は暗く、まるで窓そのものを黒く塗り潰されたようになにも見えなくなっていた。 なにもかもが分からない。なにもかもが不安を煽る。 そんな時いつか友人と見た都市伝説が脳裏に甦り、得も言われぬ悪寒がぞっと背筋に走った。どうしてこんな時に思い出してしまうのか。そんな後悔に苛まれかけた時、突然それを肯定するかのように緩やかな重力を加えられた。どうやら電車が止まったらしい。その重力を感じたことでこれまで電車が走り続けていたのだと知るほど静かなこの空間に、ガタタ、と少々荒い音を立てて大きな黒い口が開かれた。 「駅…?」 電車が止まり、乗降口が開いたということはどこかの駅に辿り着いたということ。そう察してみたものの四角く口を開くそこは依然として黒く、ホームらしき景色などなにひとつ見えはしなかった。 駅ではないのだろうか。彩音は一層眉をひそめると鞄を抱きしめ、ゆっくりと乗降口へ歩を寄せた。そうして見えたのは、真っ黒な空間にぽつんと浮かぶ正方形。なにもない空間であるはずなのに、その正方形の内側にだけは、切り取られたような澄んだ青空があった。 (なに…あれ…) この奇妙な空間に似つかわしくないほど清々しく澄んだ空は絵のように平面的で、けれど確かに雲を流している。 なぜそこだけ、なぜ空が、その光景を目にした一瞬の間に様々な思いが交錯する。より奇怪さを増すその光景に鞄を強く抱きしめ深いしわを刻み込んだ彩音は、からりと乾いた喉で強く息を飲んだ。そしてその光景から逃れるようにゆっくりと、一歩を後ずさろうと足を引いた――その時であった。 『奴を殺せ』 どこからともなく聞こえた声。まるで頭の中に直接響くようなその不気味な声に目を見張った時、彩音の体は電車から突き飛ばされるように虚空へ放られていた。 なんで、どうして、誰が、様々な思いが頭の中をぐちゃぐちゃに巡り回る中、彩音の体は抵抗などできるはずもなく四角い空へと落ちていく。 咄嗟に見上げようとも頭上に電車などない。ただ黒い闇が広がる中、いつしか落ち続ける彩音の周囲には石を積み上げたような壁が四方に長く長く続いていた。 そうそれは、例えるならば井戸のよう―― 直感的にそう感じ取った次の瞬間、突如放たれた眩い光に包み込まれるよう意識を手放してしまった。 * * * 「っ…」 意識が戻り始めた瞬間、意思とは関係なくピク、と指が跳ねる。それによってはっきりと目を覚まし瞼を持ち上げると、ぼんやりと霞んだ景色が視界いっぱいに広がった。 薄暗い。先ほどの黒い闇とは打って変わってわずかに光の届くこの場所は、なにやらひんやりと湿った空気が立ち込めているようだ。 「井戸…?」 体を起き上がらせると同時に見上げたのは遥か頭上。やはり気を失う前に見えた壁は井戸のそれで、遠くにはあの時見たものと同じ清々しい空が優雅に雲を流していた。 どうして井戸なんかに出たのだろう。 さっきまでいたあの空間はなんだったのだろう。 落とされる前に聞こえたあの声は誰のものなのだろう。 “奴を殺せ”とは、一体どういう意味なのだろう。 理解しがたい現状に様々な疑問が巡る。鼓動が早い。気持ちが悪い。グシャリ、柔らかい土を握り締めてはもう一度空を見上げた。 「ここから出なきゃ…」 じっとしていても色んな思いが巡って落ち着かないだけだ。そう考えては、ひとまずこの井戸から抜け出して早く日常に戻ろうと決意した。 先ほどの奇妙な現象が本当にあの都市伝説と同じなのかは分からない。だがあの経験をしたと語る人たちは無事に元の世界へ戻っている。ならばきっと、自分だって戻れるはず。 まるでそう言い聞かせるかのように何度も心の中で唱えては、井戸の壁に伸びる青々としたツタを握り昇っていく。 案外丈夫なものだ。細くも切れはしなかったツタにそんな思いを抱きながら、ようやく辿り着いた井戸の縁へ力強く手を掛ける。そのまま力を込めてなんとか這い出すように体を持ち上げ乗り出すと、途端に広がった目の前の光景にギク、と肩を跳ね上げた。 「え…ここ、どこ…!?」 突然視界いっぱいに広がったのは豊かに生い茂る草木の緑。背後を見ても、左右を見ても、どこを見ても閑静な自然だけが彩音を取り囲んでいた。 自分は井戸へ出る前、確かに電車の中にいたはずだ。それに東京に――自分の知っている土地に、これほど雄大な森などなかったはず。途端にそんな思考がよぎっては井戸を抜け出し、もう一度しっかりと辺りを見回し直した。 だが何度やり直そうとも景色は変わらず、木々の向こうにもビルなどの建物らしき影はなにひとつ見えやしない。 「どうなってるの…? なんで私…こんなところに…」 きっと誰も出入りしていない場所だ。辺りの整えられてもいない景色についそう感じてしまっては、先ほどの不安がまた溢れ返りそうになる。 だが、考えてはダメだ、いまはこの森を抜けださなければとかぶりを振り、すぐに草木を掻き分けるよう小走りになって進み始めた。 どこへ進めばいいのかなんて分からない。それでもなにか情報を得られればと、目立つものを捜しながらおもむろに慣れない森を突き進んでいく。 そんな時、ふと前方に見えてきたのは大きくそびえ立つ立派な大樹だった。 「なんだろ…他とは違う樹…」 見たこともないほど立派な樹にどこか感銘を受けるような思いを抱えながらも、とにかくそこへ向かってみようと足を踏み出す。あれだけ大きくて目立つ樹だ。もしかしたら有名なもので看板かなにかが近くにあって、ここがどこなのかを知ることができるかもしれない。そんな淡い期待を抱いた彩音は藁にも縋るような思いで駆け出し、茂みを突き抜けるように夢中でその木の根元へ走っていった。 「…っはあ、着い…た…?」 ようやく開けた場所へと抜けた途端、視界いっぱいに広がった大樹の根元の景色に語尾を小さくする。次いで呆然とするように、何度かぱちくりと目を瞬かせる。 なぜならそこには彩音が求めていた情報などなにひとつなく――代わりに、一人の少年の姿があったのだ。 綺麗な銀色の髪を緩やかな風になびかせている少年は見慣れない形状をした真っ赤な着物を纏い、まるで大樹へ縛り付けられるようにしなやかな根に絡められている。だが少年に意識はないのか、静かに眠るように深く目を閉ざしていた。 (な、なんだろうあの人…コスプレ、してるのかな…) 上下ともに真っ赤な着物、一切濁りのないたっぷりとした銀の髪。見慣れないその姿にそんな可能性をよぎらせた。 確かに世の中には髪の色を明るくする人がいるが、合わせてこんな服装をする人など見たことがない。それにこんな森の中で木の根に絡まっているなど普通ならばあり得ないことで、彼が一体なにをしているのか分からなかった彩音はつい警戒の目を向けていた。 しかし少年はやはり眠っているのか、一向に目を開く気配がない。他に誰かいないのかと辺りを見回してみるも、それらしい人の気配すら感じられなかった。 どうやらこの場所にいるのは、彩音とこの少年の二人だけらしい。それを悟ると小さく息を飲み、もう一度少年へ顔を上げた。 できることならば見知らぬ人にあまり関わりたくはない、だが状況が状況であるだけにこの少年へ声を掛けるしかないと感じてしまったのだ。 「えっと…す、すみませーん。なに、してるんですかー…?」 どこか怯えながらもそっと声を掛けてみるが相手からの返事はない。それどころか少年はぴくりとも反応を見せることなく、固く目を閉ざしたままだ。 聞こえなかったのか、はたまた本当に寝ていて相当熟睡しているのか。そう思った彩音は躊躇いながらも少年に絡む木の根を登り、ゆっくりと少年の目の前まで近付いた。 「おーい…」 もう一度控えめに声を掛けてみるがやはり変わらない。起こしてしまってもいいのだろうかと不安になりながら少年をまじまじと見つめていた、そんな時、ふとわずかな既視感らしき感覚を抱く自分に気が付いた。 (あれ、なんだろ…この人どっかで見たことあるような…いや、別の人…だったかな…) どうしてかこの少年のことを、あるいは似ている誰かのことを、知っているような気がした。そう思うのはきっとこの珍しい銀色の髪のせいだ。全然それらしい人物像が思い出せないというのにどうしてかそう感じてしまうと、無意識のうちにその銀色の髪を梳くように撫でていた。 (柔らかい…でも、なにか違う…もっとこう…さらさらとしていたような…) 思い出せない人影に悩みながらも確かに違うという感覚だけはあって、どこか寂しいような不思議な気持ちになる。たまらず手を引いてもう一度少年の顔に向き直ると、ふと、頭の上の二つの尖がりに気が付いた。 「えっ、耳…?」 髪にばかり目を向けていたが、よく見れば少年の頭に髪と同じ色をした獣の――犬のような耳がついていた。 やはりコスプレなのだろうか、ついそう思ってしまう彩音であったが、それはとても作りものには見えない柔らかそうなもので。さらにはそれが“頭から生えている”ようにしか見えないことから、彩音は強い違和と同時にじんわりと滲み出す興味を感じていた。 (まさか…ね) ごくり、もう一度小さく息を飲んでは「失礼します…」と声を掛けた。そうして伸ばした両手は左右それぞれの耳を摘まんで、ほんの軽く引っ張り上げる。しかしそれは全然外れる様子がなく、むしろ本物の耳のようにしっかりとくっついている生々しい感触を指先に伝えていた。 「えっ…こ、これ、本物じゃ…」 「そこでなにをしている!」 思わぬ感触に驚いたその刹那、どこからともなく怒号が響いてきたかと思えばなにかが細く風を切るような音がいくつも聞こえた気がして。直後、自分の顔や肩のすぐ傍に数本の矢がカカカッと勢いよく突き刺さった。 その時わずかに掠められたらしい自身の髪が一、二本ほど、はらりと散っていく様が見えてしまう。 「ここは禁域じゃぞ」 「他国の者か!?」 矢が飛んできた方角からそんな声が聞こえてきて、硬直した体を軋むロボットのようにゆっくりと振り返らせる。逆光で姿こそよく見えないが、そこには確かに誰かの人の影。 待ち望んでいた意識ある人間との接触なのに、彩音の視線は再び真横の矢に吸い寄せられていく。 間違いなくこれは自分に向けられた敵意そのもの。一歩間違えれば頭を打ち抜かれて死んでいたのではないか――たまらずそんな思考が脳裏をよぎった途端、頭から血の気が引いていくような感覚に包まれて彩音は少年へ覆い被さるよう静かに気を失ってしまった。

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