16

犬夜叉に脅されながらも動じない奈落はあくまで余裕げに飄々とした態度を見せる。それにさえ込み上げる怒りを抑えながら射殺さんばかりに奈落を睨み付けていれば、そこへ警戒を携えた彩音たちが駆け寄ってきた。 状況が分からない彩音とかごめを除き、一同は皆鋭い目で奈落を見据える。そのような四面楚歌にありながら、それでも奈落という男は悠長に不気味な笑い声を漏らしていた。 「くくく犬夜叉…なぜ自分が憎まれているのか…理由(わけ)も分からぬでは死んでも死に切れんだろうな」 「……てめえ一体なんなんだ?」 全てを知っているかのように思わせぶりな口を利く奈落へ犬夜叉はわずかに顔を歪めながら問いただす。しかし奈落はそれに直接的な答えを返すことなく「くくく…」と滑稽そうに喉を鳴らすと、ふと背後の楓へとその顔を振り返らせた。 「楓…すっかり年老いたな」 「! わしを知っておるのか。貴様やはり…」 「鬼蜘蛛なのか!」 楓が忌々しげに口にするのに続いて犬夜叉が声を荒げる。やはり犬夜叉たちが考えていたように、奈落は桔梗がかくまっていたという手負いの野盗、鬼蜘蛛と関りがあるようだ。 誰しもがそれを確信するように身構える中、現代にいた彩音たちはなにひとつ知らない情報に眉をひそめてしまう。だがそれに構っている余裕のある者などおらず、皆奈落の次なる言葉を聞かんと耳を傾けていた。それに、奈落は絶えず卑しく笑みをこぼす。 「くくく確かに…この奈落は五十年前、鬼蜘蛛の洞穴で生まれた。それというのも桔梗が…桔梗の霊力が日ごとに弱まり、この地の妖怪たちを封じ切れなくなっていたから…」 「……」 「なぜだか分かるか犬夜叉…桔梗がつまらん半妖に惚れて、ただの無力な女に成り下がったせいだ」 失望するように、呆れるように吐き出される言葉。犬夜叉はそれにほんのわずかながら至極不快そうな反応を垣間見せた。それを知ってか奈落はなおも口を開き、流暢な言葉で続きを語り続ける。 「そして鬼蜘蛛…あの邪気の固まりのような男は、桔梗に浅ましい想いを抱いていた。動けぬ鬼蜘蛛の凄まじき邪念は洞穴の中に籠り、その邪気が妖怪を呼び集め…」 「“ここ”から出られるなら貴様らに魂でもくれてやる。その代わりおれに自由な体を…四魂の玉を奪い、桔梗をおれの女にする力を寄越せ…」 「そうして寄り集まった妖怪が一つになり生まれたのが、この奈落よ」 「では鬼蜘蛛は…」 「くくっ、汚れた魂も体も…あの場で喰らい尽くしてくれたわ。良い肥やし代わりにはなったがな」 楓の声に奈落は滑稽そうに嘲笑いながら言う。自身の元となった鬼蜘蛛に対し、感謝やそれに似た感情などは一切持ち合わせていないようだ。それどころか見下してさえいるようで、先ほどの言葉通り本当に肥やし程度にしか思っていないのだろう。 犬夜叉はそんな奈落を不快そうに睨視しながらその表情をきつく強張らせていき、ひどく怒りを抑え込んだ震える声で問いかけた。 「…なぜおれと桔梗を罠にかけて美琴を襲った」 「決まっている…桔梗の心を憎しみで汚し、四魂の玉に怨みの血を吸わせるためよ。桔梗は美琴を妹のように可愛がっていたからな。それをお前が傷つけたと知れば、当然憎しみは深まるだろう。信じ合った者同士が憎み合い殺し合う。これほど救い難いことがあるか。そして想いが強ければ強いほど…憎しみは増し玉は汚れる。犬夜叉…お前とて桔梗を憎んだはずだ。くくく…」 「くっ…」 楽しむように小さく笑いながら告げられる言葉に犬夜叉は唇を噛み締める。 悔しいが奈落の言うことは確かだ。桔梗に封印されたあの日から、犬夜叉は確かに桔梗をひどく憎み続けていた。だからこそ――それが事実であるからこそ、悔しかった。奈落の思惑通りにされていたことが、とてつもなく腹立たしかった。 「あとは桔梗が、我が身かわいさに…四魂の玉に願をかければ良かったのだ。自分だけは生き永らえたいと…浅ましい願をかければ良かったのだ。それを待って桔梗を八つ裂きにし、汚れきった玉をいただくはずだった。ところがあの女…美琴に四魂の玉の妖力を分けさせ、玉の片割れを抱え込んで死におった」 嘲笑から一変、抑揚が少ないながら憎悪に近しい感情をたたえた忌々しげな声で奈落は語る。それとは対照的に、自身の知らなかった桔梗の過去を聞かされた犬夜叉は耳を疑うように目を丸くしていた。 「(桔梗…生きようとは思わなかったのか?)」 (美琴さんだっていたのに…それでも桔梗は死を選んだんだ…犬夜叉のあとを、追うために…) 切なさ、儚ささえ感じるその事実に彩音は言葉を失うよう黙り込んでしまう。 当時、犬夜叉を封印したあと桔梗は美琴と会っていたはずだ。彼女が四魂の玉の妖力を分けたというのだから。だというのに、凄まじい治癒能力を持つ美琴がいたというのに、桔梗はその力を借りなかった。生きていられたのに、それでも選んだのは死という先の閉ざされた道―― 桔梗はそれだけ、犬夜叉のことを想っていたのだろう。 彩音はそれを悟ると、彼の表情を窺うように視線を向ける。同時に、顔を隠すよう深く俯く奈落からまるで唾棄するかのような、ひどく不服そうな声が漏らされた。 「おかげで四魂の玉をとり逃がしたわ…それもお前ごとき半妖のせいで。まったくつまらん…愚かな女よ」 「くっ…てめえ…よくも桔梗のことを…」 奈落の口から吐き出される言葉の数々に犬夜叉の顔が一層きつく強張る。ついにはたぎる怒りに血を滴らせるほど強く唇を噛み締め、体を小刻みに震わせるほど必死に拳を握りしめた。 「許さねえ!!」 瞬間、込み上げる怒りを暴発させるよう目にも留まらぬ勢いで爪を振るい、奈落の体を背後の木もろとも強く断ち切った。途端に激しい音を立てて倒れる木。だがそこに奈落の姿はなく、はっと見上げた頭上に複数の最猛勝を伴って軽々と宙へ舞い上がる奈落の姿を見つけた。 それにいち早く反応したのは弥勒だ。 「逃がすか!」 すかさずそう口にしながら素早く錫杖を投げつける。しかし奈落はそれを容易く打ち払ってみせると、犬夜叉の爪に切り裂かれた狒狒の毛皮を引きながらタン…と地表へ降り立ち、同時に彩音へ鋭い視線を向けた。 「!?」 思わずビクッ、と肩を震わせる。黒い着物の袖に隠される顔にはひどく影が掛かっており、そこに浮かぶ笑みが、光る鋭い目が、彩音の心臓を鷲掴みにするような感覚を抱かせたからだ。 だがそれも束の間、そんな彩音を背後へ隠すように弥勒が間へ立ちはだかれば、奈落の視線は静かにそちらへ向けられる。 「くくく、お前が弥勒か…じいさんに似て女好きそうな顔をしているな」 「私の顔のことなどどうでもよい」 飄々とした態度で挑発的な声を向けてくる奈落へ弥勒は険しい表情を見せて言い捨てる。その奈落が気に食わないのは弥勒だけでなく、背後でひどく不快そうな表情を浮かべる犬夜叉も同様――否、それ以上の怒りを露わにしていた。 「軽口叩いてんじゃねえ! てめえ…ぶっ殺してやる!」 感情のままに激しく怒号を上げる犬夜叉が鬼気迫る表情で奈落へ飛び掛かる。だが次の瞬間、突如奈落の足元から粘度を持った奇怪な液体がゴボッ、と音を立てるほど勢いよく大量に溢れ出した。それは凄まじい濃度の瘴気。それが瞬く間に地面を伝うよう広がると、下敷きとなった地面から焼け焦げるような音が上がり同時に黒くただれていった。 「地面が溶けて…危ない!」 「!」 押し寄せる瘴気の波に溶かされた木が彩音を目掛けて倒れてくる。しかしそれに目を見張るが早いか、咄嗟に腕を引き寄せてくれた弥勒によって間一髪それを免れ、彩音は掠り傷ひとつ負うことなく弥勒の腕の中に収められていた。 直後、木は彩音が立っていた場所へ力なく倒れ込み、まとわりつく瘴気によって泡立つほど無残に溶かされていく。その凄まじい光景を見つめながら、二人は揃って汗を滲ませるほど顔を強張らせた。 「な…なんという瘴気…彩音、無事か?」 「う、うん。弥勒のおかげでなんとか…」 ありがとう――そう続けようとした、その時であった。突如背後からグイッ、と強く腕を引かれ、体がいとも容易くそちらへ傾いていく感覚に襲われる。唐突な出来事に驚くまま咄嗟に背後へ視線をやれば、そこには瘴気を纏いながら怪しげな笑みを浮かべる奈落の姿があった。 「美琴よ…貴様には大人しくついて来てもらうぞ」 「なっ…――っ!?」 目の前に迫った敵の姿、美琴を知っている事実。それらに目を見張るほど顔を強張らせたその瞬間、口の中へ流れ込んできた瘴気が途端に肺を焼くような激痛を迸らせた。たまらず咄嗟に口を覆うもすでに遅く、体内へ潜り込んだ瘴気は彩音を内側から蝕むように痛みや熱を広げていく。 大量の汗が吹き出し、痛みを覆うように治癒の温もりが発せられた感覚を抱く――その刹那、彩音は激痛に耐え兼ねたようにフ…と意識を手放してしまった。力なく崩れ落ちるその体は、静かに奈落の腕の中に収められる。 「彩音!?」 「彩音っ!」 彼女の異変に気が付いた犬夜叉が声を荒げ、同時に弥勒が彩音を取り戻さんと強く手を伸ばす。しかしその手が届くことはなく、それをせせら笑うような表情を見せた奈落は彩音を抱えたまま炎の如く巻き上がる瘴気の中へその身を隠していく。 するとその瞬間、強く地を蹴った犬夜叉が躊躇いひとつなく瘴気の渦の中へ飛び込んだ。 「奈落! 逃がさねえぞ!」 「戻れ犬夜叉、体が溶ける…」 我を失ったように怒りひとつで突き進む犬夜叉へ弥勒の制止の声が上がる。だが彼は足を止めようとはせず、凄まじい勢いで肌が焼かれることにも構うことなく瘴気の中を駆けた。 自身の体からひどく焼ける音が聞こえる。顔を守るように火鼠の衣を盾にするが、火にも耐える衣でさえ瘴気によってボロボロと崩れ始めている。それでも犬夜叉は怯みひとつ見せず、ただ必死に瘴気の中心にいる奈落へと突き進んだ。 ――その頃。件の奈落は己の体から瘴気を発し続けながら、自身の腕の中に項垂れる彩音を見下ろしていた。 「(瘴気に侵されながらも自分を治癒しているか…やはりこの女、間違いなく美琴…)」 体から滲みだすように立ち上るシャボン玉のような淡く蒼い光に懐旧の色を滲ませた瞳を向ける。 だがそれは次第に聞こえてくる足音によって掻き消された。そしてその目は黒い袖の向こうで胡乱げに細められ、ひどく焼ける音を耳にしながら嘲笑うように喉を鳴らす。 「くくく愚かな。我が瘴気の中に踏み込んで生きて出られるとでも…」 ――滑稽そうに紡がれていたその声が不意に途切れる。なぜならば突如、奈落の目の前で瘴気の壁がザン、と音が聞こえるほどの勢いで斬り開かれたからだ。 「貴様… (瘴気を斬った…!?)」 眼前に現れた犬夜叉の姿に愕然と目を見張る。彼は衣をひどく損壊させ肌にもやけどを負いながら、それでも鬼気迫る表情で鉄砕牙を握りしめて立ちはだかっていたのだ。そんな想定外の事態に奈落が見せた一瞬の隙、それを突くように手を伸ばした犬夜叉は奈落を突き飛ばすように彩音を抱え込み、強引に自身の元へ取り返してみせた。 それにより小さくよろめく奈落はなおも顔を隠すまま、「おのれ…」と漏らすほど疎ましげに犬夜叉を睨み付ける。そして彩音を見据え、強く舌を打っては大きく身を翻すようにして瘴気の奥へと逃げようとした。 「待ちやがれ!」 背を向けようとするその姿へ怒号を上げると同時に力の限りで鉄砕牙を振り下ろす。その瞬間ズド、と響いた鈍い音と確かな手応えに“仕留めた!?”と思った次の瞬間、突如目の前に現れたものに愕然と目を見張った。 「(なんだ…!? 蜘蛛!?)」 切り裂かれた着物が散っていくその下、露わになった肌に刻まれた大きな蜘蛛のような痣に眉根を寄せる。だがそれも束の間、奈落は自身の体を覆い隠すように瘴気を渦巻かせた。それは竜巻のように天へ昇り、遥か上空へと消えていく。 「おのれ…変化さえ終わっておれば…おのれ…」 恨めしげに漏らされる声。奈落はそれだけを残して姿を消し、渦巻かせていた瘴気さえ虚空に溶けるよう散らし消えてしまった。 それを言葉もなく呆然と見上げるままの犬夜叉は、ただ立ち尽くすようにしながら胸中に悔しげな声を漏らす。 「(ちくしょう…とり逃がした…)」 忌々しい、桔梗の(かたき)でもある男。ようやくその姿を見つけたというのに、あと一歩のところで仕留めることが叶わなかった。 だが、それより気になるのは先ほど見えた蜘蛛のこと。あれは一体なんだったのだろうか、そう思考を巡らせようとした時、不意に腕の中で彩音がほんのわずかに身じろぎした。 「…う…」 「! 彩音…」 微かに顔を歪め小さな呻き声を漏らす彩音を咄嗟に呼び掛ける。すると彼女は閉ざしていた目をゆっくりと開き、わずかに苦悶の色を残しながらも確かにこちらを見て「犬…夜叉…」と呟いた。 どうやら無事のようだ。それが分かる様子に犬夜叉はほっと安堵の表情を見せる。 するとそれとは対照的に、彩音はどこか意外そうな様子を感じさせながら小さな声で言った。 「犬夜叉…助けてくれたの…?」 「…なに言ってんだ…当たり前だろ」 彩音の言葉にわずかながら眉をひそめ、そっと彼女の頭を抱き寄せる。それにより犬夜叉の胸へ顔をうずめた彩音は小さく「ありがとう…」と声を漏らし、その温もりを確かめるように目を閉じた。 その時脳裏に甦る、奈落の姿。先ほど自身を攫おうとした男を思い返す彩音は、慌てて駆け寄ってくるかごめたちの声も聞かないままあの男に対してわずかに抱いた感情に眉をひそめていた。 (なんでだろう…奈落が…やけに懐かしく感じたのは…)

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