16

無数の狼や最猛勝たち、そして虚ろな瞳でこちらを見据える狼野干に囲まれる最中、犬夜叉はそれらが見えなくなったかのように背後へ振り返り目を丸くする。それが見つめる先は井戸のある森―― 「彩音が来た!!」 「え…!?」 驚愕を隠し切れない様子で声を上げる犬夜叉に弥勒と楓が釣られるよう目を丸くする。それもそのはずだ、井戸は犬夜叉の手によって確かに破壊されたことを知っているのだから。あの状態で井戸が機能するはずがないと、信じられないと耳を疑うように犬夜叉を見やった。 だがその彼に嘘をついている様子はない。他に一切目をくれず、ただ真っ直ぐに井戸の方を見つめている姿が間違いないと思い知らせてくるのだ。 それを感じると同時、犬夜叉の足が誘われるように地を蹴る。 「間違いねえ!! あいつどうして…」 たまらずそう口にしながら、まるで吸い寄せられるかのように駆け出してしまう犬夜叉。しかしいまは戦闘の真っ只中。当然狼野干がそれを見逃すはずがなく、 「逃がすかああ!」 とけたたましいほどに声を荒げながら犬夜叉を押し潰さんとする勢いで巨大な手を叩き込んだ。 途端に激しく散らされる岩片。だが軽々と身を翻した犬夜叉はそれをかわし、「くっ」と短い声を漏らしながら疎ましげな表情を露わにすると勢いよく鉄砕牙を引き抜いた。 「やかましい!!」 痺れを切らしたように叫び上げ、ドガ、と鈍くも凄まじい音を響かせるほどの勢いで狼野干の胴体を斬りつける。その瞬間狼野干の体は不気味な色をした体液を噴き出しながら地面を穿つように後方へ弾き飛ばされた。 その光景に楓と弥勒は「おおっ!」「急に強くなった」と驚くように歓声を上げる。 だがその感嘆も束の間、斬り伏せられた狼野干は未だ屈することなく小刻みに震えながらその体をズズ…と起き上がらせようとする。それにはっとし身構える弥勒であったが、その傍の犬夜叉はというとザッ、と音を立てて狼野干とは真逆の方へ駆け出してしまった。 「ってこら。トドメくらい刺していきなさい!」 「あとで片付ける!」 弥勒の注意にも振り返らずそう言い放っては無我夢中で走っていく。その足が向けられるのは微かに漂ってくる彩音の匂いの元――骨喰いの井戸であった。 いまは周りのことなどどうだっていい。本当に帰ってきたのか、なぜ帰ってきたのか。それを一刻も早く確かめたかった。 「(彩音…なんで戻ってきた!?)」 あんなに傷つけるようなことを言ったのに。嫌われる覚悟で拒絶したのに。それなのにどうして。信じられない――様々な思いが胸のうちで忙しなく渦巻く中、強張った顔に汗を滲ませながら、ここにいるはずがない人物の存在を確かめるべく息を切らせるほど必死に駆け続けた。 * * * その頃、件の井戸ではわずかな隙間から潜り込もうとする狼たちが我先にとせめぎ合っていた。それを彩音と七宝は逃げ場のない狭い井戸の中で息を飲みながら見上げるばかり。 このままでは出られないどころか狼たちに殺されてしまう。嫌でも悟らされる未来に冷ややかな汗を滲ませ七宝をギュ…と抱きしめた――その時、不意に二人の傍で淡い光が溢れ出した。 そこに現れるのは、見覚えのある姿。 「か…かごめっ」 「彩音、七宝ちゃん…」 驚くままにその名を呼べば、彼女もまた驚いた様子で呆然とこちらを見つめてくる。その姿はいつもの制服ではなく可愛らしい私服姿だ。恐らくどこかへ出掛けていたのだろうが、それを切り上げ着替える間も惜しんで戻ってきた彼女もまた、彩音と同様に犬夜叉たちを心配していたのだろう。不安そうに強張った顔からそれが確かに伝わってくる。 それと同時、頭上からズ…と這いずるような音を鳴らされ咄嗟に振り返れば、狼が懸命に身をよじって隙間を抜けようとしていた。その様子にかごめは一層表情を硬くしながら、二人と身を寄せ合うようそっと距離を詰める。 「一体…なにが起こってるの」 「二人ともっ、犬夜叉はまだケガが治りきっておらんのじゃ」 「えっ…」 突如上げられた七宝の声にかごめが短い声を漏らす。同じく心臓が嫌な跳ね方をしたような錯覚を抱いた彩音は眉根を寄せ、ここへ戻ってくる前によぎらせた不安を思い返していた。 (やっぱり危ない目に…あんな予感、当たってほしくなかったのに…) あの時の怪我が治っておらず、そこを妖怪に付け込まれるかもしれないという最悪の予感。考えたくもないのに脳裏によぎり、そのたびに杞憂であってほしいと思っていたのに。それが現実となってしまっていることを切に思い知らされては、途端に焦燥感が駆り立てられ鼓動が激しさを増していくの感じた。 早く助けなければ…使い慣れていなくとも、治癒の力で少しでも犬夜叉を治してあげなければ。そのような思いばかりを胸いっぱいに抱えた彩音は決意を固め、いくつも浮かぶ冷や汗を振り払うように唯一の出口である頭上をキッ、と睨みつけた。 「二人とも、いますぐ出…ぎゃあああーーっ!!」 「きゃあああああっ!!」 強く意気込んで立ち上がった途端、目の前の木の茂みから突然狼の頭が勢いよく飛び出してきたことに三人揃って目一杯の悲鳴を上げてしまう。 ――しかしそれも束の間。どういうわけかその狼は大きな木もろとも井戸の外へと強引に引っ張り出されていった。そしてザン、と音を立てて井戸から木が抜け切ってしまえば、眩しい日の光が井戸の中を白く照らす。その目まぐるしい状況の変化に理解が追い付かない彩音たちは身を寄せ合うまま、ただ呆然と歪んだ四角形の空を見上げていた。 その視線の先――井戸の外には、力強く木を抱え上げる犬夜叉の姿。 その彼は背後でよろけながらも迫りくる狼野干を睨みつけるよう振り返り、いまにも狼たちを吐き出さんとするその口目掛けて抱えていた木を勢いよく投げつけた。途端、ドガッ、と鈍くも凄まじい音を立てて突き込まれた木は狼たちをせき止めるように、その口に栓をするように大きく塞いでみせる。 するとその衝撃で脳震とうを起こしたか、呆気なく気を失った狼野干は目を上向けるほど虚ろな表情を見せ、重々しい音を響かせながらその場に沈むよう倒れ込んでしまった。 「くっ」 邪魔者のせいで余計な時間を食わされた。犬夜叉はそんな思いに短い声を漏らしながら、険しい表情ですぐさま井戸へと振り返る。 そこに見えたのは井戸から這うように身を乗り出してくる彩音の姿。彼女は犬夜叉の姿を目にした途端、細く息を飲むような、複雑な感情に苛まれるような表情を見せ、声を発する間もなく咄嗟に彼へと駆けだした。 「ばっ…バカ野郎! なんで戻って…」 彼女の勝手な行動を咎めるように怒鳴ろうとしたその声が、途切れる。気が突いた時には目の前に、自分の視界の真下に、こちらを強く抱きしめる彩音の姿があったからだ。 あまりに唐突なその出来事を理解できないまま「な…」と声を漏らし目を丸くしていれば、胸にうずめられた彩音の顔が寂しげに歪んで小さくも精一杯の声を吐き出した。 「よかった…生きててよかった…私、ずっと不安で…心配で…犬夜叉が死んじゃったら、どうしようって…」 震える声で必死に言葉を紡ぐ。そんな彼女の姿に、心配してくれていたという事実に心打たれた犬夜叉は先ほどとは違った感情で目を丸くする。しかしそれはすぐに気を正すよう厳しさを孕んだ。 「ばか野郎…もう来るなって…言ったじゃねえか!」 顔を合わせることもできないまま、犬夜叉はどこか心苦しそうに語気を強める。それもそのはずだ、犬夜叉は自身の苦しい思いを押し殺してまで彩音をここではない世界へ行かせたのに、それなのに、彼女はそれを台無しにするかのようにここへ戻ってきたのだから。そんな彼女の意図が読めず、犬夜叉は締め付けられる心の切なさに眉根を寄せる。 「(どこにいてもいい…彩音たちに無事に生きててほしかったから…) それなのになんで…」 「分かってる…本当は戻っちゃダメだって、分かってた…でも…私の居場所は、もうここしかない…そう思ったら、すぐに犬夜叉に会いたくなって…!」 溢れ出す涙をこぼしながら懸命に言葉を紡ぎ伝えようとする彩音の姿。それに、その言葉に、犬夜叉は耳を疑うよう彩音を見つめていた。 「(会いたく…なった…?) …おれに…?」 確かめるようにそう呟けば、目の前の少女は確かに頷きながら涙を拭う。その様子に偽りはない。それを感じ取った犬夜叉はただ呆然とするように目を丸くし、掛けるべき言葉も浮かばないまま彩音を見つめることしかできずにいた。 当然だ。まさか自分に会いたいと思っていたなど考えもしなかったのだから。むしろ拒絶するようなひどい言葉を向けた自分を嫌っていると、もう会いたくないと思っているかもしれないとまで考えていた。だからこそ真逆の事実が信じられず、やがて犬夜叉はその思いに頭の中を支配されるまま、無意識のうちに怪訝な表情を浮かべていた。 そんな時、ふと顔を上げた彩音がそんな犬夜叉を見てしまって。途端にほんの少しばかり驚いたような表情を見せた。 「な…なんなの、その顔。確かに…勝手に帰ってきたことは悪いと思ってるけど…犬夜叉、そんなに私に会いたくなかったの…? 私…それくらい迷惑かけてたの…?」 「なっ…」 弱々しく呟きながらじわ…と新たに大粒の涙を浮かべてしまう彩音に犬夜叉は大きく狼狽えるほど驚いてしまう。普段なら怒ったように反論するはずの彼女が、これほど弱々しくしおらしい姿を見せてしまうことが信じられなかったのだ。だからこそどう接していいのか、どう接するべきなのか分からず、犬夜叉は慌てるままに戸惑った様子で咄嗟に声を荒げた。 「ばっ、そんなんじゃねえっ! 泣くなっ!」 「だって…自分の時代に帰れたのに、散々な思いして…やっと私なりの答えを見つけられたと思ってたのに…なのに…」 「え゙っ。ちょっと待て、帰れたのか?」 泣きながら懸命に話していた言葉に犬夜叉が驚いた様子で声を挟む。すると遮られた彩音はぴく、と眉尻を上げ、体を小さく震わせながら静かに俯いた。 「…今はそんなことどうだっていいわバカーっ!」 とうとう痺れが切れたのだろう、様々な我慢の緒が切れた彩音は途端に声を荒げながらげしげしげしと犬夜叉を蹴りつけてやる。突然のことに驚いた犬夜叉は最初こそ戸惑うように固まっていたものの、すぐさまいつもの調子を取り戻すように「な、なにすんだてめー!」と反論し、さらにそれへ彩音が「うっさいバカ! バーカ!」と言い返したことで、いつしか二人は普段と変わらない子供っぽい言い争いを始めてしまっていた。 それを傍で見守っていた七宝と弥勒とかごめと楓の四人。中でも弥勒にしがみつく七宝はどこか不安そうな様子で二人の様子を見つめていた。 「あああ、またケンカじゃ」 「仲良くなっているのです」 「ケンカするほど仲がいいってことよ」 ため息をつく弥勒、そして苦笑するかごめにもそう諭されて七宝は渋々納得した様子を見せる。だがかごめは、どこか物憂げな表情を浮かべているようであった。 しかし誰もそれに気が付かないまま、警戒した様子で辺りを見回していた楓がふと弥勒を呼び掛けた。 「法師どの、妙だと思わんか」 「はい?」 「あれだけ群れていた毒虫どもが姿を消した」 「言われてみれば…」 楓の言葉で異変に気が付いた弥勒が同様に周囲へ視線を巡らせる。その言葉通り、犬夜叉たちを取り囲むほど無数にいたはずの最猛勝はいつしか影も形も残さないまま完全に消え去っていた。狼野干が気絶したことでそれが従える狼もおらず、辺りは先ほどまでとは打って変わって不気味なほどに静まり返っている。 その様子に不審がる一同から少し離れた場所――そこで木の陰に身を潜めながら一同の様子を窺っている人物がいた。 奈落だ。狒狒の皮を纏うその男は最猛勝の巣を手にしたまま、この場にいなかったはずの彩音とかごめを驚愕の様子で見据えている。 「(あの女ども…美琴と桔梗!? いや…違う。桔梗は…あの女は五十年前死んだ。四魂の玉を持ったまま。美琴もこの世から姿を消したと聞いたはず……しかしなぜだ? この奈落に見えぬものはなかったというのに…奴らだけは“見えなかった”)」 初めて目にする二人にどこか忌々しげな感情で懐疑の視線を向け続ける――その時、不意に不穏な気配を感じ取った彩音とかごめが即座にその方角へと振り返った。それに驚いた奈落はすぐさま身を隠そうとしたがすでに遅く、彼の姿を見とめた二人が警戒した様子で犬夜叉たちへ声を上げる。 「あそこに誰かいる!」 「四魂のかけらを持ってる!」 「「!」」 二人の咄嗟の声に弾かれるよう犬夜叉と弥勒が険しい視線を振り返らせる。それに気付いた奈落が強く舌打ちすると同時にその場を去ろうとするが、次の瞬間まるで行く手を阻むように勢いよく飛び込んだ犬夜叉が目の前に立ちはだかり、思わず足を止めた奈落へ射貫かんばかりの鋭い視線を向ける。 「近くにいるのは分かってたんだ。てめえ奈落だな」 「ふっ…」 問い詰めるような犬夜叉の声に奈落は小さく怪しげな笑みをこぼす。そこへ犬夜叉に続いた弥勒が奈落の退路を断つように背後へ立つと、彼は初めて見るその男の姿に息を飲むよう目を丸くした。こいつが今まで追い続けていた男なのか、と。 すると犬夜叉が一層視線を鋭くさせ、爪を構えるようにバキ、と指を慣らしながら奈落へ言いやった。 「息の根止める前に聞かせてもらうぜ。てめえ一体…おれになんの恨みがある」 「恨み…か。教えてやろう。五十年前…この奈落が生まれた日のことを…」

prev |2/4| next

back