「弥勒さまは体の具合どう?」
「
彩音さまの力に加えて…かごめさまの薬が効いてきたようで…」
ぐったりとしながらもしかとかごめの問いかけに答える弥勒。どうやら二人の応急処置が功を成したようで、彼の中の毒はずいぶんと抑えられたようであった。
――そんな彼らが向かっているのは楓の村。殺生丸との戦闘後、
彩音の治癒の末になんとか意識を取り戻した犬夜叉が帰りたいと望んだため、一行は弥勒の連れである狸の変化した体に乗ってそこへと運んでもらっているところである。
その中で、
彩音は治癒能力の反動により力の入らない体をかごめに支えられながら、傍に力なく横たわる犬夜叉の姿を見つめていた。
(犬夜叉から村に帰りたいって言うくらいだし…やっぱり、相当ケガがひどいのかな……そう、だよね…こんなにボロボロなんだもん…)
生々しく刻まれた傷口や深紅に染まる腹部を見ては、想像しがたい痛みを思って小さく顔を歪める。
本当はこんな姿になる前に止めたかった。だが、なにもできなかった。唯一止められるかと思った“鉄砕牙の変化を解く”という方法も、却ってかごめを危険に晒す結果となってしまった。
止めたいと思うばかりで、実際にはみんなの足手まといになっていただけなのではないか。そう自責の念を抱いてしまう
彩音は、ただうずくまるように自身の体を抱きしめて深く俯いていることしかできなかった。
――そうしている間にも、ようやく楓の村へと辿り着いた狸はその傍に大きな体を下ろしていく。
「運んでくれてありがとう、狸さん」
「足に使っちゃってごめんね」
「お礼の銭です」
「木の葉じゃねえでしょうね弥勒の旦那」
続け様に声を掛けられる中、狸は弥勒から渡される小銭を恐る恐るといった様子で見つめていた。木の葉を銭に変えるなど狸や狐くらいにしかできないであろうが、弥勒ならばやり兼ねないと思われているらしい。
それほど信用がないのか…と
彩音が小さく苦笑を浮かべてしまうと同時、不意に座っていた犬夜叉が真剣そうな声で「かごめ…ちょっと来い」と呼び掛けた。それに振り返ってみれば、犬夜叉はその傷だらけの体を持ち上げて歩き出さんとしている。
「ちょっと、まだ動いちゃ…」
「いいから来いよ」
咄嗟にかごめが心配の声を上げるが犬夜叉はそれを遮るようにして足を踏み出す。
そこまでして彼女に伝えたいことでもあるのだろうか。そう不思議に思った
彩音は平然とついて行こうとする弥勒と七宝に続いて彼のあとを追おうとした――が、足を止めて振り返ってきた犬夜叉にどこか訝しげな表情を向けられる。
「てめーらはついて来んなっ!」
途端にそんな声を上げながらどかどかと乱暴に弥勒や七宝を蹴り付ける犬夜叉。その姿には
彩音もかごめも“思ったより元気みたい”と驚きを隠せず、戸惑うままにぱちくりと目を瞬かせながら立ち尽くしていた。
しかしその足が止められると、犬夜叉は突然向き直るように
彩音へ振り返る。
「特に
彩音。お前にも話がある。だからそこで大人しく待ってろ」
どこか厳しく言いつけるよう口にし、犬夜叉はそのまま踵を返して歩き出してしまう。それにかごめが戸惑いながらも慌てた様子でついていく姿を眺めながら、
彩音はどことなく感じられる違和に小さく眉をひそめていた。
――やがて、犬夜叉とかごめが足を止めたのは骨喰いの井戸がある場所であった。そこへ導いたのは先を歩いていた犬夜叉だ。彼は「犬夜叉?」と不思議そうに呼び掛けてくるかごめへ声を返すこともなく、深く息を吐きながら骨喰いの井戸にもたれ掛かるよう腰を落とす。
「かごめ…お前具合どうなんだよ。ケガ…してんだろ」
「え…? ちょっとタンコブできたかな」
唐突な問いかけにわずかに戸惑いながらも、かごめはそっと自身の頭に触れながら普段通りの様子で答える。
未だに犬夜叉の意図が読めない。そう感じてしまうかごめの前で、彼はその顔を小さく歪めた。
「悪かったな…ひでえめに遭わせて…」
罰が悪そうに、申し訳なさそうに思いつめた表情でそう告げる犬夜叉。
だが、対するかごめはそんな彼に目を丸くして。すぐさま目線を合わせるようしゃがみ込むと、汗を滲ませるほど戸惑った様子で犬夜叉の額にぴとっ、と手を当てた。
「犬夜叉、あんたやっぱり変だわ。熱があるんじゃない?」
どうやら本気で言っているということが全く伝わっていないようで、素で心配してくる彼女の様子に思わず怪訝そうな間抜け面を浮かべてしまう。
それをすぐに改めるよう目を伏せた時、そんな二人の様子を離れた岩陰からこっそりと覗き見る三つの人影があった。
「犬夜叉の奴め、かごめを森の奥に連れ込んでどうするつもりじゃ」
「なんかものすごく真面目な話…とか?」
「しっ」
七宝と
彩音が並んで二人を見つめながら相談していると弥勒にそっと制される。ただでさえ離れていて声が聞こえにくいのだ、少しでも聞き取るために、見つからないために静かにしろということ。それを察した
彩音は微かな罪悪感を抱えながらも好奇心には勝てないまま、そっと口をつぐんで二人の様子を見つめた。
そんな三人の存在に気が付いていない犬夜叉は真剣な表情を見せ、改めるように傍のかごめへ語り掛ける。
「お前も聞いただろ? 五十年前におれを罠にはめた奈落が…殺生丸の裏で糸引いてやがった。だからこれから…もっと危ない目に遭うかもしれねえ」
「そりゃそうかもねー」
犬夜叉が諭すように告げるも、かごめはどことなく心配そうな表情を少しだけ浮かべながらもいつもの調子で返してしまう。そんな彼女の様子に犬夜叉はわずかながら眉を吊り上げては「かごめお前…」と口にした。
「恐くないのかよ。今度だってなんとか命拾いしたけど」
「恐くないわよっ。今はそんなことよりあんたのケガ…」
すぐさま反論するかごめの声はグイ、と強く手を引かれる力に掻き消される。思わず「え…?」と声を漏らすほど目を丸くした彼女の華奢な体は、気が付けば、犬夜叉の力強い腕の中に収められていた。
「犬…夜叉…?」
「おれは…恐かった…」
戸惑うように呼んだ名前に返ってきたのは、切ない声。かごめが思わず“え…?”と耳を疑うように一層目を丸くしてしまう中、犬夜叉はただ強く抱きしめながら思っていた。
――
彩音やかごめが死ぬかもしれないと思ったら…恐かった…――と。
その脳裏に浮かぶのは殺生丸との戦闘で襲われ気を失った二人の姿。かごめが死んだら、
彩音が連れ去られたら、そんな思いがずっと胸のうちにあったことを思い出しては耐え難い不安に駆られてしまう。
そしてその不安はいまもなくなったわけではない。この先いつでも抱きうることだ。それが分かっているからこそ、恐くて恐くてたまらなかった。
――そんな彼の静かな思いを、当然知るはずもない
彩音は目を丸くしていた。戸惑い、混乱。どう判断すればいいのか分からない気持ちに駆られているような気がして、ただただ呆然とその姿を見つめることしかできなかった。
すると不意に手を握られる感覚があって。それに振り返ってみれば、なにやら七宝の目を覆い隠している弥勒が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「大丈夫ですか?
彩音さま」
どこか真剣な声でそう問いかけられる。その声にさえ自分が戸惑っていることを認識した
彩音は、つい視線を落としながら「う、うん…大丈夫」と呟くように返していた。
本当は、自分が大丈夫かそうでないかも分からない。ただ形容しがたい不可思議な感覚が胸のうちにあって、それにどんな反応を示せばいいのか判断がつかなかったのだ。そして、それを弥勒に見せることも、なんだか気が引けるような気がした。
おかげで自分がどんな表情をしていて、どんな表情をすればいいのかが分からず、逃げるように俯くことしかできずにいた。
――だが、その時突然聞こえてきたドン、という鈍い音とかごめの短い悲鳴にはっと振り返る。すぐさま視線を向けたそこに見えたのは、逆転するように立ち位置を入れ替えた犬夜叉が強く立ちはだかる光景であった。
「これは…おれが持つ」
「あっ…四魂のかけら…」
慌てたように立ち上がるかごめの言葉通り、犬夜叉が胸の高さまで持ち上げた手にはかごめが持っていたはずの四魂のかけらが握られていた。どういうわけか、犬夜叉が彼女から強引に奪ったというのだ。しかしかごめがそれに手を伸ばそうとしたその瞬間、犬夜叉は彼女を牽制するように強く言い放った。
「お前は…もう二度とこっちに来るな!」
その言葉が言い切られるが早いか、犬夜叉はドン、とかごめの体を突き飛ばして背後の骨喰いの井戸へ落としてしまった。そんなまさかの行動。それには
彩音たちも驚愕を隠せないまま慌てて岩陰を飛び出し、骨喰いの井戸を覗き込む犬夜叉の元へすぐさま駆けていった。
「犬夜叉っ…!?」
「犬夜叉お前なにを…」
犬夜叉の正気を疑うように彼の傍で立ち止まる
彩音に対し、弥勒は骨喰いの井戸へ飛び込まんばかりにそこを覗き込む。しかし薄暗いそこに彼女の姿がないことを知っては「かごめさまが…いないっ」と目を疑うように声を上げた。
そう、弥勒は骨喰いの井戸がかごめの時代に繋がっていることを知らない。そんな彼にとってこの現象はとても奇怪なものであったが、傍の犬夜叉が案ずる必要はないとでも言うように井戸の底を見つめ、
「この井戸の向こうが…かごめの本当の居場所なんだ」
と、端的に告げた。
その表情にわずかな悲痛の色が滲んでいるのを見ていたのは
彩音であった。彼女は眉をひそめるようにしたまま彼の姿を見つめ、小さく息を吸い込んでは「…ねえ」と微かな声で犬夜叉を呼び掛ける。
「まさか…四魂のかけらを取り上げるために、あんなことしたの…?」
そう問いかける彼女が言っているのは、突然かごめを抱きしめたこと。それを察した犬夜叉はほんのわずかに驚くような色を見せて、すぐに罰が悪そうに視線を逸らした。
「…見てたのか」
「それは…ごめん…でも…」
「お前も向こうに帰れ」
すぐさま遮るように向けられる真剣な瞳、言葉に声を詰まらせる。胸が締め付けられるような痛みを感じては、思わず俯きそうになる。それでもすぐにかぶりを振り、眉間にしわが寄ってしまうことを感じながら説明するよう言葉を返した。
「分かってるでしょ…? かごめは向こうが本当の居場所かも知れないけど…私が帰るべき時代は、あそこじゃない」
「それでも、こっちにいるよりは安全だ」
「そうかも知れないけど、私はあっちに行ったって意味がないのっ。知らない場所にいるより、ここの方が…」
「おれはお前を危険に曝したくねえんだよっ!」
「!」
突如
彩音の言葉を掻き消すように叫ばれる犬夜叉の思い。たまらずビク、と肩を揺らしてしまうほど体を強張らせた
彩音は、すぐさま反論すべく口を開こうとするが言いたい気持ちが喉に詰まって出てきてくれず、静かにその口を閉ざした。
違う、言いたいことなど纏まっていないのだ。気持ちの整理すらついていない。ただ納得のいかない気持ちと彼の言う通りだと思う気持ちが互いにせめぎ合って、やるせない思いに顔を歪めることしかできなかったのだ。
そしてそれを隠すように顔を逸らし、胸にわだかまる思いに蓋をするべく、ほんの小さく細く息を吐いた。か細い声で、呟くように言った。
「そう、だよね…ごめん…私、いつも足手まといになって…犬夜叉の邪魔ばっかりしてたよね…」
「なっ…そ、そんなんじゃ…」
弱々しく吐かれる言葉にそう声を漏らした犬夜叉はグ…と口をつぐみ、視線を外してしまう。そして目も合わせずどこか言いづらそうにしながら、それでも努めて荒だてた声色で厳しく言いつけた。
「ああそうだな。なんなら、あいつ…殺生丸の方が、おめえを大事にしてくれるんじゃねえか?
彩音も約束とかで、あいつと一緒にいてえんだろ」
「っ…」
「犬夜叉っ。お前そういう言い方は…」
容赦なくぶつけられる言葉に弥勒が思わず咎めの声を上げる。だが咄嗟に「いいの弥勒っ」と声を上げた
彩音は一層深く俯き、震える喉から大きく息を吐いて感情を押し殺していた。
そんな彼女の強く握られていた手が、わずかに緩む。すると
彩音は静かに井戸の方へ歩み寄り、弥勒や七宝に不安げな視線を向けられるままそっと井戸の縁へ腰を掛けた。
「分かった…犬夜叉の言う通り、私もあっちに行くよ」
そう呟くようにこぼす
彩音の足はそっと井戸の中へと向けられる。そうして「でもね、犬夜叉…これだけは言わせて」と続けた彼女は、そっと顔を持ち上げながら言い切った。
「殺生丸が大事にしてるのは私じゃない…
美琴さんなんだよ」
その言葉とともに向けられたのは、いまにも涙をこぼしてしまいそうなほどの悲痛な微笑み。それに犬夜叉が思わず目を見張り手を伸ばしそうになった時、
彩音は静かに井戸の中へその身を投げ入れた。同じくそれを止めんと弥勒と七宝が咄嗟に手を伸ばすも、ただ虚しく空を切るだけで。
彩音を飲み込んだ井戸は捨てられた骨と湿った土だけを残し、彼女の姿を手の届かない場所へと隠してしまった。