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込み上げる怒りに唇を噛みしめる力が増す。だがその痛みも感じないほどその感情ひとつに支配される中、不穏に吹き抜ける風が危機感を煽るように緩く髪を揺らし傷口を晒す頬を撫でた。 「女とともに地獄に行け…」 視線の先でそう告げる殺生丸は気を失った彩音を抱き寄せるようにしながら静かに足を踏み出してくる。 彩音を気絶させたその手は彼女をしかと支えている。それがひどく不愉快で腹立たしくて。一度すぐ傍で同じく気を失うかごめへ視線を落としては、再びその怒りを込めるようにして殺生丸を睨み付けた。 「殺生丸てめえ…よくも彩音とかごめまで…」 憎しみを湛えた声を低く発して殺生丸を凄めば、まるでそれを遮るように錫杖を突くほど弱った様子の弥勒が「くっ…」と小さな声を漏らしながらにじり出てくる。その姿に思わず犬夜叉は「弥勒…」と口にしたが、彼はそれに振り返ることもなく苦痛に表情を歪めながら殺生丸を鋭く見据えていた。 弱りながらも確かにはっきりと意識を保つその姿。それにわずかながら怪訝そうな表情を見せた殺生丸は、彼を冷たく見下ろしながら淡々と問いかけた。 「法師…虫の毒で死んだのではなかったのか」 「彩音さまの力のおかげで…この風穴であなたを吸い込む力くらいは残っている…」 「(彩音の力…? こやつまさか…治癒の力を使ったのか)」 弥勒の言葉に眉をひそめた殺生丸は、自身に身を預けるよう気を失う彩音へ視線を落とす。 治癒の力――美琴の力。弥勒の様子を見るに彩音がそれを使いこなせていないことは明らかであったが、それでも彼女は美琴の力を使えたという。それを思うと無意識下で手元の少女に美琴を重ねてしまい、誰にも気付かれないほどの一瞬の間、その金の瞳に深い切なさの色を滲ませた。 しかしそれは顔を上げると同時に掻き消され、余裕を湛えた冷酷な瞳で「…やってみろ」と弥勒を挑発する。その声に弥勒が握っていた数珠を強く握り直した刹那、彼の背後で立ち上がった犬夜叉がそれを諭すように抑止の言葉を向けた。 「やめな弥勒」 「風穴の方が勝負が早い!」 「向こうには彩音がいる。それに…もう一度風穴開いたら、今度こそ死ぬぞ」 冷静にそう告げる犬夜叉の手には先ほど拾ったであろう石がひとつ。それを鬼の残骸の陰へ向けて勢いよく投げつけると、突如ワン、と強い羽音を響かせて無数の最猛勝たちが溢れ出した。 「くっ…まだ巣が…」 「いかん弥勒、これ以上虫の毒を吸ったら…」 最猛勝を目の当たりにしては躊躇いを露わにする弥勒へ、七宝が必死に彼の右手を押さえるよう忠告の声を上げる。その言葉通り、すでに毒に侵されている弥勒が再び最猛勝を吸ってしまえば、今度こそ命を落としてしまうことになるだろう。 それを思い知らせるように最猛勝の姿を見せた犬夜叉は、弥勒を背後へ追いやるべくゆっくりと足を踏み出した。 「分かったら、かごめ連れて逃げな。できるだけ遠くにな」 「なっ…しかし、彩音さまは…」 「彩音はおれがこの手で絶対に取り返す。だからお前らは早く…逃げてくれ…」 いつになく真剣な瞳を向けてくる犬夜叉。その姿に弥勒と七宝は思わず言葉を失うよう黙り込んで彼を見つめていた。 恐らくいまの彼にはなにを言っても聞く耳すら持とうとしないだろう。それどころか、こちらが口出しをすることすら躊躇われる。それほど緊迫した様子が強く伝わってきて、二人はそれ以上の言葉もないままかごめを抱え、その場から背を向けた。 それと同時に向き直った犬夜叉の視線の先――そこに立つ殺生丸は依然として彩音を抱えたまま鉄砕牙を掲げてみせる。 「逃げられるものか…一振りで皆殺しだ」 そう告げた直後、容赦なくゴッ、と凄まじい音を立てるほどの勢いで振り下ろさんとする鉄砕牙。その刹那に“振らせるか!!”と叫ぶような思いを抱いた犬夜叉は正面から丸腰で耐えるように強くそれへと立ち向かった。しかし鉄砕牙の威力は凄まじく、未だ振り切られていないにも係わらず激しく襲いくる風圧と衝撃が犬夜叉を包み込み、周囲の岩や地面からビシビシと悲鳴を上げさせる。 ――その時、駆けていた弥勒たちのすぐ傍で、鉄砕牙の衝撃に当てられた巨大な岩々がゴオッ、と激しい音を立てて大きく破裂するように打ち砕かれた。思わず「うわっ!」と短い悲鳴を上げた弥勒は咄嗟にかごめや七宝、自身の頭をかばうようにして降り注ぐ岩片を耐えようとする。 そうしてしばらくやり過ごせば、やがて静けさを取り戻していったそこにはカラン…と小石の転がる音だけが残された。 「お…治まった…?」 静けさを取り戻したことに弥勒たちが恐る恐る顔を上げ振り返る。するとそこには殺生丸の左腕を抱き込むようにして押さえつける犬夜叉の姿があった。 「刃を押し戻して…」 「な…なにやってる…走れーっ!」 「わ…分かった」 足を止めてしまう二人へ犬夜叉が渾身の力で叫ぶと、弥勒たちは拙い足取りながら咄嗟にかごめを抱えてその場を離れ始める。その様子を眺めていた殺生丸は強い呆れの様子を見せ、「バカが…」と呟きながら犬夜叉を見下ろし自身の右手を強く鳴らした。 直後―― 「敵に背中を晒すとは!」 「!」 そう強く言い放つと同時に振り下ろされた爪がドス、と鈍い音を響かせて犬夜叉の背中に突き込まれる。それは容易く犬夜叉の腹まで貫き、深紅の衣を一層赤黒く染めていった。 それでもなお強く歯を食い縛りながら手を放さない犬夜叉を蔑むように見下ろす殺生丸は、変わらず冷酷で退屈そうな様子のまま抑揚の少ない声を向けやった。 「泣かせるな…仲間を救うために時を稼いだつもりか…」 「なんだよ殺生丸おめえ…気付いてねえのか」 「! 貴様…」 状況に似合わない不敵な笑みを見せる犬夜叉の言葉に殺生丸が強く眉根を寄せる。だが犬夜叉を振り払おうとした時にはすでに遅く、彼は生々しく激しい音を響かせるほどの勢いで殺生丸の左手を強引にもぎ取ってみせた。それと同時に伸ばした手は彩音を奪い取るように抱き込んで、瞬時に地を蹴り殺生丸の元から大きく跳び退る。 そして鉄砕牙の柄から無造作にズル、と左手を引き剥がした。 「おれの鉄砕牙(かたな)彩音…返してもらったぜ!」 柄が赤く染まった鉄砕牙を肩に担ぐよう掲げてみせながら強く言い放つ。そんな彼の姿を鬼の残骸の陰から見ていた邪見が大きく目を見開き、途端に大量の冷や汗をその顔に滲ませた。 「(い、いかん! 左手を取られては…殺生丸さまは鉄砕牙に触れることができん!)」 「(ちっ、所詮借りものの腕…痛みを感じなかった…)」 眉根を寄せる殺生丸は自身の前に掲げる骨を覗かせた無残な左手に冷たい目を向ける。いくら四魂のかけらを使って繋いでいるとはいえ他人の腕だ。自在に扱えても痛覚こそは通っておらず、ここまでされてようやく異変に気が付ける程度という使えなさに忌々しさを抱いていた。 ――その時であった。突如対峙する犬夜叉の体がズシャ、と音を立てるほど強く崩れ落ちるように膝を突いたのは。 「うっ…」 犬夜叉がしゃがみ込むように地面へ沈んだと同時、彼の腕の中で大きく揺さぶられた彩音がその衝撃によって確かに意識を取り戻した。 閉ざしていた目をゆっくりと開けば、霞む視界に深い赤が映り込み肝が冷えるような感覚を抱く。それに焦るよう顔を上げた彩音は、目の前の犬夜叉の無事を確かめるべくそっとその体へ手を触れた。 だが、犬夜叉の反応はない。 彼は顔を隠すように構えた鉄砕牙の裏で、虚ろな瞳を鋭く殺生丸へ向けているようであった。それだけでなく、微動だにしないその体からはザワ…と溢れ出す妖気が感じられる。 それでもやはり、彼に反応はなかった。 ただならぬ様子。自分が気を失っている間になにがあったというのか。戸惑うままに揺れる瞳で彼の目を見つめる彩音が不安を露わにする中、殺生丸の元まで戻ったらしい邪見がこちらを眺めながらその足を踏み出そうとしていた。 「殺生丸さま、犬夜叉の奴め気を失って…」 「それ以上前に出るな」 「は?」 とどめを刺さんとばかりに犬夜叉へ近付こうとした邪見が殺生丸の言葉に不思議そうに振り返る。それと同時、邪見が差し出していた足が地面に触れて犬夜叉がほんのわずかな反応を見せた――直後、犬夜叉の手がギュッ、と強く鉄砕牙の柄を握り締めたかと思えば、突如として鉄砕牙から放たれた衝撃波が激しく地面を走り、「で!」と声を上げて跳び上がる邪見の着物を掠めるほどの距離まで勢いよく襲い掛かった。 「な゙っ…な゙ん゙で…刀を振ってもいないのに…」 「……」 間一髪体までは届かなかったものの、着物を切り刻まれたことに腰を抜かすほど怯える邪見とは対照的に、傍の殺生丸は動じる様子もなく静かに犬夜叉を見据える。 邪見の言葉通り、いましがた襲ってきた衝撃波は確かに鉄砕牙から放たれたものだが、犬夜叉は膝を突いて鉄砕牙を構えた体勢のまま、それを振る素振りなどはひとつも見せなかったのだ。それでも近付くと同時に放たれた衝撃波に明確な殺意が籠もっているのを感じては、確かに思う。 「(こいつ…気を失ってはいるが…私が間合いに踏み込んだら…確実に刀を振り切ってくる…)」 鉄砕牙の裏からこちらを睨みつけるその目に痛く確信する。すると殺生丸は突然興味を失ったかのようにクル、と踵を返してしまい、呆気なくその足を向こうへと踏み出した。 「帰るぞ邪見。鉄砕牙を我が手にできぬ以上長居は無用だ」 「あっ、そうですか。そうですねっ」 やけにあっさりと手を引いてしまう主にほんの一瞬戸惑いながらもホッ、と安堵のため息をこぼしてしまう邪見は先を行く背中をすぐさま追いかける。だがその主は不意に足を止めてしまい、進行方向を見つめるまま振り返ることもなく静かに、且つどこか厳しく言いつけるよう言葉をこぼした。 「…彩音。その力は美琴のものだ。貴様に扱い切れるものではない」 「え…」 唐突に投げかけられた言葉。それにわずかながら驚くよう振り返るが、殺生丸はそれだけを言い残すとザアァァァ…と音を立てながら白い尾を広げて天に昇ってしまう。 彩音は言葉を失くすよう口を閉ざしてそれを見つめていたが、不意にはっと我に返ってはすぐ傍の犬夜叉へ再び縋りつくよう手を掛けた。 「い、犬夜叉…犬夜叉っ!」 意識のない彼を目覚めさせるよう衣を握り締めながら彼の名を強く呼び掛けた瞬間、ピク…と微かな反応が返ってくる。意識を取り戻したのだろう、音もなく鉄砕牙の変化を解いた犬夜叉は虚ろだった瞳にいつもの色を取り戻し、すぐ傍の彩音を確かに見やった。 「あ…よかった、犬夜叉…」 「彩音…」 彩音が安堵の表情を浮かべて呟く声に重ねて、微かに名前を呼ばれる。直後、彼は大きく体を傾け、彩音の手から滑り落ちるように倒れ込んだ。それが地面へ沈む刹那、バシャ…とひどく溢れ出した血の海が大きく広がって。呆然とそれを見下ろしていた彩音がやがて虚ろな瞳を晒したまま気絶する犬夜叉の姿をはっきりと目にしたその瞬間、清々しいはずの夜明けの空に痛切な悲鳴を響かせた。

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