「妖怪蝦蟇とて所詮は蛙。熱いものに弱いはず。そこで秘策じゃ。奴に大量の湯を浴びせよ!」
「(湯!?)」
「さすれば、蝦蟇は苦しんで殿の体から飛び出す。そこで…」
「待って冥加じーちゃん。敵の前で今から呑気にお湯が沸かせると思う!?」
「煮えたぎった油でも構わぬっ」
「一緒じゃんっ」
「同じことよっ」
あまりの無謀な提案に
彩音とかごめは二人揃って声を上げる。
当然だ。火も水も油もないこの場所で一から沸かせと言うのだから。しかもそれを浴びせる相手は目の前にいて自分たちを喰らおうとしている。そんな状況でどうやって冥加の策を実行できようか。
ついかっとなって冥加に吠え掛かっていると、突然かごめの足になにかが巻き付いてくる。二人はそれに気付いたものの、我に返った瞬間には巻き付いた蝦蟇の舌によってかごめの体が容易く持ち上げられてしまった。
「きゃーっ。やだーっ」
「かごめ!」
「い、いかんっ。おやめくだされ殿ーっ」
手を伸ばそうとする
彩音より先に駆け出したのは信長であった。彼はすぐさま蝦蟇へ飛び掛かり、その体を羽交い絞めにするよう抑え込んでみせる。するとそれに驚いた蝦蟇は呆気なくかごめを放してしまい、信長に抵抗するようじたばたと大きく暴れ始める。
今はなんとか抑えられているが、それがいつまで持つか…そんな不安をよぎらせるように
彩音とかごめが信長を見つめれば、彼は真剣な表情でこちらに大きく口を開いてみせた。
「かごめ、
彩音、わしがこうしている間に…湯を沸かせーっ!」
大きく張り上げられた声。しかし湯を沸かすのはやはり無理だと思わざるを得ない状況に
彩音が戸惑いを露わにしてしまうと、不意に傍から「くっ…」と小さな声が聞こえてきた。それに振り返れば、倒れ伏していた犬夜叉が起き上がろうとする姿が。
「さっきから聞いてりゃ…なに悠長なこと…」
「犬夜叉っ、動いちゃ…」
「ふっ…こんなクソ蛙に、
情をかけたおれがバカだったぜ…」
「え…」
彩音の制止も構わず立ち上がった犬夜叉の言葉につい言葉を失う。彼は一体なにを思ったのか、それを問いただすより早く犬夜叉は蝦蟇へ向き直り鉄砕牙を高く掲げてみせた。
「どきな信長…」
「な…か、刀を引け犬夜叉。この物の怪の中にはまだ殿の心が生きて…」
「やかましいっ。どかねえとてめえも蛙諸共たたっ斬るぜ!」
「それは断る!」
なにを言われようとも蝦蟇を放そうとせず、一緒に斬ると言われたらしっかりと拒否する。そんな強引な姿に犬夜叉もつい眉根を寄せてしまいながら「あのな…じゃあどけ」ともう一度命令した、が、彼はやはり「それもできん」と言って一切譲ろうとしなかった。
「助かるかもしれぬ殿をみすみす見殺しにはできん。いや…これが殿でなくとも。わしは…人が死ぬのは嫌なんじゃ!」
「信長くん…」
大きく張り上げられた声に一同が目を丸くする。彼の瞳があまりにも真剣で、それが姫の前だからだとか、格好つけるために言っているわけではないのだと強く感じてしまったからだ。彼は本気で、人を思いやっている。
「この戦乱の世に、甘いことを言うと笑われるかもしれんが…それでもわしは…」
「分かった」
「え…」
上手く纏まらない言葉を紡ごうとしていれば、意外にも犬夜叉はあっさりその言葉を飲み鉄砕牙を納めてしまう。そんな彼の姿には信長も驚いたようだが、犬夜叉は厳しい表情を見せて信長を睨むように見据えた。
「おれは一切、手を出さねえ。おめーはその甘く切ない信念を貫きな」
「わ…分かってくれたか」
物言いは厳しいが理解してくれたようだ。そう感じた信長がほっ…と安堵のため息を漏らした瞬間、目の前の蝦蟇が小さく不気味な鳴き声を漏らした。その直後、
「ぐひゃひゃ命乞いご苦労!」
盛大に信長を嘲笑った蝦蟇はその隙を突くように彼の体を振り払い、床へ強く叩き付けてしまう。その光景にかごめが慌てて犬夜叉を呼ぶが、彼は「おれが手を出したら殿さまは死ぬぜ」とだけぶっきら棒に言い捨て、深く座り込んだまま一切立ち上がろうともしなかった。それに戸惑いを露わにしている間にも、体を起こした信長はまたもすぐに蝦蟇の体に飛びついて抑え込もうとする。
「か、かごめっ
彩音っ早く…」
「っ…かごめ行こう! 露姫さまもこっちに!」
「え…」
いてもたってもいられなくなった
彩音はすぐさまかごめに呼び掛け、露姫の手を取って部屋を飛び出した。せめて露姫だけでも蝦蟇から離すことができればと、駆け出した三人は真っ直ぐに伸びる廊下を騒がしく駆けていく。その間にも大きな火がないかと辺りを見回すが、暗い廊下にはそれらしいものなど見つからない。
焦りから、嫌な汗が滲んでいく。
「どうにかして殿さまからあいつを追い出さないと…」
「
彩音、お湯以外に蛙が苦手なものとか知らない!?」
「え!?」
駆けながら投げられるかごめの問いに思わず目を丸くする。相手が妖怪とはいえ、それは蛙同然。もしかしたら蛙が苦手なものが効くかもしれないとかごめは考えたのだろう。
彩音はそれにすぐさま思考を巡らせるが、その時背後から「ぐひっ、逃がさぬ~」という声とあの湿った足音が聞こえてきた。早くも信長を振り切ったらしい。それに一層焦燥感を駆り立てられると、
彩音は走り続けながら“蛙の苦手なもの”を考え続けた。
(! そうだ、あれならいけるかもっ)
よぎった可能性に大きく目を見張る。すると
彩音は「ちょっとごめん!」と声を上げ、器用にも走り続けながらかごめのリュックを漁りだした。それにはかごめも露姫も驚いた様子を見せるが、
彩音は目的の袋を手にすると二人に構わずその足を止めて振り返った。
「イチかバチか…食らえっ!」
ビッ、と音を立てて破いた袋を蝦蟇へ投げつける。それはかごめが誤って持ってきた塩で、あっという間に大きく広がったそれは蝦蟇の頭から全身へバサッと降りかかった。すると蝦蟇は大きく目を見開き、突然その顔色を豹変させた。
「ぐひ!? かっ、体が乾く~~っ」
大きく狼狽えると同時に悲鳴に近い叫び声を上げる蝦蟇。次の瞬間、殿の体からギイイイィィとけたたましい悲鳴を上げるなにかが勢いよく飛び出した。それは蛙の姿をした半透明の魂のようなもの。腹部に淡い光を灯らせるそれが逃げ出そうとした途端、大きく跳び上がった影が腕を振り上げた。
「散魂鉄爪!」
ザン、と音を立てて勢いよく爪が振るわれる。それは手を出さないと言っていた犬夜叉のもので、彼は呆気なく蝦蟇を散らしてしまうとその体に宿っていた四魂の玉のかけらをパシ、と掴みとってみせた。途端、霧散していた蝦蟇の名残はあっという間に空気に溶け消えていく。
蝦蟇を消した。それを実感するように呆然と見つめていた
彩音はは…と顔を上げ、かけらを握る彼の元へ小さく駆け寄った。
「犬夜叉…あんなこと言ってたのに…追ってきてくれたの?」
「おめーらじゃどうせやられるだろうから、ちょっと様子を見にきてやっただけでい」
勘違いすんな、そう言わんばかりに素っ気なく言い捨ててしまう犬夜叉。それに微かなため息を漏らしながらも小さく笑んだ
彩音だったが、ふと向こうに見えた人影に目を向けた。なにやらそれはよろめきながらも懸命にこちらへ駆け寄ってくる。
「犬夜叉…」
「ん!?」
「ようやってくれた! 殿は無事じゃ! 蝦蟇が出る刹那まで…よう堪えてくれたな」
嬉しそうに表情を明るくさせて笑い掛けてくるのは信長であった。彼の言う通り蝦蟇から解放された殿は怪我もなく廊下に倒れており、意識もある様子。そんな姿を確認しては嬉しく、居てもたってもいられなかったのだろう。信長は犬夜叉の手を握ったまま満面の笑みを浮かべていた。
しかし犬夜叉自身は望んでそうしたわけではない。だからこそ「えっ。いや…」と狼狽えてしまったのだが、身を寄せてくる
彩音とかごめに宥めるような微笑みを向けられた。
「いーじゃん、犬夜叉」
「そーゆーことにしときなさいよ」
まるで諭すように二人から言われては犬夜叉も返す言葉がない。そうして仕方なく信長の言葉を否定しないでおいてやれば、彼は一層感動的に笑みを深めていた。
しかしそれも今だけ。廊下に腰を落とす露姫に「信長…」と呼び掛けられては、わずかに緊張した面持ちでそちらに顔を向けた。すると対する露姫は涙を浮かべながら笑みを見せ、立ち上がった勢いのままタ…とこちらへ駆け出してくる。
「信長…」
「つ…露姫っ…」
「よくぞ殿を守ってくれましたっ」
そう言いながらひしっ、と殿に抱き着いてしまう露姫。自分の元へ来てくれると思い込んでいた信長はその光景に思いっ切りズッコケてしまったのだが、どうやら彼女の目にはもう殿しか映っていないようで、大きな涙を浮かべながら嬉しそうに殿の顔を見つめていた。
「殿…元のすっきりしたお姿に戻られて…」
「色々すまなかった」
そう話す殿の顔はなんともすっきりとした、シンプルすぎるくらいの顔立ちで。それを遠目に見ていたかごめと
彩音は思わず戸惑うように笑みを浮かべてしまっていた。
「…優しそーな殿さまね…」
「うん…ほんとーに優しそー…」
* * *
ザア…と木々が鳴く。吹き抜ける風に淡い色をした桜の花びらが散っていくこの場所は、一行と信長が初めて出会った場所。城を離れてここへ戻り、腰を下ろした
彩音たちは飲み物の缶を手にしながら言葉を交わしていた。
「蝦蟇の妖術が解けて女の人たちも助かったし…よかったわねー」
「そうだねー」
相槌を打つのは
彩音だけ。そして一行が反応を窺うように視線を向けた先は信長だった。彼は一行がレジャーシートに座る中一人だけ地面に腰を下ろし、ただ静かに背を向けたまま。城をあとにしてから、ずっとこの調子なのだ。
「そ、そういえば
彩音。まさか蝦蟇に塩を浴びせるなんて思いもしなかったわ」
「え、ああ、あれは…蛙の苦手なものを考えて咄嗟に思い付いたというか…完全に賭けだったから、効かなかったらどうしようかと思ったんだけどね」
「でも無事に効いたじゃない。よかったわよねー」
もう一度かごめが呼び掛けるように言いながら信長の方を見る。しかし彼はやはり黄昏るように彼方を見つめていて反応を示さない。よほど落ち込んでいるのだろう、それを思わされる姿にとうとうかごめが「あの~元気出してね、信長くん」と控えめな声を掛けた。しかしそれとは対照的に仏頂面を浮かべた犬夜叉は呆れた様子で彼を見やる。
「ったく、やっぱバカだぜこいつ。殺されそーになりながら恋仇の命乞いしやがってよー」
「ちょっ、犬夜叉…」
せっかく彼をどうにか元気付けようとしていたのに、犬夜叉は容赦なくそう言ってバカにしてしまう。それには
彩音も驚き戸惑ったが、ぴく、と小さく反応を見せた信長はため息をつくように自嘲気味の笑みを浮かべた。
「そうだな…わしはバカだ…」
「でもな、そのバカさ加減が人一人助けたんだ。それでいーじゃねえか」
「(…そう言ってくれるか)」
顔を背けながら、どこか少しだけ照れくさそうに紡がれる犬夜叉の言葉に信長もようやく安らかな笑みを見せる。
同様にその言葉を聞いていた
彩音は彼の意外な気遣いに驚いていたが、ふと小さく微笑むなり“よくできました”と犬夜叉の頭を軽く撫でた。すると彼はそれに一層照れくさそうにしながら「やめろよっ」とすぐさま反論してくる。
そんな二人の姿を眺めていた信長ははは、と微かに笑い、再び前へ向き直っては杖を握り締めて勢いよく立ち上がった。
「よしっ元気が出た。行くぞっ」
「え…行くって…」
「信長くん…」
颯爽と歩き出すその姿に一同が視線を向ける。元気が出てすぐに前を向いてくれたのはよかった、だが彼が行く先は――
「そっちガケなんだよね」
「(やっぱりバカなのかしら…)」
一度だけならず二度までもあっさり崖から転げ落ちてしまうその姿に、一同は呆れたような不思議そうな顔を揃って向けていたのだった。