05

「よいかっ、娘を隠すとためにならんぞ。一人残らず殿に献上するのだぞ」 そんな声を上げるのは山奥の村に訪れた城の家臣たち。何人もの若い娘の両手を縛り、有無を言わさず村から連れ出そうとしているようだ。只事ではない状況に見えるが、それは殿の命令であり逆らうことなどできるはずもなく。残された村人たちは不安そうな顔でそれを見つめるばかりであった。 「一体国中の娘を集めてどうするつもりなんじゃろ」 「城に入った娘は、誰一人戻ってこないというぞ」 「(な…なんと…)」 村の男たちの小さな声を聞きつけた信長が茂みから驚愕の表情を覗かせる。その視線の先で連れて行かれる娘たちは皆不安そうに眉を下げ、中には涙を浮かべる者もいる様子。そんな光景を目の当たりにしては、信長も訝しげに眉根を寄せて滲む汗をこめかみに伝わせた。 「(この国の殿が、ご乱心なされたという噂…まことであったのか!?)」 「くおら、なんでおれたちがこいつに付き合わなきゃなんねんだよ」 「だってこの人なんだかほっとけないじゃない」 「危なっかしいし」 真剣に見つめる信長の背後でそれほど緊迫感のない顔を出すのは犬夜叉たち。かごめと彩音が“信長を追おう”と言い出したことで必然的に犬夜叉も連れて来られたのだが、彼は信長の動向など全くもって興味がないようだった。そのため今にも“戻るぞ”と言い出しそうだったのだが、不意に茂みの傍で話す村人が声を潜めるように耳を寄せ合うのに気が付いた。 「ここだけの話だけどな、城の殿さま…物の怪に憑かれてるちゅう話だぞ」 “物の怪に憑かれている”、その言葉を耳にした途端これまで興味を示さなかった犬夜叉の目の色が変わる。それどころか目の前の信長の頭を押さえて背中を踏みつけるほど興味深そうに身を乗り出していた。 そうして村人の口からは、不穏な言葉が紡がれる。 「城に集めた娘たちは、殿さまに憑いた物の怪が、喰っちまうって噂だ…」 村人の噂話を聞きつけた一行は日が沈み切った夜更けに城の麓まで歩みを寄せていた。星々が瞬く夜ということもあってか、見上げる城壁の向こうはしんと静まり返っている。そんな中で「間違いねえ」とこぼした犬夜叉の表情には、確信的な怪しい笑みがはっきりと浮かべられていた。 「妖怪の匂いがぷんぷんしやがる。四魂の玉持ってるに違いねえぜ。よし、ひとっ飛びするぞ。おぶされ」 「うん」 「分かった」 犬夜叉の呼び掛けに声を返した二人はすぐに身を屈めてくれる彼の背中へ乗り込もうとする。先をかごめに譲り、彩音もそれに続くよう犬夜叉の背中へ手を掛けようとした、そんな時だった。一行について来ていた信長が突然割り込むようにして犬夜叉に手を掛け、準備万端といった表情で彼の背中にしがみついてしまう。 「なんでおめーが乗るんだよっ」 「わしもこの城に用がある」 「だからっておめーが乗ると彩音が乗れねーだろっ」 「まあまあ、連れてってあげなよ。私はどこか入れそうな場所探すから」 決して譲らない様子の信長に強く吠え掛かる犬夜叉を見て、彩音は苦笑を浮かべながらひらひらと手を振る。信長がこの城になんの用があるのかは知らないが、彼の様子から察するに大事なことなのだろう。 それを思って彩音は犬夜叉の背中を譲り、そのまま城の外周を見て回ろうとした――が、犬夜叉から「ちょっと待て」と呼び止められてしまう。それに振り返ってみれば、なにやら彼はこっちに来いと手招きをしてきて。不思議に思いながらも促されるまま犬夜叉の前へ歩いて行くと、突然ひざ裏へ伸ばされた腕に体を掬われるようひょい、と持ち上げられてしまった。 「えっ、な…!?」 「おめーらしっかり掴まってろよっ」 彩音が驚き戸惑うのも構わず、そう言いつけた犬夜叉は強く地面を蹴って高く大きく跳び上がった。そのたった一蹴りで頭上にそびえていた塀へ降り立っては、そのまま地面へ飛び降りて背中に乗せていた二人を降ろしてやる。 次いで彩音も放そうとした時、犬夜叉は彼女の顔を見て少しばかり不思議そうな顔をした。 「どうした。顔赤えぞ」 「ほ…ほっといて」 犬夜叉から顔を隠すようぷい、とそっぽを向く彩音。彼女はいわゆる“お姫さま抱っこ”というものを経験したことがなかったのだ。だというのに覚悟もできないまま突然それをされてしまい、つい顔を赤くするほど照れては誤魔化すように顔を背けることしかできなかった。 しかし、犬夜叉にとってはただ抱き上げただけ。彼にはその反応が不思議でたまらず、彩音を地面に降ろしながら未だ不思議そうに小首を傾げていた。 しかしそれも程々に、すぐに表情を引き締めた彼は一同の前に出ると「行くぜ!」と声を上げて城へ駆け出す。それに彩音たちも気を引き締めるよう続く中、一人だけ怪訝な様子を見せたのは犬夜叉の肩にしがみつく冥加だった。 「犬夜叉さま妙じゃ。気を付けなされ」 「なんでえ、冥加じじい」 「これだけの城に、夜の張り番が一人もおらん」 「確かに不用心にすぎるが…」 冥加の忠告に辺りを見回した信長がそう呟いた時だった。不意にかごめが「あ?」と声を漏らして立ち止まりなにかを覗き込む。その様子に気付いた犬夜叉たちも同様に足を止めて歩を寄せれば、そこには張り番と思われる男が項垂れるように座り込む姿があった。 薄く白目を覗かせて動かないその男。訝しんだ彩音は確かめるようにツンツン、と男へ触れながら小さく顔をしかめた。 「この人、生きてるよね…? 寝てる…?」 「これは…妖術で眠らされておる。恐らく城の者たち全てが…」 冥加が額に複数の汗を滲ませ息を飲むように言う。その言葉に誘われるよう辺りを見回してみるが、確かに動く人影が一切見受けられない。乗り込む以前に感じた静けさは妖術のせいだったのか。そう思わされてしまう状況に彩音が警戒するも、傍の信長は対照的に焦ったよう「露姫さま!」と大きな声を上げて城へ駆け出してしまった。 なんとも計画性のない行動。それに驚いた彩音たちは戸惑いながらもすぐにそのあとを追いかけた。 ――城へ踏み込んでみても静けさは変わらない。やはり冥加の言う通り全ての者が眠らされているようで、廊下から部屋に至るまでの様々な場所で多くの人々が深い眠りに落ちていた。 「露姫さまどこじゃ! 信長がお助けに参りましたぞ!」 異様な静けさの中で信長の大声と慌ただしい足音だけが大きく響く。彼は長い廊下を走り、そこに繋がる全ての部屋を覗き続けていた。しかしどこを見ても武士や家臣の男たちばかり。女の姿すら見えない状況に焦燥感を募らせる信長は「姫ー!」とさらに大きな声を上げて戸を開け放つ。 そんな姿を見守るかごめたちは最早落ち着いた様子で彼が走ったあとを辿り続けていた。 「いーのかな、こんな大声出して。ここ敵地でしょー」 「…って言っても、みんな妖術で寝てるしねー」 そう話すかごめと彩音も起きている人間がいないためか、特に危機感を持った様子もなく悠長に廊下を歩いていく。そんな時ふと犬夜叉がその口元に不敵な笑みを湛え、バキ、と強く指を慣らした。 「これだけ騒げば、妖怪の方から駆けつけてくるんじゃねーか?」 「きっとね。相手もそろそろ気付いてるでしょ」 彩音がどこにいるのかも分からない殿を捜すように視線を上げた時、不意に信長が「姫!!」と一層声を張り上げて部屋に駆け込む姿が見えた。ようやく見つけたか。彩音たちもそれに続くようにそこへ踏み込むと、同時に信長が横たわる女へ慌てて駆け寄っていく。 「露姫、しっかりなされよ! うぐっ!!」 女の体に手を掛け揺さぶった途端、信長の顔色が一変してしまう。それどころか後ずさってしまう彼の様子を怪訝に思った彩音が覗き込んでみれば、信長の目の前に横たわる女は長い白髪の老婆であった。それに驚く様子もない彩音とは対照的に、冷や汗さえ浮かべる信長は愕然と震える拳を握りしめる。 「姫っ…なんというお姿に…」 「ねえ、惜しんでるところ悪いんだけどさ…」 「こっちじゃない? あんたが捜してるお姫さま」 「あ」 彩音とかごめに向けられた声で振り返った信長から短くも間抜けな声が漏れる。それもそのはずだ、そこには鮮やかな着物を纏った可愛らしい姫が変わった様子もなく横たわっていたのだから。つまり、信長が駆け寄った老婆は全くの別人。早とちりもいいところだ、そう呆れてしまう彩音は壁にもたれて立つ犬夜叉同様に目を据わらせて信長を見ていた。 するとそんな時、犬夜叉の肩にいた冥加が突然目の色を変えて立ち上がった。 「なんと美しい姫じゃ、お起こしせねば」 そう言いながら冥加は犬夜叉の肩から跳ねるように彩音、かごめと飛び移っていき露姫の頬へ張り付いた。かと思えば一切の躊躇いもなくその口を露姫の肌に刺し、ぢゅー、と血を吸い始める。 起こすというのはあくまで建前だろう。彼にとって血を吸うことこそが目的で、瞬く間にむくむくむくとその体を膨らませていた。だがそれも束の間、露姫が「うっ」と短い声を上げると、冥加は彼女の手によってばち、と叩き潰されてしまった。 そんなお約束通りの展開。それに彩音が呆れの目を向けていたのだが、一応彼の吸血に効果はあったようで。深く閉ざされていた露姫の愛らしい目がパチ、と確かに開かれた。 「あ…」 「の、信長…なぜここに…?」 「露姫さまっ、わしがお分かりか!?」 信長の姿に驚いた表情を見せる露姫へ、信長もまた目を丸くしながら身を乗り出す。互いに驚きを隠せない様子だったが、露姫は彼の言葉に表情を綻ばせると穏やかな微笑みを浮かべてみせた。 「そなたのこと…忘れるわけがない」 「え…? あ、ありがたき幸せ…家臣の末子のわしのことなどとっくにお忘れかと…」 「私にとっては、そなたは心優しい幼馴染です」 露姫の優しい言葉に分かりやすいほど顔を赤くし表情を解す信長。先ほどまでの威勢はどこへ行ったのか、彼は照れと戸惑いを露わにしながらぎこちないほど緊張に身を固くしていた。 それを見守るかごめと彩音はそっと身を寄せ合い、なにやら腑に落ちたような表情で初々しい彼の姿を眺めている。 「ねー彩音、信長くんお姫さまのこと好きみたいね」 「そうだねー。面白いくらい分かる」 「けっ、くだらねー」 つい小さく笑ってしまう彩音に反して犬夜叉は呆れたように吐き捨てる。妖怪退治に来た彼にとって人の色恋沙汰などどうでもよいのだろう。つまらなそうに目を据わらせながら視線を向ければ、信長はにやけ顔を露わにしたまま嬉しそうにしていた。が、次いで露姫の口から語られたのはそんな彼の喜びを霞ませてしまう言葉。 「池に落ちたり、馬糞ですべって転んだりして、そなたはいつも私を笑わせてくれました」 「はあ…」 やはり昔からうつけだったのか、それを思わされてしまうような思い出話に信長は恥ずかしいやら情けないやらと別の感情でまた頬を赤くした。 もしかしたら少しでも脈があるかもしれない、そう思ってしまった彼の期待は見事に打ち砕かれたということ。それに脱力するよう肩を落とした時、不意に露姫の目に涙が溢れ出した。 「あの頃に戻りたい…」 「姫っ…」 よほど怖い思いをしてきたのか、楽しかった日々を思い出した途端に溢れる涙は抑えられず、彼女の涙はポロポロと頬や添えられた手に伝っていく。 一体なにがあったのか。村人の噂話は事実なのか。それらを確かめるべく露姫から事情を聞けば、確かに殿はある時から様子がおかしくなったという。それは露姫が嫁いで間もなくのこと。庭の池の端で倒れた殿は高熱を出し、人が変わったというより、まるで別の生き物のようになってしまったのだと。国中の若い娘を集め始めたのもその頃からで、露姫がそれを問うても強く怒鳴られ教えてはもらえないという。 ひどく怯えた様子でそれを語った露姫は目尻に溜まった涙を揺らし、縋るように信長へ視線を上げた。 「信長、私はどうすれば…」 「決まっておる! わしと共に武田(くに)に帰るのじゃ! この国の殿、ご乱心の噂は武田まで聞こえていた。その噂が真実ならば…姫を無事に連れ帰るようにと、国もとから言い渡されて来たのじゃ」 「国の命令で…?」 「いや! 例え命令がなくともわしは…」 露姫の問い返すような声に拳を握りしめた信長が身を乗り出してまで強く言いかける。すると突然、露姫はなにかに気付いたように大きく目を見開いた。 「信長…」 「露姫さまっ、わしは…」 思いが伝わったか、露姫の様子にそう感じた信長は鼓動を激しくさせながら彼女を見つめる。言うなら今だ、今しかない。そんな思いで口を開こうとした刹那、露姫の細い指が信長の頭の上を指し示した。 「信長、頭の上…」 露姫が指した信長の頭の上、そこにはお椀で皿回しをするという曲芸を見せる日吉丸の姿があった。先ほどの露姫の驚く顔はこれに向けられていたもの。それをようやく悟った信長は両手で拳を握りしめながら「日吉丸…」と悔しげに涙を流していた。 しかしそんな和やかな空気もこれまで。なにかを感じ取った犬夜叉が切り捨てるように言い出した。 「おい、さっさと姫連れて逃げな。邪魔だよおめーら」 「なに…? お主たちはどうするのだ…?」 「おれたちはこれから用があるんだよ」 ようやくその表情に覇気を戻した犬夜叉が笑みを浮かべながら立ち上がる。そしてバキ、と指を慣らしながら部屋を出る彼に彩音とかごめも続けば、暗闇に沈む廊下の奥からぺた…と足音を立てるなにかが姿を現した。誰しもが眠っている中、体中に包帯を巻いたそれはしっかりとした足取りでこちらへ近付いてくる。 「ぐひっ、くせ者…ぐひっ、逃さぬ…」 不気味な声を漏らしながらゆっくりと歩いてくるなにか。それは体も頭も人間にしては大きすぎる異様な姿をしていた。たまらず部屋の中からそれを見た信長も眉をひそめ、露姫と共に息を飲む。 「あ、あれは…」 「殿…」 恐らくはそうなのだろうと思うも信じられずに問いかければ、露姫の口から予想と違わぬ声が弱々しく返ってくる。これが物の怪に憑かれたという殿。確かにそれは露姫が語っていた通り、人ではない別の生き物のようであった。 誰しもがそれを感じてしまう中、ゆっくりと距離を詰めてきたそれは突然包帯の下から長いなにかを勢いよく伸ばしてくる。 「おーっと!」 犬夜叉目掛けて放たれるも、彼は大きく跳び上がってそれをかわしてみせる。すると代わりに襲われた背後の障子が激しい音を立てて木片を散らした。その瞬間、彩音が張り番から拝借した弓を大きくしならせる。 「大人しく…しろっ!」 そう声を上げると同時に強く引いた矢を放つ。物の怪に憑かれているとはいえ、相手は殿だ。威嚇程度で当てるつもりなどなかったのだが、わずかに照準のずれた矢が相手の顔の包帯を掠めてしまう。すると焼き切れるように千切れた包帯は瞬く間に解けていき、隠されていた殿の顔が露わにされた。 「あ…」 「なっ…」 短く声を上げるかごめに続いて彩音まで表情を引きつらせるように声を漏らす。なぜなら目の前でぺたん、と腰を落としてしまう殿の顔が、姿が、大きな蛙そのものだったからだ。それには犬夜叉も驚いたように「蛙…」と呟き呆気に取られている様子。 だが最も衝撃を受けたのは露姫だ。彼女は呆然とそれを見つめていたが「と…殿…」と弱々しく小さな声を漏らした次の瞬間、あまりのショックに眩暈を起こして体を大きく傾けてしまう。 「姫! お気を確かに…」 倒れる彼女を信長が咄嗟に抱き留めて声を掛けるが返事はない。どうやら完全に気を失ってしまったようで、露姫は信長の腕の中でがっくりと力なく項垂れていた。 それと同時、かごめと彩音は体を起こす蛙の体に光を垣間見ると途端に視線を鋭くさせた。 「あっ…見えた! 四魂の玉…」 「右肩のとこ!」 かごめに続くよう声を上げた彩音の言葉通り、それの右肩の辺りに四魂の玉特有の淡い光がポウ…と灯されていた。やはりかけらを持っていたらしい。それを把握した犬夜叉はまたも指を慣らし、余裕そうに不敵な笑みを浮かべてみせた。 「ふっ、玉持ってるわりにゃ弱そうだな」 「油断なさるな犬夜叉さま、こやつは齢三百年の妖怪九十九の蝦蟇。一筋縄ではいかんぞ」 犬夜叉の態度とは打って変わり冥加は念珠に掴まったまま警戒の様子を見せて忠告する。だが犬夜叉は彼の言葉など聞こえていないかのように強く床を蹴ると、真正面から蝦蟇へと飛び掛かった。 「けっ、一発で引き裂いてやらあ!」 大きく叫び上げながら向かってくる犬夜叉を前に、蝦蟇は狼狽える様子もなく突然頬をプー、と大きく膨らませる。そして爪を振り下ろさんとする犬夜叉が目前に迫った瞬間、蝦蟇は頬に溜め込んだそれを犬夜叉へ噴きつけるように勢いよく吐き出した。 霧状のそれ、正面の犬夜叉を包んではこの狭い廊下に瞬く間に流れ込んでいく。 「ゴホッ、なに…こ、れっ…」 咄嗟に口を押えるも犬夜叉の背後にいた彩音にそれが回るのは早かった。わずかながら吸ってしまったそれは体の中を焼くような痛みとなり、彩音の視界を霞ませていく。 「いかん、彩音は吸ってしまったか! かごめ、瘴気じゃ! 吸ってはならんぞ!」 「あんた、いつの間にこっちに…」 当然のようにかごめの肩へ逃げてきていた冥加の指示にかごめは慌てて口を押さえる。しかし瘴気を直に受けてしまった犬夜叉は「がはっ」と苦しげに喉を押さえて倒れてしまい、同様に吸ってしまった彩音も糸が切れたようにフ…とその身を横たわらせてしまった。 誰しもが瘴気に動きを封じられる中、蝦蟇は「ぐひっ」と小さく鳴きながら平然と歩み寄ってくる。 「ん~? この娘も美味そうだな~」 そう言って蝦蟇が視線を落とした場所、そこには気を失った彩音がいた。充満する瘴気に手を放せないかごめに、苦しげにもがく犬夜叉。誰も蝦蟇を止めることができず、彩音を抱えた蝦蟇は次いで露姫の方へと歩みを寄せて行った。 「露姫~ ぐひっ」 「下がれ妖怪!」 嬉しそうにぺたぺたと近付いてくる蝦蟇へ信長は露姫を抱えたまま負けじと刀を構えてみせる。しかしそんな威勢も虚しく、蝦蟇はその大きな口に不穏な笑みを覗かせた。 「ば~か、人間の分際で~」 「!」 素早く伸ばされた長い蛙の舌。それは目にも止まらぬ速さで信長へ迫ると、ドス、と鈍い音を響かせて彼の右肩を貫いてしまった。蝦蟇はそのまま大きく舌をしならせ、振り払うように信長の体を床へ叩き付ける。 その時瘴気が薄まり始めたことでかごめが咳き込みながらも「の、信長くんっ」と声を上げると、それに気が付いた蝦蟇がすぐさま露姫に手を伸ばし、彩音と露姫、二人を抱えたまま一目散にその場から逃げ出してしまった。 一時はそれを追うべきかと考えたかごめだが、床へ広がるほどの血を流しながらも「姫ーっ!」と叫び駆け出そうとする信長の姿に慌て、彼をその場に留めるよう抑え込んだ。 「動いちゃダメ! ひどいケガよ」 「い、行かねば…我が命尽きるとも、姫をお救いせねば…」 必死に止めようとするかごめに対し、信長は刀を杖の代わりにしてでも強引に体を起こそうとする。 言葉だけではない、確かな覚悟。それを見せられたかごめは思わずその姿に感銘を受けると、わずかながら意外そうに目を丸くした。 「信長くん、あんた…本っ当にお姫さまのこと好きなのねえ」 かごめがそう声を掛けた途端、ぎくっ、と肩を跳ねさせた信長が目を見張る。たまらず狼狽えるように瞳を揺らがせると、愕然とした様子でかごめの顔を見つめだした。 「な…なぜ分かった…?」 「え゙…隠してたつもり…?」 本当に驚いたように言ってくる信長の姿にかごめは思わず汗を伝わせる。あれほど顔を真っ赤にして分かりやすいくらいにもじもじしていたというのに、本人は全て隠しているつもりだったというのだ。あれで隠していたというには無理があるだろう、そう思わされてしまうほど脱力してしまうかごめの背後で、突然勢いよく立ち上がる赤い影が揺れた。 「あのクソガエル…殺す!」 「あ。元気になった」 拳を強く握りしめるほど怒りを露わにした犬夜叉の姿に完全復活を確信するかごめ。しかし対する犬夜叉はそんな彼女の呑気な様子とは打って変わり、どこか焦りを覚えたように蝦蟇が逃げた方角に舌打ちをこぼして。かごめや信長が立ち上がるのを待つこともなく、ただ一人で強く駆け出してしまった。

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