05

「(不死の御霊に勘付かれちゃ厄介だ…早いところ彩音を見つけねえと…)」 怒りにほど近い焦燥感に駆られながら廊下を駆けて行く。蝦蟇が不死の御霊に気付く様子はなかったが、彩音が連れ去られてしまってはなにかで勘付かれる可能性もあるだろう。そして喰われなどすれば、こちらの勝ち目はなくなってしまう――そんな思いばかりが交差して、ギリ…と奥歯を鳴らした。 姿は見えないが、恐らくそれほど遠くへ逃げてはいないだろう。周囲に残る臭いを嗅ぎ分けながら辺りを見回した、その直後。 「きゃあああーっ」 突如大きく響き渡ってくる甲高い悲鳴。これは彩音と共に連れ去られた露姫のものだ。そう確信した犬夜叉は即座に行き先を定め、その方角へ踵を返すと同時に強く弾かれるよう床を蹴った。 視線の先には突き当たりに備わった大きな扉。それに眉根を寄せると、狙いを定めるように一層強く早く駆け抜けた。 「ここかーっクソ蛙!!」 そう叫び上げながら容赦なく扉へ飛び込み突き破ってみせる。途端に激しく散らばる木片の向こう、そこには件の蝦蟇の姿があった。やはりここに逃げ込んでいたか、犬夜叉がそう睨み付けながら立ちはだかれば、その背後に続けて駆けつけてきた信長とかごめまでもが姿を現した。 これでもう蝦蟇に逃げ場などはない。それは揺るぎない事実であるはず、だがそれでも蝦蟇は焦ることなく、むしろ犬夜叉たちを嘲笑うかのように目を細めていた。そして一同へ見せつけるよう、傍の大きな球体を愛おしげに撫でつける。 「ぐひひっ、もう遅い~」 「露姫さまっ」 「彩音!」 蝦蟇が撫で回す二つの球体の中身に気付いては信長と犬夜叉が揃って声を上げる。なぜならその球体の中には、それぞれ連れ去られた露姫と彩音が閉じ込められていたのだ。 それだけではない。この大きな部屋を埋め尽くさんばかりに同様の球体が連なるよう並べられており、その一つ一つに村々から集めた若い娘たちが閉じ込められている。それも人の形を留めている者、溶けるように姿を変えている途中の者、首だけを残し体をオタマジャクシの尾のように変えてしまっている者と、様々な形で。 そのあまりにも異質な空間を見回した犬夜叉は「ふん、」と呟き、蝦蟇を嘲るように素っ気なく言いやった。 「国中から集めた娘どもは、こうなってたのかい」 「なにこれ…蛙の卵みたい…」 「九十九の蝦蟇は、こうして娘の魂を熟成させて、喰らうのじゃ」 「露姫さまを…喰らうと申すのか!!」 冥加の言葉を聞いた信長が焦りと怒りを孕んだ声で叫び上げる。するとそれを耳にした犬夜叉はわずかに顔色を変え、球体に閉じ込められる彩音を見据えた。彼女は閉じ込められる際も気を失ったままであったのだろう、固く目を閉ざして抵抗した様子も見せずに項垂れている。 このまま彩音が喰われるようなことになってしまえば取り返しのつかないことになる。最悪の状況を脳裏によぎらせてしまう犬夜叉が彼女の姿にたまらず舌打ちをこぼせば、ふと肩の冥加が息を飲むようにして蝦蟇の姿を凝視した。 「こやつ四魂の玉より得た妖力で…殿の身分を…ひいては一国を乗っ取りよった」 戦慄するように呟く冥加へ蝦蟇は「ぐひひっ」と得意げに笑みを見せる。それに堪忍袋の緒を切らした信長は握っていた刀を持ち直し、「おのれーっ!」と叫び上げながら弾かれるように蝦蟇へ駆け出した。 しかし蝦蟇も素直に首を差し出すはずがない。すぐさま頬を膨らませては、迫らんとする信長へ向かってブホ、と大量の瘴気を吐き出した。 「危ない、瘴気よ!」 「どいてろ! 瘴気ごとぶった斬ってやらあ! 食らえっ殿さま蛙!!」 即座に信長を追い越した犬夜叉は鉄砕牙を引き抜くなり蝦蟇を目掛けて勢いよく振り下ろしてみせる。その瞬間鉄砕牙の切っ先が微かでも確かにビッ、と蝦蟇の体へ走らされ、得も言われぬ色をした体液が溢れ出さんばかりに噴き出した。 それにたまらず弱々しい悲鳴を上げた蝦蟇はよろめき、その場へ尻餅を突くよう倒れ込んでしまう。すると犬夜叉はその姿を見下し、「ふっ、」と不敵な笑みを浮かべやった。 「腹掻っ捌いて四魂の玉取ってやる。これ以上悪さができねーようになっ」 そう告げながら堂々と立ちはだかる彼の手に掲げられる鉄砕牙。それはボロボロの錆び刀などではなく、かつて殺生丸と闘った時と同様の白く大きな牙の刀へ変化を果たしていた。 四魂の玉のかけらのためとはいえ人助けになっているからだろう。理由はなんであれ鉄砕牙を使いこなせているその姿に、冥加とかごめは嬉しそうに目を丸くする。 だがそれらとは対照的に焦りを見せるのは九十九の蝦蟇だ。斬られた自身の体へ触れては、べったりと糸を引く自身の体液を目の当たりにして大量の汗を見せている。 「ぐひっ、死んじゃう~魂~魂~」 突然上げられた必死な声。するとそれに応じるかのように辺りの球体がブルブルブルと大きく震え始め、その中から熟成された娘が白く半透明な姿になっていくつも飛び出してきた。その光景に犬夜叉が思わず「あ?」と声を漏らしてしまう中、その目の前で大きく口を開いた蝦蟇は飛んでくる女の魂をちゅるちゅると啜るように飲み込んでいく。 「ぐひっ。寿命が延びた」 けろ、と表情を変えて嬉しそうに言う蝦蟇が自身の体を軽く叩く。見ればそこにあったはずの傷は瞬く間に跡形もなく消え去り、元の艶やかな白い肌だけが晒されていた。 娘の魂を喰らったことで傷が治ったというのだ。それにかごめが驚愕の表情を見せれば、犬夜叉はどこか悔しげに表情を歪めてしまう。 「この野郎~」 「どんどん斬れ~斬られた分だけ魂喰ろうてやる~」 次の一手に踏み込めない犬夜叉へ、蝦蟇は馬鹿にするように舌を伸ばして挑発の声を向けてくる。鉄砕牙があれば蝦蟇を追い込むのは容易いかもしれない、だがこのように傷ついた分だけ娘たちの魂を喰われていては無闇に手を出すのもはばかられてしまうというものだ。 面倒な状況に犬夜叉が一層眉根を寄せかけた、その時。ふと蝦蟇の背後でザク、となにかを斬るような音が鳴らされた。それに気付いた蝦蟇が不思議そうに振り返ると、そこには球体に刀を突き立てる信長の姿が。彼は蝦蟇の気が逸れている間に球体の膜を破り、中の露姫を救い出そうとしていたのだ。 ドロドロとした粘質の液体から姫を解放し、咳き込む彼女へ「姫…」と心配そうな声を向ける信長。すると露姫は不安に揺れる瞳を持ち上げ、目の前の彼を見つめるなり途端に涙を溢れさせた。 「の…信長ーっ」 「あ…」 相当怖い思いをしたのだろう、露姫はたまらず声を上げると同時に弾かれるよう信長の体へ縋りつく。するとそれに驚いた信長は彼女の姿を見つめ、ドキドキと高鳴る鼓動をそのままに「つ…露姫…さま…」と小さな声を漏らした、次の瞬間。 「我が人生に悔いなしっ」 「あんた、こんな時に…」 ここぞとばかりに露姫をぎゅ~、と抱きしめてしまう信長にかごめと犬夜叉は呆れの目を向ける。だがそれに対して蝦蟇だけは顔色を変え、怒りを露わにした様子で突然大きな声を上げてきた。 「姫になにをする~」 「てめーが言うなっ」 「ぐひっ」 途端に舌を伸ばす蝦蟇の頭へ、みし、と鉄砕牙が降らされる。すると脳天に直撃したその一撃により蝦蟇は力なくへたり込み、そのまま放心するように虚空を見つめていた。 恐らく気を失ったのだろう。それを確信した犬夜叉はため息をこぼし、彩音が閉じ込められる球体へ歩み寄ってはその膜を無造作に斬り破った。途端、粘液とともに目を閉ざしたままの彩音が流れ出してくる。どうやら未だ意識が戻っていないらしい。それを察した犬夜叉はわずかながら眉根を寄せ、自身の袖で彼女の顔を拭うとその頬をぺちぺちと軽く叩いてやった。 「彩音。おい、しっかりしろ」 「あ…? いぬ、やしゃ…」 「やっと目が覚めたか」 ようやく目を開いた彩音の姿にわずかな安堵と呆れを含んだ目を向ける。かと思えば「ったく、ひやひやさせやがる…」とほんの小さな声でぼやくように呟き、咳き込む彩音の手を握って引っ張り上げるよう立ち上がらせた――その時だった。 「露…姫…」 蚊が鳴くように、ほんの微かに漏らされた声。それを口にしたのは信長でなく、虚ろな目をする蝦蟇であった。 どうやら意識を保っていたようだが、それにしては様子がおかしい。虚ろな目のまま混乱したように「あ…? わし…は…」と呟き、自身の顔をぺたぺたと触っているのだ。その違和感に気付いた一同が訝しげに眉をひそめると、まるで人が変わったかのように戸惑う蝦蟇へ視線を集めやる。しかし蝦蟇はそれに反応を示す余裕もないようにゆっくりと部屋を見渡し、大きく狼狽える困惑の声を漏らし始めた。 「これはみな…わしがやったことか…?」 「あー? 今さらなにトボケてんだ、てめえ」 「な…なんという浅ましい…恐ろしいことをわしは…」 鉄砕牙を肩に掛けながら素っ気なく言い捨てる犬夜叉の言葉に蝦蟇は確信を得ながら、それでもなにも知らなかったと言わんばかりの様子で愕然と項垂れる。それはとても嘘などついているようには見えない姿。だが犬夜叉はそれに対して我を失った振りか、はたまた情でも引こうとしているのかと考え、一切警戒を緩めることなく静かに見下ろしていた。 それと打って変わり、彩音だけは不思議そうに首を傾げてしまう。かと思えばなにか思い付いたか、微かに足を踏み出すと蝦蟇へ囁くように問いを投げかけた。 「すみません、もしかして…殿さま、ですか…?」 「あ? なに言ってんだ彩音」 「その…いま喋ってるのが、殿さまじゃないかって…」 訝しげな顔を向けてくる犬夜叉に彩音は恐る恐るといった様子でそう話す。すると床に手を突いて項垂れる蝦蟇はそれを肯定するように「うう…」と小さく唸り、自らの口で弱々しくも確かに語りだした。 「物の怪にとり憑かれた当初は…それでも人間の心はあった。だがこの頃ではそれも…」 苦しそうに、つらそうに語られる言葉は紛れもなく殿のもの。それをはっきりと感じさせられた一同は愕然とし、同時に“殿が蝦蟇の中で生きている”という事実を確信した。 だが、今しがた語られた殿の言葉。それが確かならば、殿の体が完全に奪われてしまうのも時間の問題だろう。そうなってしまう前に一刻も早く殿から蝦蟇を離さなければならない。しかしそうは思うものの、そんなことが自分たちにできるのだろうか――そんな思いをよぎらせながら黙り込んでしまう彩音たちの前で、殿は呆然と俯いたまま、それでも確かな声で呟くように言い出した。 「わしを殺せ…」 「「え…」」 「このままではわしは…露姫まで喰ろうてしまう…」 天を仰ぎ、静かに涙を流しながらそう口にされる。蝦蟇の姿をしていても、今そこにあるのは殿の心。それを感じさせられる姿に信長と露姫は言葉を失ったまま、ただ呆然とその姿を見つめることしかできないようだった。 「そうなる前に、物の怪ごとわしを斬れ…」 彼らの視線を受けながら、殿は犬夜叉へ静かに首を差し出そうとする。だがそれでは殿が…そう考えて戸惑ってしまう彩音の傍で、同じく彼の姿を見下ろす犬夜叉がふとこの空気に似つかわしくない不穏な笑みを浮かべてみせた。 「中々麗しいじゃねえか、それじゃ遠慮なく…」 「なっ…!?」 「ま、待て犬夜叉、中の殿はどうなる!?」 平然と鉄砕牙を握り直してしまう犬夜叉の姿に彩音だけでなく信長までもが目を丸くして問いただす。その気持ちはどうやらかごめも同様で、彼女は犬夜叉を引き留めるように「そ、そうよ!」と大きな声を上げて犬夜叉に詰め寄った。 「まだ人間の心が残ってるんだから!」 「それも間もなく消え失せるであろうがなー」 「冥加じーちゃん、ちょっと黙ってて」 一同が抗議の声を上げる中で諦めろと言わんばかりにため息をついてくる冥加を彩音は容赦なくブチ、と潰してしまう。そして意地でも犬夜叉を止めるべく声を掛けようとするが、それよりも早く口を開いた彼は一同を黙らせるように強く怒鳴りつけた。 「ごちゃごちゃうるせーな! 殿さまが斬ってくれっつってんだろ。くだらねえ同情してんじゃねえよっ!」 「ダメ犬夜叉っ…」 声を荒げながら躊躇いなく振り下ろされる刀に彩音が思わず声を上げてしまうが、それを遮るように鈍くも凄まじい音が響かされる。止められなかった。その事実に誰もが息を飲んでしまいながら、巻き上げられた土煙の向こう側を見つめる。ただ殿の無事を願うように。 するとやがて土煙が晴れていくそこに犬夜叉と、床に叩き込まれた鉄砕牙が見えてきた。見ればそれは、殿の体のすぐ傍へと逸らされている。 「ったく、斬っちまえば簡単なのによ」 「い、犬夜叉…」 「(殺せなかったんだ…)」 床を破壊するだけに留められたその様子に彩音とかごめはたまらず安堵のため息を漏らす。しかしそれも束の間、仏頂面を浮かべた犬夜叉は二人へ歩み寄り、当然のように呼び掛けてきた。 「で、どーすんだおめーら」 「「え」」 「おれを止めたからには、おめーらがこの殿さま蛙、始末するんだろーな?」 どこか厳しさを孕んだ声で犬夜叉に問いかけられたその時、不意に小さく「ぐひっ」という不気味な笑い声が聞こえた。かと思えば突如伸ばされた鋭い舌が犬夜叉の脇腹を貫き、その体を床へ放り捨ててしまった。 「い、犬夜叉!!」 「あいつ、また戻って…」 「ぐひひっ、わしを始末するだと~? ぐひっ娘~その前に二人とも喰ろうてやる~」 ぺた…と湿った足音を鳴らして近付いてくる蝦蟇。それは再び殿の心を失い、物の怪の心に乗っ取られた九十九の蝦蟇であった。蝦蟇が目を覚ましたことは厄介だ、しかし頼みの綱である犬夜叉は血を流し床に倒れ込んでしまっているため頼ることはできない。彼を守るためにも、ここは自分たちでどうにか凌がなければ。そんな思いをよぎらせ拳を握りしめたその時、「彩音っかごめっ」と呼び掛けてくる冥加がかごめの肩に飛び移って声を上げた。 「一つだけ…殿の体から九十九の蝦蟇を追い出す策を思いついた」 「そんなこと…できるの!?」 「イチかバチか…やってみるか!?」 「やろう彩音!」 「うん! 私たちで…殿さまを助けなきゃ!」 決意を固めるように強く頷き合ってはゆっくりと近付いてくる蝦蟇を睨み付ける。恐らく冥加の思いついた策とやらで殿も、ここに閉じ込められた娘たちもみんな助かるだろう。そんな希望を抱きながら冥加へその方法はと問いかければ、彼は真剣な表情を見せて力強く言い張った。

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