30

澄んだ空で燦々と輝く太陽が辺りを眩しく照らす。そんな明るさとは打って変わって薄暗い闇に満ちた蔵の中に、私はただ静かに立ち尽くしていた。 本当は日課である玄関の掃き掃除を頼まれていたのだけれど、落ち葉もごみも特になくて手が止まってしまった時、ふと視界の端に映った蔵に視線が吸い込まれて。気が付けば、重い足取りながら蔵の中へと踏み込んでいた。 そこで箒を手にしたまま立ち尽くすように見つめるのは、地下へ――戦国時代へ通じる戸。 「……」 ――あれから…私が現代に帰ってきてから、もう三週間ほどが経っていた。 最初こそは気持ちの整理がつかず、なにも手につかないままぼんやりと過ごしていて、この蔵にもなんとなく近寄れないでいた。けれど、いつまでも思い出に縋ってぼんやりしているわけにもいかなくて、とにかく思い出さないように、意識しないように色々なことをして気を紛らわしていたおかげかここ数日でようやく蔵にも足を踏み入れられるようになった。 時が過ぎるのがあまりにあっという間で驚くけれど、これだけ日が経っていればそろそろ以前の生活にも戻れているような気がしてくる。 この調子で頑張らなくちゃ。私はもう戦国時代とは関わりがないのだから。この時代で、生きていくしかないのだから。 ――そう思っているのに、分かっているはずなのに…心のどこかでは、殺生丸さまがいつか迎えに来てくれるかもしれない、なんて淡い期待を抱いているところがあった。忙しくしていても、それだけは払拭できなかった。 けれどそれはいつまで経っても叶わなくて、彼らの姿を見ることも、あの不思議な風が巻き起こることもないまま。戦国時代と現代を繋いでいる地下室への戸は、あれから一度も開かれることなく固く閉ざされ続けていた。 …もしかしたら、未練がましく思っているのは自分だけなのかもしれない。殺生丸さまたちは私がいなくなったことなんて気にしていなくて、むしろ、足手まといがいなくなったと清々しているかもしれない… 考えたって仕方がないのに、一度よぎらせてしまったそんな思いは私の胸の奥に重く居座って、戸へ手を伸ばすこともできなかった。 「……」 箒の柄を握り締めたまま、深く俯いてしまう。入り口から差し込む光に作られた私の影が、地下への戸を覆い隠すように大きく伸びる。 そんな時、不意にジャリ…と足音が立てられる。それに釣られるように振り返ってみれば、開けっ放しの入り口の端からおばあちゃんが顔を覗かせる姿があった。 「風羽ちゃん。どうしたんだい? こんなところに立ち尽くして…」 「あ…な、なんでもないよ。玄関の掃き掃除が終わったから、ここもしておこうかなって…」 少し心配そうな顔をするおばあちゃんに慌てて笑顔を見せながらそれらしい言葉を並べる。 現代に帰ってきてからどうしても思いに耽ってしまってぼーっとすることが増えたから、そのたびにおばあちゃんが心配するようになってしまっていた。だから心配を掛けないようにいつも通りを振る舞って誤魔化そうとする。 そんな私におばあちゃんはなにも言わなかったけれど、ゆっくりとこちらへ近付いて隣に並ぶと、私の足元を見ながら「風羽ちゃん」と口を開いた。 「覚えているかい? 小さい頃、あたしが誤って風羽ちゃんをここに閉じ込めてしまったこと」 「え…?」 いつもと同じ穏やかな顔で私を見上げながら言うおばあちゃんに小さな声が漏れる。 閉じ込められた? 私が…? おばあちゃんの言葉とは裏腹に私の記憶にはそんな出来事は残っていなかったのだけど、懐かしそうにするおばあちゃんを見るに、どうやらそれは本当にあったことのよう。けれど全然思い出せない私が小さく首を振りながら「覚えてない…」と呟くと、おばあちゃんはふふふ、と控えめに笑った。 「もしかしたら、あまりの怖さにショックを受けて忘れてしまったのかもしれないねえ。あの時の風羽ちゃん、本当に怯えて大泣きしていたから」 「そ、そうなの? それっていつのこと…?」 「あれはそうだねえ…五歳…いや、四歳の時だったか…」 そう口にするおばあちゃんはしわしわの手を握りながら地下への戸に視線を落とす。そうして語られたのは、当時のお話だった。 ――おばあちゃんはその時、いまと同じように定期的な蔵の掃除をしていたそう。その頃はまだ足腰もそれほど弱っていなくて、地下の掃除まできちんとしていたんだとか。 だから掃除をしている間、地下への戸を開けっ放しにしていたみたいなのだけれど、おばあちゃんが目を離している隙に私が地下へ入ってしまっていたという。けれどおばあちゃんはそれに気が付いていなくて、掃除も終わったからと特に確認もしないまま戸を閉めてしまった。 そうして蔵を離れたおばあちゃんが姿の見えない私を捜していると、蔵の方から大きな泣き声が聞こえて。大慌てで戻ったのを覚えているよ、とおばあちゃんは困ったように笑いながらこぼしていた。 相当怖かったのか、私の泣き方はとても激しかったという。暗闇に閉じ込められたからだけではない、なにかもっと怖いめに遭ったんじゃないかと思うくらい泣き喚いていたんだとか。 けれど地下には特に異変もなかったようで、そんなに怖い思いをさせてしまったのかと思ったおばあちゃんはずっと私に寄り添ってあやし続けてくれていたという―― 「けれど…風羽ちゃんはそれ以来暗闇を一層怖がるようになってしまったから、本当に悪いことをしたとずっと思っていたよ」 「…そう、なんだ…そんなことが…」 ゆっくりと、申し訳なさそうに肩を落としながら語られる言葉にうわ言のように呟く。 当時のことを詳しく聞いたらなにか思い出すかもしれない、と思って記憶を探りながら耳を傾けていたけれど、どうしてか一向に思い出すことができない。少し、ほんの少しだけなんとなく思い出せそうなところがあったけれど、それを手繰り寄せようとした途端なぜだかゾクリとするような悪寒がちらついて、深く探ることができないような感覚があった。 ――まるで、思い出すことを拒絶しているかのよう。 どうしてそんな感覚が湧き上がってくるのかは分からないけれど、きっとおばあちゃんの言っていることは本当なんだろうと思う。 知らなかった…私が蔵の地下室に入ったことがあったなんて。でも、これで分かった。戦国時代から戻ってきた時にどうして地下室に既視感を持ったのか… あれは私が覚えていなかっただけで、小さな頃にここに入ったことがあったからだったんだ。 実感は湧かないけれどほんのりと理解しては、地下室への戸に視線を落とす。すると私のその様子を見ていたおばあちゃんが私の顔を覗き込むようにして言った。 「地下室は…まだ怖いかい?」 どこか慎重に、それでも優しく問いかけられる。その声に一度おばあちゃんへ顔を上げたけれど、私はまた考え込むようにそっと戸へ視線を落とした。 確かに地下室は少し怖い。怖い、けれど…それは暗闇だとか、覚えていないなにかへの恐怖とはまた違うものに対する気持ちみたいだった。それよりも重く胸に居座って私の不安を駆り立てるのは、この戸の向こう。行き着く先。 向こう側が、もう戦国時代と繋がっていないかもしれないこと。殺生丸さまとの繋がりが失われてしまっているかもしれないこと。それを確かめることが、なによりも怖かった。 (もう終わりを告げられたはずなのに…) 理解していながらも納得できないでいる矛盾した感情に胸が苦しくなって、ぎゅ…と箒の柄を握り締める。持ち上げられないでいる視線は地下室の戸を捉え続けていて、開くことのできないそこを未練がましく見つめることしかできないでいた。 そんな私を見兼ねたのか、おばあちゃんがそっと私の手にしわだらけの小さな手を重ねてくる。 冷たい表面温度、それとは裏腹に包み込むような温もりを感じさせられた私がようやく顔を上げると、おばあちゃんは普段通りの柔らかい微笑みを浮かべながら言った。 「風羽ちゃん、少し気分転換でもしないかい? そうだ、一緒に買い物に行こうか」 寄り添うような声音で、いいことを思いついたと言わんばかりに優しく笑みながら向けられる言葉。お買い物なんていつもしていることでなにも特別ではないというのに、おばあちゃんはとっておきとでも言うように私の手を握る。 …そんなに思い詰めた顔をしちゃっていたのかな。そうよぎらせた私はなんだか申し訳ない気持ちになって、小さく唇を結んだ。 未練がましく考えちゃだめ。忘れるって決めたんだから。自分を律するようにそう意識し直すと、短く返事をしながら努めて笑ってみせた。 ――そうして辿り着いたのは、いつも買い出しに行くところとは違う少し大きなショッピングモールだった。どうしてあまり来ないこっちに来たんだろうと思っていると、おばあちゃんは私に「食材を見ておいて」と言って一人どこかへ向かってしまう。 なにか用事でもあったのかな…。分からないけれど、すぐに済むからって言っていたし言われた通りに食材を見に行くことにした。 …晩ごはん、なににしよう。おばあちゃんはなにか考えてたのかな…そんなことを思いながら食料品売り場の入り口付近をあまり離れないように歩いていると、ふとすぐそこの特設コーナーが目に留まった。 それは『アウトドア特集』と書かれたポップが目立つコーナー。近付いて見てみるとキャンプやバーベキューに使われるようなアウトドア用品がたくさん並べられていた。 テントやチェア、バーベキューグリルのような大きなものから、敷物や食器、ナイフやランタンなどの小さなもの、便利なものが数多く取り揃えられている。 なんとなく気を引かれるままに足を向けてみては、ランタンを手に取って見回してみた。 (これソーラー充電できるんだ…電池とかいらないなら、戦国時代でも使えそう…) 向こうは街灯なんてなくてすごく暗かったから。これがあれば森の中なんかの暗いところでも使えるしいいかも。あと寝袋かブランケットなんかもあるとよさそう。大体いつも野宿だし、お布団なんてなかったから…。 あ、この折り畳みのナイフも、枝を集める時とかいざとなったら護身用にとか、使い道が多そうでいいな。 他には…携帯食料もあるんだ。向こうじゃご飯を用意するのも大変だし、カップ麺とか持っていくのもいいかもしれない。あ、でも…お湯を沸かすためにガスコンロとかボンベとか、ほかにも色々必要なことを考えるとちょっと大変かも…。ほかに良さそうなもの捜してみようかな… 「風羽ちゃん。なにか欲しいものでもあったかい?」 「!」 不意に声を掛けられてはっとする。振り返ってみると、いま受け取ってきたのかクリーニング店の袋を持ったおばあちゃんが傍にいた。 もしかしてここに来た用事ってそれだったのかな…。そんな思いを抱えると同時に、自分が今の今まで考えていたこととの“時代の差”に思わず「あ…」と小さな声が漏れそうになった。 私いま…戦国時代のことばかり考えてた…。ここは現代で、もう戦国時代のことは忘れようとしていたはずなのに、考えないようにしようと思っていたはずなのに…。 無意識のうちに向こうでの生活を考えていたことに気が付いては、思わず俯いてしまいそうになりながら手に取っていた商品を棚に戻した。 「だい、じょうぶ…なんでもないよ…そ、それよりおばあちゃん、今日の晩御飯は…? なにか考えてた?」 すぐさま切り替えるように、逃げるようにスーパーへ足を向けながらおばあちゃんへ問いかける。するとおばあちゃんは少し口を結んで黙り込んだけれど、やがて「そうだね…」と言いながら同じように足を踏み出した。 そうしてそのあともおばあちゃんに「食べたいものはあるかい?」「欲しいものは?」と何度も尋ねられるけれど、特に答えられるものもなくて。「大丈夫だよ」と笑いかけながら、普段と比べて代わり映えもなくお買い物を済ませた私たちは茜色の帰路をゆっくりと辿った。 ――帰宅後、私は残していたお風呂掃除を、おばあちゃんは晩ごはんの支度をしていた。それが終わって食卓に着く頃には、外はもう日が落ちてあっという間に暗くなっている。 それを台所の窓から確かめては、おばあちゃんが用意した晩ごはんに「いただきます」と手を合わせた。するとおばあちゃんも同じように手を合わせて、私たちはいつも通りの食事を始める。 今日のおかずは久しぶりに焼き魚だった。シンプルだけれどちゃんと味付けをされたそれは、一ヶ月ほど前まで食べていたそれとは比べものにならないくらい美味しい。 けれど、だというのに――私は向こうで食べた、味付けもしていない焼き魚の味を思い出していた。恋しく、思ってしまっていた。 「……」 たまらず、箸を止めてしまう。するとそんな私の様子に気が付いたようで、おばあちゃんが不思議そうに首を傾げた。 「どうしたんだい風羽ちゃん。お魚、美味しくなかったかい?」 「え…あ、ううん違うの。美味しいよ、すごく…」 不安げに問いかけてくるおばあちゃんに笑いかけるけれど、言い表しがたいこの気持ちについ顔を下げてしまう。 ただ焼いただけのお魚より、おばあちゃんがちゃんと下処理して味付けしてと手間をかけたお魚の方が美味しいに決まっている。けれど、どうしても忘れられないあの味が邪魔をして、思うように箸を進められなかった。 ――時間が経てば、きっと忘れられる。これまでの生活に戻ることができる。 そう思っていたのに、時間が経てば経つほど、むしろ私の中の思い出は色濃く焼き付いて忘れられなくなっていく。恋しくなっていく。もう一度と、求めてさえいるような気がしてくる。 (どうして…こんなに忘れられないんだろう…) 向こうで私がやるべきことなんて、もうないはずなのに。元々私の役割なんて特になくて、ただ殺生丸さまたちについて行かせてもらっていただけ。現代に帰れたらそれでいいはずだったのに。 それなのに、どうして向こうでの生活ばかり思い出してしまうんだろう。 どうしてあの人たちを恋しく思ってしまうんだろう。 どうして、なにかをやり残している気がするんだろう―― 「風羽ちゃん…」 不意にこぼされた、おばあちゃんの心配そうな声ではっとする。 目の前の景色が歪んでいた。テーブルにいくつかの水滴が落とされていた。私は知らず知らずのうちに、涙をこぼしていた。 「あ…ご、ごめ…ごめんね…なんでもないの…なん、でも…っ」 慌てて取り繕おうとするけれど、込み上げてくるものは止まらなくて。顔を隠すように深く俯いてはポロポロと落ちる涙を必死に拭おうとした。 泣くつもりなんてなかったのに。戦国時代を忘れられない気持ちと、現代に帰ることができた嬉しさ、けれどそれを素直に喜べない気持ち、それゆえの、大好きなおばあちゃんへの申し訳なさ――色んな気持ちが綯い交ぜになって、気持ちに収拾がつかなくなってしまって。どうすればいいのか分からず、勝手に涙が溢れ出していた。 そんな私に、おばあちゃんはなにも言わなくて。ただ静かに席を立つと、私の傍まできてそっと背中をさすってくれる。 それは小さい頃から私が泣いてしまうたびにしてくれたこと。その優しさが温かすぎて、眩しすぎて。いつしか私は、小さな子供のように声を上げて泣いていた。 back