29
ピチョン…と水滴が落ちる音がはっきりと響く。それくらい静まったお風呂の中で、私はお湯に浸かるままぼんやりと壁のタイルを見つめていた。
「……殺生丸さま…」
小さく、もう“会えない”人の名前を呟く。どうしても脳裏に甦ってしまうのは、数時間前に直面した出来事だった――
「風羽、ここで別れだ」
「え…」
私を追って現代に来た殺生丸さまが唐突に突きつけてきたのは、別れの言葉。それに、私は言葉を失ってしまった。
冷静になってみれば、殺生丸さまがそう言われてしまうのは当然のこと。だけれど、その時の私にとってはあまりに思いがけない言葉で、理解できない気持ちにたまらず瞳を揺らしてしまっていた。
「え…あ…あの、どうして…お別れ…なんですか…?」
「元より、お前は帰る手段が見つかるまで私たちに同行させろと言っていたはずだ。その目的が果たされた以上、お前が私たちといる必要はないだろう」
躊躇いも、容赦もなく殺生丸さまの口から正論が述べられる。分かっていた、理解はできた。なのに私の心は焦りに満ちたように落ち着かなくて、目尻に熱を帯びてしまうような気さえしてくる。
声が、息が詰まりそうになる。けれどこのまま黙っているのも嫌で、必死に繋ぎ止めるような言葉を捜した。
だと、いうのに…
「……」
なにも、出てこない。口を開くけれどその奥からはなにひとつ捻り出すことができなくて、いつしか視線を落としてしまいながら立ち尽くしていた。
本当は、言いたいことはたくさんあった。けれどどれも殺生丸さまに言い負かされてしまうことが分かり切っていて、否定されることが分かり切っていて口に出すことができなかった。
それに焦りながら口を閉じて、また開いて、唇を小さく噛んで。なにも言うことができないまま、やるせなさにギュ…と手を握り締めた。
殺生丸さまは、そんな私の言葉を待つようにそこにいてくれた。けれどもう待ちくたびれたのか、やがて言葉もなく静かに踵を返してしまう。
「! 殺生丸さまっ」
「風羽。なにを迷っているかは知らんが、お前はもう私たちに付き従う必要はない」
背を向けたまま顔だけを振り返らせて殺生丸さまは言う。
その真っ直ぐな言葉が、ナイフのように鋭く私を刺す。胸にズキ…と微かな痛みを覚える。それくらいなにか感じるものが、訴えたいことがあるはずなのに、私はなにも言えないまま揺らぐ瞳で殺生丸さまの横顔を見つめていた。
けれど、私の視線を振り払うようにとうとう顔まで背けられてしまって、殺生丸さまは地下に繋がる階段へと足を踏み入れてしまう。
「あとは好きにするがいい」
振り返ることもなく、抑揚のない声で端的に呟かれる。同時に閉じられた戸が別れを体現しているような気がして、胸の奥がひどく冷えるような感触を覚えると同時に慌てて戸へ駆け寄った。すぐさま持ち上げて中を覗くけれど、灯りのない地下ではその姿を探せない。
それに一層焦燥感を駆り立てられた私は暗闇への恐怖も忘れて足を踏み入れようとしたのだけれど、冷たい闇の奥であの不思議な風が巻き起こるのを感じるとともに、そこにあった気配も音もなにもかもが連れ去られるように消え去ってしまった――
――そうして、殺生丸さまとのお別れを迎えてしまった私は再び様子を見にきた日暮さんに連れられて自宅へと戻って。気もそぞろであまり話に身が入らなかった私に代わって、それを察したらしい日暮さんがこれまでの辻褄が合うようにおばあちゃんへ説明をしてくれて、ひとまずは元の生活を送れるようになった。
それから日暮さんは帰られて、私はおばあちゃんに勧められるままお風呂に入り、いまに至っている。
本当は向こうのことを早く忘れて、気持ちを切り替えなきゃいけないのかもしれない。けれど、こうして一人になるとどうしても思い出して、考え込んでしまう。
忘れたくない…。たくさん怖い思いも、死ぬ思いだってしたけれど、あの日々は忘れたくなかった。
「……」
やるせない思いに小さく唇を結ぶ。また気持ちが落ち着かない感覚に陥り始めているのを感じてしまっては、パシャ、と顔にお湯を被った。
だめ。このまま一人でいると際限なく考えてしまう。そう思った私は湯船を出て、考え込んでしまうのを必死に抑えながらお風呂をあとにした。
そうしてゆっくりと廊下を歩いていく。おばあちゃんがいる居間に行けば少しは気が紛れるかもしれない。そんな思いで廊下の板目を見つめながら歩いていたのだけれど、ふと、差し込む光に足を止めた。
顔を上げた先は、縁側の方。そこから差し込む月明かりに誘われて、私は無意識のうちに縁側へ向かって足を踏み出していた。
ギシ…と床板が軋む。その音を聞きながら縁側へ出た私は、静かに光を注ぐ月を見上げた。
人工灯の明かりに覆われながらも、確かに光を放つ月。戦国時代にいた時に見たそれはもっと明るくて綺麗で、なにより、特別な感じがした。
それもきっと、隣に“月のようなあの人”の存在があったから。あの人の存在が、月をより魅力的に見せていたから。
そう考えてしまっては、胸の奥がキュ…と締め付けられるような感覚があって。たまらず唇を結んだ私は、苦しくなる胸を落ち着かせるようにそっと押さえ込んだ。
(どうしてこんなに…寂しいんだろう…)
似て非なる月を見つめながら、微かに顔を歪めた。
* * *
風羽の
故郷に繋がる戸をあとにし、再び森を抜けるべく歩んでいく。気が付けば沈み始めていた太陽もその姿を山の裾野に隠し、朱に染まっていたはずの空も紺碧を広げていた。
それを視界の端に見ながら、足を進め続ける。
背後に聞こえる足音はひとつ。それを鳴らす邪見へは、戸の下にあった階段が
風羽の故郷に繋がっていたこと、
風羽はそこへ置いてきたことをこちらへ戻った際に教えてやっている。それに邪見は
「別れもなく行きおったとは…。風羽はずっと勝手で、なんだかあやつに関することはおかしなことばかりでしたな」
そう言いながら不可解そうな顔を見せていた。
同等のことは私も感じた。生まれ育った時代の違い、人間でありながら妖気を秘める体、風を操るという人間離れした能力、あの食わせ者と同じ臭い、そして
風羽のために現れたような戸――それら全てが不可解でありながら結局原因なども分からず、本当におかしな人間の女であったという記憶だけが残された。
――しかしそれももうどうだっていい。
風羽に会うことはもうないのだ。
だからこそあの不可解な戸を見捨てるよう歩いていた。だが、邪見がまたあれのことを思い出していたのだろう。「それにしても、思えば
風羽の奴…」と口火を切っては思い返すような仕草を見せ始めた。
「ついて行かせろと言いだした時はすぐにくたばるだろうと思っておりましたが、想定以上にしぶとくついて来ていましたな」
「…なにかと悪運が強かったのだろう」
「そのようですなあ。気が弱いくせに変にたくましいところもあって、本当におかしな奴だ」
理解できないとでも言うように邪見がため息を吐きながら、
風羽を見るようにわずかに振り返る。
確かに
風羽は気弱でありながら“もう嫌だ”などと諦める姿は見せなかった。己一人で生きていけないことを分かっていたというのもあるのだろうが、どちらかと言えばそれは
風羽自身の強さから見せるものであったのだろう。
それを思えばあいつは本当に見ていて飽きない、目の離せない変わった奴であった。
そう感じながら足を進めていれば、不意にこの先から妖怪の臭いを感じた。それと新しくはないが、人間の血の臭い。
どうやらこの先で人間を喰った妖怪がいるらしい。それを悟っては「
風羽」と口にした。
だが、それに返ってきたのは邪見の「え」という短い声。
「殺生丸さま、
風羽の奴はもうおりませぬが…」
正気を問うような邪見の声で我に返る。
…私はいま、
風羽を呼んでいたのか。無意識のうちに、
風羽をここに待たせようとしていたのか。邪見の声でそれに気が付いては、己を疑うように立ち止まっていた。そうすれば背後から邪見がこちらを覗き込むように歩み寄ってくる。
「まさか殺生丸さま…今の今あったことを、もうお忘れで?」
「……」
「お゙ゔっ」
どことなく馬鹿にしたようなその口振りが気に食わず、どか、と邪見の頭を蹴り飛ばした。
…そうだ、
風羽はいないのだ。ならばわざわざ雑魚妖怪を殺しに行くような手間もいらん。そう考え直し邪見を捨て置くように歩いていけば、慌てて追ってくるそれは何度も頭を下げながら謝罪の言葉を繰り返した。
やがてその邪見は微かに頭を掻きながら、自分のあとについて来る者を見るよう振り返る。
「しかし…
風羽の奴がいないのは不思議な感じがしますな。長く過ごしたわけでも、あやつが騒がしい奴だったわけでもなかったというのに…」
その言葉に釣られるよう、同じ背後へと視線をやる。
邪見の言う通り、
風羽は騒がしい奴ではなかった。なにかと手を焼かされたが、どちらかといえば存在感の薄い、大人しい奴であった。
――だというのに、あれがいないだけで嫌に静かだと感じる。なにかが物足りないと、違和感を抱いてしまう。
あれの面倒を見ることがないだけで、こうも変わるとは。知らぬ間にそれほど手を焼かされていたということか。それを思いながら歩みを進めていれば、やがて鬱蒼と続いていた森の出口が見えてきた。変わらずそこへ向かい、森を抜ける。
途端、さやかな月の光が降り注いだ。森との境界線を描くように木々の影を濃くさせる光。それに誘われるよう、光の源である月を静かに見上げた。
「……不可解な感覚だ…」
胸に満ちるそれを言葉にする。まるで私の表しがたい心情を映したような大きく欠けた月は、それでも自己を主張するように煌々と輝いていた。
back