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ポツ、ポツ…と雨粒が窓に当たる音が聞こえる。それに起こされるよう目を覚ますと、広げられていたはずのご飯が片されたテーブルが見えた。ゆっくりと体を起こしてみれば、肩からブランケットがずり落ちそうになる。それを止めるように手に取っては、辺りを見回そうとした視界におにぎりが乗ったお皿とおせんべいやまんじゅうが入った籠、チョコレートの大袋なんかが並べられているのが映った。
私がご飯もまともに食べないまま泣き疲れてここで寝ちゃったから、おばあちゃんが置いてくれたに違いない。それを察して小さく唇を結んだとき、ゆったりとした足音が近付いてくることに気がついた。
「おや、目が覚めたかい。お腹がすくだろうと思って、食べられそうなものを置いておいたんだけど…食べられる?」
「うん…ありがとう、おばあちゃん…」
私がそう返せばおばあちゃんは「じゃあゆっくりお食べ」と言いながら私の向かいに座り込んだ。確かにお腹は空いているし、食べないとおばあちゃんも心配するだろうと思っておにぎりのお皿を引き寄せる。そこにかけられたラップを外しておにぎりを手に取ると、まだほんのりと温かさが残っているのが分かった。
おばあちゃんのおにぎりは冷めていても美味しい。だから温め直すこともせず、私は手にしたおにぎりをそのまま小さく口に含んだ。
「足りなかったら言ってね。そうだ、トメさんがくれた羊羹を持ってこようか」
「ううん、大丈夫だよ。ありがとう。…それと…ごめんね、心配かけて…」
こうして傍で見守ってくれていることから、おばあちゃんがずっと私のことを気にかけていたのが分かって、より申し訳ない思いが胸のうちに居座ってしまう。
けれどおばあちゃんは嫌な顔ひとつせず「いいんだよ」と微笑んで、テーブルに置いてあった急須にポットのお湯を入れては二つの湯飲みにそっとお茶を注いだ。そのうちのひとつを私の方へ差し出すと、おばあちゃんは自分の湯飲みを一口煽って、しわだらけの優しい手をそっとテーブルの上で重ねる。
「
風羽ちゃん。日暮さんのところでアルバイトしていたという話なんだけど…あれは、あたしを心配させないための嘘なんだろう?」
唐突に、優しく向けられた声にドキ…と鼓動が響く。思わず目を丸くしておばあちゃんを見るけれど、その表情は至って普段通り。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもないその様子に真意を読み取れない私は、ただ狼狽えるように口元に持ち上げていた手をテーブルへ降ろしていた。
「え…な、なんで…?」
思わずどこか誤魔化すように問いかける。おばあちゃんはもう確信を持っているのだろうか。いや、そうじゃなかったらこんな風に聞かないはず。でも、だとしたらなんで分かったんだろう。
現代に戻ってきて、日暮さんがそういうことにしようと言って従ったあの日から、あまり詳しいことは話していないし戦国時代のことを漏らしてしまったりもしていないはず…。おばあちゃんに嘘だと思われるようなことは言っていないはずだった。
なのに、どうして…
バレてしまったという焦りや分からない原因への不安に揺れてしまう視点をテーブルに落とす。するとそれを見ていたおばあちゃんが少し慌てた様子で小さく両手を横に振った。
「ああ、違うよ。怒っているわけではなくてね、ちゃんとお話しがしたいと思っただけなんだよ」
「話…?」
すぐさまそう説明するおばあちゃんに顔を上げてみれば、おばあちゃんは「うん」と短く返事をしながらいつものように微笑んでくれる。
その様子から、本当に話がしたいだけなんだろうというのがよく分かる。それを理解してはもう誤魔化すのも野暮かもしれないと思って、正直に白状することにした。
「おばあちゃんは…なんで、嘘って分かったの…?」
「そりゃあ分かるよ。これまで
風羽ちゃんが私になにも言わずにどこかへ行ってしまうことなんてなかったからね。きっとなにか言えない事情ができたんだろうと思っていたよ」
おばあちゃんはそう言うと「何年一緒にいると思ってるんだい?」と続けながら昔よりもずっと細くなった目をより細めて笑う。
おばあちゃんに隠し事は通用しない。それを痛感させられては温かな気持ちを覚えると同時に、隠してしまっていたことへの罪悪感がじわりと込み上げてきた。
けれど私がそれについて謝るよりも先に、おばあちゃんは手を摩りながら言葉を続ける。
「あたしはむしろ、
風羽ちゃんが内緒にしたいと思えるくらい大事なことを見つけてくれたんだって嬉しかったんだよ」
「え…嬉しかった…?」
「そうだよ。
風羽ちゃんは昔からいっつもあたしの後ろに隠れてばっかりで、自分のことなんてさっぱり主張してくれないんだもの。そんな子がうちに帰ってこないくらいのめり込む大事なことができたんだろう? そりゃあ嬉しくもなるよ」
そう言いながらおばあちゃんは大らかに笑う。
本当は帰りたくても帰れなかっただけなのだけれど…でも、おばあちゃんの言う通り…大事なことに間違いはないのかもしれない。それくらい、私の中では戦国時代での日々が――殺生丸さまたちの存在が大きなものになっている気がしたから。
それを実感しては自然と湯飲みを持つ手に力が籠もるような気がして、私は緩やかに波紋を広げるお茶を静かに見つめていた。
するとそんな様子を見ていたおばあちゃんがふう、と小さく息をつくと、「
風羽ちゃん」と改めるように私を呼んだ。その声に、ゆるりと顔を上げる。
「あたしには詳しくは分からないんだけれど…
風羽ちゃんはそこにお別れをして…でも、どうしても忘れられずにいるんじゃないのかい?」
「……うん…」
なんでも見抜いてしまうおばあちゃんの確信を突いた言葉に、私は思わず唇を強く結んでしまいながら頷いてみせた。
あの日から一度も忘れたことはない…ううん、忘れたくなかった。例え殺生丸さまに別れを告げられているとしても、忘れなきゃと考えないようにしていても、ふとした瞬間にあの日々の思い出が溢れて仕方がなかった。
それはいまも同じ。意識してしまったがゆえに甦ってきた光景の数々が頭の中を埋め尽くしてしまって、泣きたくなんてないのに勝手に目頭が熱くなって視界がじわりと歪み始めていた。
咄嗟に隠すように涙を拭うけれど、それは抑えきれなくて。それを見たおばあちゃんはわざわざ私の隣に座り直すと、「よしよし、大丈夫だよ」と言いながら優しく背中をさすってくれた。そうしてゆっくりと撫で下ろすまま、私の手を包み込むように握って言う。
「
風羽ちゃんは、どうしたいんだい?」
その言葉に、思わず視線を上げた。そこに見えたのは真っ直ぐに私を見つめるおばあちゃんの顔。
私の本当の気持ちを確かめたいというおばあちゃんの気持ちが痛いほど伝わってきて、けれど、それでも私は燻ぶる思いを整理できず顔をしかめたまま口を閉ざしていた。
そんな時、おばあちゃんが不意に「ちょっと待っていてね」と囁きながら席を立つとその足を違う部屋へと向けてしまう。
一体どうしたんだろう。状況が分からなくて、おばあちゃんの背中を追うように姿が消えた廊下の方を見つめていると、おばあちゃんは摺り足の音を鳴らしながら戻ってきた。
その手には今日受け取ってきたクリーニング店のビニール袋。それを持ったまままた私の隣に座り直すと、その袋の中から一着の洋服を取り出した。
「! これ…」
「
風羽ちゃんがあの日着ていた服だよ。ずいぶん傷んでいたけれど、少し手直ししてクリーニングに出していたの」
そう言いながら渡された洋服は綺麗に畳まれて透明なビニール袋に包装されている。確かに綺麗になっているけれど、おばあちゃんの言う通りあちこちに擦れや破れを補修した傷みが見られた。
こんなに傷んでいたなんて気が付かなかったけれど、ところどころ、覚えのある傷がある。これは私が足を踏み外した時に枝で引っ掛けてしまった傷、こっちは小さなネズミの妖怪に噛まれてしまった傷…ここの傷は妖怪に襲われそうになった時にその爪が掠ってしまった傷だっけ…。
――その全部が、殺生丸さまに助けてもらった出来事。足を踏み外した時も、ネズミの妖怪や大きな妖怪に襲われそうになった時も、全部。
甦ってくる数々の思い出に胸が詰まるような感覚が徐々に込み上げてくる中、透明な袋越しに服の傷みをなぞってしまう。
「
風羽ちゃん…これを見ても、まだ自分がどうしたいのか分からないかい?」
改めて問いかけてくれるおばあちゃんに胸の奥が震える。真っ直ぐ向けられたその目に、優しく包み込みながらも心の芯の部分まで見透かしてしまうような澄んだその目に見つめられては、誤魔化すことも取り繕うこともできない、私の本当の気持ちを掬い出されてしまうような気がして。
込み上げてきたものをこぼしてしまうように、小さく言葉を紡ぎ出した。
「私は…本当はお別れなんてしたくなかった…でも、私たちが一緒にいるのはそこまでだって、元々約束もしていたし…たくさん迷惑をかけたから、嫌だってわがままは言えなくて…それにおばあちゃんのことだってずっと心配で、放っておけなくて…だから、向こうのことはもう諦めて、早く忘れようと思ってたの…でも…」
どうしても、忘れられない。
最後に浮かんだ言葉を口にすることはできず、ただやるせなさに唇を結びながら溢れるままに涙をこぼした。そんな私におばあちゃんは変わらず背中をさすってくれながら、うんうんと頷いて話を聞いてくれる。
「
風羽ちゃんはその人に本当に大事にしてもらっていたんだね。あたしのことなんて気にしないで、
風羽ちゃんの好きなように、思うようにすればいいよ」
「だめ…やっぱりおばあちゃんのことは心配だし、放っておけないよ…それに…もし向こうに戻ったとしても、拒まれるかもしれないし…」
おばあちゃんがこれだけお膳立てしてくれているのに否定するのも申し訳ない気もするけれど、どうしても不安が拭いきれなくて尻込みしてしまう。
事実、おばあちゃんのことを残していくのは忍びないし、面倒を見てくれると言っていた日暮さんに甘えてしまうのも申し訳ない。それになにより、殺生丸さまの元へ戻っても歓迎されるとは限らなかった。むしろ別れを告げられているため、それを無視して会いに行ったら拒絶されてしまうかもしれない。
そう思ってしまってはやっぱり無理だって否定しようとしたのだけれど、それよりも先に口を開いたおばあちゃんが「駄目だよ
風羽ちゃん」と私を律した。
「勝手に決めつけるのは駄目。拒むかどうかなんて、本人に聞いてみなくちゃ分からないんだから。試しに行ってみて、もし本当に駄目だったらその時に諦めればいいんだよ」
ぽんぽん、と背中を叩いてそう言い切ってしまうおばあちゃんに目を丸くする。その瞳が頼もしくて、自分は大丈夫だと言ってしまうその言葉も信じてもいいのかもしれないと、甘えてもいいのかもしれないとさえ感じてしまうほど凛とした強さが感じられた。
おばあちゃんはすごい。私の不安を取り除くだけじゃなくて、持ち合わせた強さを分けてくれるような気さえしてしまうのだから。
気が付けばあれだけ溢れていた涙も止まっていて、私はおばあちゃんにしっかりと頷きを返した。それを見たおばあちゃんはとても柔らかくにっこりと微笑んで、
「時間はいくらでもあるから、ゆっくり考えておいで」
そう言い残して席を立ったおばあちゃんは、スリッパの音を優しく鳴らしながらゆっくりと部屋をあとにした。
――おばあちゃんに背中を押されてから、私は縁側に座ってこれからのことを考え続けていた。
外は変わらず雨が降り続いていて湿った空気が肌にまとわりつく。そんな居心地の悪い中でも、私はそれが気にならないくらい考え込むまま膝を抱えていた。
おばあちゃんのこと。戦国時代のこと。殺生丸さまのこと。そして、私の本当の気持ち――それら全てが納得のいく答えに辿り着くまで、何度も何度も思考を重ねていた。
きっと全部が全部思う通りにはならない。どこかで妥協しなければいけないところだって出てくるはず。でもそれも仕方がないと、その中で私が優先したいこと、掴み取りたいことはなにかを探し続けた。
そうしてどれくらいの時間が経ったのかも分からなくなった頃、降りしきる雨はいつしかまばらになって、重く厚い雲にほのかな薄明かりが透け始めていた。
「殺生丸さま…」
あの人はいま、私がいない日々をどう感じているんだろう。
私は別れを告げられて離れ離れになってしまったこの日々が、とても空虚に感じて。それだけ、私の中の殺生丸さまという存在が大きくなっていたんだと初めて気が付いた。
殺生丸さまは…なにかを感じてくれていないかな。私がいないことを、少しでも物足りないと感じてくれていたら…ほんの少しだけでも、私がいた日々を思い出すことがあったら嬉しいのだけれど。やっぱり、難しいかな。
――確かめてみたい。あの人の気持ちを。
会いたい、あの人に。
「殺生丸さまに、会いたい…」
湧き上がる思いが口を突いてこぼれたその時、不意に視界が明るさを増して顔を上げた。
そこに見えたのは重く垂れこめていた雨雲を散らすように顔を覗かせ始めた大きな月。儚くもさやかに光を放つそれは世界を明るく照らして、庭に広がる水溜まりをほのかに輝かせていた。
その水溜まりに、屋根からの伝い落ちた滴が大きな光の輪を広げる。
それを静かに見つめていた私は立ち上がって、その足を居間へと向けた。
そうして襖を開けた先に座り込むおばあちゃんを真っ直ぐに見つめる。
「おばあちゃん…私、決めたよ」
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