28

懐かしい匂い。懐かしい景色。私の五感を刺激するすべてが懐かしさに満ちていて、なにも理解できないまま立ち尽くしてしまう。 もう一度見回した周囲には、見覚えのある家電や家具たち。いつの時代のものかも分からない書物や置物。やっぱり何度見直しても、それは私が生まれ育った家にあったもので、しばらくの間見ることも叶わなかったものだった。 どうして私は蔵にいるの。戦国時代にいたはずで、草原に見つけた戸の下を確かめていただけなのに…。 まさか…あの戸と蔵が繋がったとでもいうの…? …でも、これだけ時代が違う場所が、どうして… なにひとつ分からないことに思案していると、不意に蔵の扉が古めかしい音を立ててゆっくりと開き始めた。ついビク、と肩を揺らす。咄嗟に振り返った扉を見つめていると、徐々に広がっていく隙間の向こうからそっと覗き込んでくる人影が現れた。 「おや? 風羽ちゃん…?」 「お…おばあちゃんっ…!!」 不思議そうな表情をして覗き込んでくる姿に思わず声を上げてしまう。 それは、間違いなく私のおばあちゃんだった。私が戦国時代へ行ってしまう前となにも変わらない姿で、そこに立っている。それを目にした途端、私の中で感情が弾けてしまうような強い衝動があって、私は無意識のうちにおばあちゃんに駆け寄って膝を突きながら抱き付いていた。 「ごめんっ…ごめんねおばあちゃん…! おばあちゃんを一人にして…何日も家を空けてっ…」 ずっと言いたかった、謝りたかった。その気持ちが涙と一緒に溢れて仕方がなく、私はおばあちゃんを抱きしめるように縋りながら必死に言葉を紡いでいた。するとおばあちゃんは「おやおや」といつものように口にしながらそっと私の頭を撫でてくれる。 「どうしたんだい。泣くほど寂しかったのなら、帰ってくればよかっただろうに」 「だって…だって私っ…帰り方が分からなかったから…」 「ん? 風羽ちゃん、日暮さん家からお家まで道を忘れちゃったのかい?」 「……え…?」 唐突に出てきた誰かの名前に小さな声が漏れてしまう。 “日暮さん”って…? なんだか聞き覚えがあるような気がする名前、だけれど…どうして今、そんな名前が出てくるの…? 聞き間違いかと思ってしまうくらいおばあちゃんの言葉の意味が理解できなくて、おばあちゃんを見つめるまま動くことも喋ることもできない。戸惑いに、目を瞬かせるばかりだった。 すると不意に、外からおばあちゃんを呼ぶ声が聞こえてくる。その声に私が顔を上げると、同時におばあちゃんも声の方へ振り返って「はいはい、蔵にいますよ」と返事をした。 おばあちゃんのお知り合い…? そう思っていれば、おばあちゃんを呼んだ誰かがこちらへ近付く足音が聞こえてくる。 「おばあちゃん。蔵でなにか捜し物ですか…って、あら。風羽ちゃん」 入り口から顔を覗かせてそう声を掛けてきたのは中年の女性。その人は私を目にするなり少しだけ目を丸くさせたけれど、すぐに元の柔らかな表情に戻った。 誰、だろう…なんとなく見たことがあるような気がする…。けれど、やっぱり思い出せない。そのせいで私は返事をすることもできず、立ち上がることさえしないまま呆然とその人を見ていた。 するとその人は私に優しく微笑んで、こちらへ歩み寄ってくるなりそっとおばあちゃんの肩に手を添える。 「おばあちゃん、先にお家に入っててもらってもいいですか? 風羽ちゃんに話し忘れてたことがあって…」 「そうかい? じゃあ風羽、あたしは先に行ってるから、日暮さんにちゃんとお礼を言うんだよ」 おばあちゃんはそう言うと蔵をあとにして家の方へ向かってしまう。 おばあちゃんもこの人も、当たり前のように接しているのだけれど、この人は一体誰なんだろう…。おばあちゃんの口振りから、この人が“日暮さん”であることは分かるのだけれど…どうして私がこの人にお礼を言わなくちゃいけないの? 私の知らないところで、なにがどうなっているの…? 次々に生まれる疑問や戸惑いにたじろいでしまって言葉が見つからない。ゆっくりと立ち上がりながらも立ち尽くすまま、目の前の“日暮さん”を見つめていた。 するとおばあちゃんが家に入るのを見届けていたその人はこちらへ振り返ってきて、どこか困ったように少し眉を下げて言った。 「ごめんなさいね、突然のことでなにも分からないでしょう。私のことは覚えてる? 昔、何度かうちの神社…日暮神社で話をしたのだけれど」 そう言われて、ぼんやりと残る記憶の奥を探る。日暮神社…といえば、確か少し遠くにある大きな神社だったはず。小さな頃にお母さんやおばあちゃんと何度か行ったことがある。 ということは、この人は昔に会ったことがあるんだ。それは分かったのだけど、状況を把握するにはやっぱり情報が足りない。それを思いながら、私はそっと問いかけてみた。 「あの…それで日暮さんと私になにか関係が…? おばあちゃんの言っていることが、全然分からなくて…」 「そうよね。とりあえず、順を追って説明しましょうか」 そう言いながら日暮さんは優しく微笑んでくれる。そうして話してくれたのは、私が戦国時代へ飛ばされたあの日のことだった。 ――あの日、おばあちゃんはお買い物から帰ってきて私がいなくなったことにすぐに気が付いた。家中を見て回っても見つからなくて、でも定期健診があったから、ひとまずは戻ってくることを期待して仕方なく病院に行ったという。そこで、おじいさんの定期検診に付き添っていた日暮さんと出会ったのだとか。 元々おじいさんと仲が良かったおばあちゃんは話が弾んで、いつしか私の話になっていった。それでおばあちゃんが私がいなくなったことを話して、日暮さんが状況なんかを詳しく聞いたという… そこまでを話してくれると、日暮さんは「それでね、気になったのだけど…」と言って私を見た。 「風羽ちゃん。あなた、戦国時代に行ってなかった?」 「!!」 唐突に向けられる確信を突いた言葉に目を見張ってしまう。 なんで日暮さんがそれを…私がいなくなったという話だけじゃ、そんなこと思いつくはずもないのに。それを思うまま戸惑い狼狽えていると、日暮さんは「やっぱりそうだったのね」と口にして 「何百年も前に建てられたものに入って突然いなくなる…なんて、同じようなことが前にあったの。私ではないんだけどね。だから、もしかしてと思ったのよ」 「同じ、ことが…?」 日暮さんの言葉が信じられなくて、ただ目を丸くするばかりで復唱することしかできない。それくらい、衝撃的だった。 だって、私の他にこんな奇妙な体験をする人がいるなんて思わなかったから。それも、それほど遠くない場所で、知り合いとも言える人の関係者が同じ体験をしているなんて思わなかったから。だから、あまりの衝撃に驚くまま立ち尽くしていた。 そんな私の気持ちを察しているのか、日暮さんは変わらず寄り添うような穏やかな表情で言葉を続ける。 「それで…いつ帰って来られるか分からないし、おばあちゃんを不安にさせられないと思って、それとなく辻褄を合わせながら、風羽ちゃんがうちで住み込みのアルバイトをしていることにしたの。だからおばあちゃんは私にお礼を言いなさいって言ったんだと思うわ」 「そ、そうだったんですね…すみません、私がいない間に色々と…ありがとうございます」 「いいえ。風羽ちゃんも大変だったでしょう。怪我もなく帰ってきてくれてよかったわ」 微笑みながらそう言ってくれた日暮さんの言葉に少しはっとする。 私が大きな怪我もせず帰って来られたのは、同行を許してくれた殺生丸さまたちのおかげだ。そんな彼らを、私はなにも言わずに戦国時代に置いて来てしまっている。せめて報告くらいはしなきゃいけないのに… 「向こうにはまた行くんでしょう?」 不意に、投げかけられる言葉。まるで私の考えを分かっているかのようなその言葉に思わず「え…」と小さな声を漏らしてしまったのだけれど、日暮さんは嫌な顔なんてひとつもしないまま、にこ、と笑顔を向けてきた。 「大丈夫よ。おばあちゃんのことは私が見てるから、気にしないで」 「い、いえそんなっ…いつまでもお世話になるなんて…」 「きっと風羽ちゃんも、向こうでやることがあるんでしょう? 」 その言い方から、日暮さんが知っているという同じ境遇の人は戦国時代での役目があったんだと感じられる。けれど…私は? 私の役目、やることなんて、特には… そう思って口をつぐんでしまった時、日暮さんは私が悩んでいると感じたのか「またあとで詳しく話し合いましょうか」と優しく提案してくれた。そしていつまでもおばあちゃんを待たせられないからと、先に家の方へと向かっていく。 その足音がやがて家の戸の開閉音に変わると、私だけが残された蔵はとても静かな空間になってしまった。 (……また、戦国時代に…) 立ち尽くすまま思うのは、今後のこと。日暮さんに言われたこと。 私が戦国時代でやるべきことは、ただ現代へ帰る方法を探すことだけだった。それが達成できた今、私が戦国時代へ行く理由はもうない。現代へ帰ることができたと報告をして、それまでだ。 それを思うと、なんだか胸が締めつけられるような、苦しいような錯覚を抱いてしまう。脳裏に焼き付いた殺生丸さまの姿が、そこから離れない。 ――そんな思いを抱いたその時、突然背後でギ…と戸が開く音が聞こえた。 「! せ、殺生丸さま…!? どうしてここに…」 「お前が戻らんから様子を見に来た」 咄嗟に振り返ったそこには、端的な言葉を返す彼の姿。この時代にあるはずがない、今しがた考えていた彼の姿があった。まさか現代に殺生丸さまが来るなんて思ってもみなかったのだけれど、そもそも、殺生丸さまは邪見みたいに結界に拒まれなかったのかな…。 なんだか状況が飲み込めないような不思議な感覚の中で殺生丸さまを見つめていると、彼は蔵の中を見渡すように顔を上げて訝しげな声を漏らした。 「ここはどこだ」 「それが…私の家の蔵…現代なんです。どうしてかあの戸とここが…繋がった…? みたいで…」 「…帰ることができた…というわけか」 私の説明を聞きながらひとしきり見回した殺生丸さまは私を、私の向こうに広がる蔵の外を見つめられる。 殺生丸さまがわざわざ来てくださるなんて…心配、してくださったのかな。もしかしたら、連れ戻しに来てくださったのかな…。もし本当にそうだとしたら、私はまた戦国時代へ行ってもいいのかもしれない。 そんな淡い期待のような思いを抱いてしまいながら、殺生丸さまを見つめ返す。 ――けれど、彼が私に向けた言葉は、そんな期待とは相反するものだった。 「風羽、ここで別れだ」 back