27

あの日から、殺生丸さまは私たちの休息時を中心に一人でどこかへ行かれるようになった。いつもどこでなにをしているのかは分からなくて、殺生丸さまも「待っていろ」と言付けられるだけ。私と邪見は残されるたびに“なにかあったのかな?”とお互い首を捻るばかりだった。 ――そんなことが続いた、ある日。これまでと同じように休息中に出ていった殺生丸さまを待っていると、しばらくして彼がいつも通り私たちの前へ静かに降り立った。 けれどいつもと違ったのはそのあとのこと。これまでは戻ってくると「行くぞ」と言ってなにごともなかったように旅を再開していたのだけれど、今日だけはそれがなかった。代わりに―― 「風羽。わずかだが、お前と同じ匂いを感じる奇妙な戸を見つけた」 という声を向けられる。 いつもとは違う言葉、それも私に関することで、理解に遅れた私は「え…?」と小さな声を漏らすまま殺生丸さまを見上げていた。 奇妙な戸…? 建物とかでもなくて、“戸”…? それも、私と同じ匂いを感じるって…どういうことなんだろう。 そう考えた時、ほんの一瞬“同じ匂い”という単語にあの人の姿が甦りそうになった。けれど、殺生丸さまにそういった警戒の色は見えない。だからきっとあの人は関係がないのだろうと思うけれど… なんとか理解しようとあれこれ考えてみるけれど、情報の少なさや心当たりのなさに混乱は深まるばかり。おかげで、ただ戸惑うままに殺生丸さまへ視線を上げてしまうほかになかった。 そんな私を殺生丸さまは変わらず見下ろされていて、やがてその口をそっと開かれる。 「確かめてみるか」 私を見据えたまま、問うように向けられる言葉。 …もしかしたら、その戸が私となにか関係があるかもしれない。きっと殺生丸さまもそう感じたから、こうして私に教えてくださったはず。そう考えた私は小さく息を飲んで、 「…はい。お願いします」 意を決するように、そう口にしていた。 ――そうして、殺生丸さまが広げる尾に乗せられて辿り着いたのは開けた広い土地。若い緑の草がそよそよと揺れている閑静な草原だった。 もちろん初めて見る、私の知らない場所。…だというのに…どこか少しだけ、見覚えがあるような奇妙な感覚があった。 けれどなにか…なにかが足りないような、微かな違和感。 そもそも戦国時代に来て日が浅い私はこんな場所なんて見たことがないはずなのに、どうしてこんな不可解な感覚ばかり抱いてしまうんだろう…。つい深まる思考に立ち尽くしてしまいながらその景色を眺めていると、不意に背後から殺生丸さまが私を呼ぶ声が聞こえた。 それにはっとして振り返ってみれば、彼らはすでに歩き出していて。慌てた私がすぐさまその背を追いかけると、ほどなくして殺生丸さまはこの草原の隅のひっそりとした場所に足を止められた。 「これだ」 立ち止まるとともに落とされた短い声。それに釣られて足を止めた私と邪見は、殺生丸さまの背後からそっと彼の言葉が示す方を覗き込んでみた。 「あ…」 たまらず、小さな声が漏れる。顔を覗かせた視線の先に、確かに戸がひとつ地面に張り付いたように存在していた。草木に覆われて目立たないけれど、地面に直接設置されたようなそれは明らかに異質なもの。 どうしてこんなところにこんなものがあるんだろう…。それに…殺生丸さまはこの戸からわずかに私と同じ匂いを感じるって言ってたよね…。私には全然見覚えもなにもないのに、どうして… 理解のできない状況に、ただただ戸惑い困惑するまま立ち尽くしてしまう。そんな時、私の隣で同じように眺めていた邪見が「んー?」と唸りながら足を踏み出したかと思うと、そのままなんの躊躇いもなくとてとてと軽い足取りでその戸に近付いていった。 えっ、こ、恐くないのかな…。そう思ってしまうほど腰が引けている私とは裏腹に、邪見は戸の目の前まで寄ってはまじまじとそこを見回し始める。 「ふむ…妙な場所にはありますが、見たところなんの変哲もない戸のようですな。中を見てみればなにか分かるやも…でっっ!?」 「じゃっ邪見!?」 戸へ手を伸ばした邪見が突然弾かれるように尻餅をついてしまって、驚いた私はすぐさま彼の元へ駆け寄ってその体を支えた。見たところ怪我はしていないみたいだけれど…同じく驚いている彼は戸に触れた右手をぴくぴくと小さく震わせながら、怪訝そうな顔で戸を見つめていた。 「こ、この戸…結界が張られておる」 「え…結界…?」 彼の思わぬ言葉に眉をひそめて、私も続くように戸へ目を向ける。 けれどそれはどう見ても、特に変わったところのない普通の古びた戸。だというのにそこには、いま目の前で邪見が弾かれたように目には見えない結界が張られているという。 でも、どうしてこんな戸なんかに結界が…? そう思っていると、私たちの元まで歩みを寄せた殺生丸さまが戸を見据えるまま端的に言った。 「風羽。お前が試してみろ」 「えっ!? わ、私が、ですか…!?」 突然の思ってもみない指示に愕然として聞き返してしまう。けれど、どうやらそれは私の聞き間違いではないようで、殺生丸さまは静かに私の方へ視線を移しながら言葉を続けられた。 「恐らくこの戸はお前がこの世に訪れたことで現れたものだろう。お前ならば、中を確かめられるのではないか」 「そ、それは…」 淀みなく向けられた、当然とも言える説得。それに私はつい言葉を濁しながら逃げるように目を逸らしてしまった。 もちろん、殺生丸さまの言い分は理解している。私だって、殺生丸さまがこの戸を見つけたと教えてくださった時には、同じ匂いを感じると言われたこともあってもしかしたら私に関係があるのかも、と思った。 けれどいざ戸を目の前にしても既視感のようなものを抱くことはなかったし、心当たりだってない。そしてなにより、今しがた邪見が弾かれたところを見てしまったから、やっぱり怖くて近付くのを躊躇ってしまう。 どうしても私が確かめなきゃいけないのかな…。そんな思いでもう一度ちら…と殺生丸さまの表情を窺ってみるけれど、その視線は変わらず私に注がれるまま。お前が適任だと言わんばかりに真っ直ぐ見つめられ続けていた。 その視線が、無言が、私にずっしりと圧をかけているような気がして。次第に急かされているようにさえ感じ初めては、思わず「う…」と小さな声が漏れた。 「……わ…分かりました…私が行きます…」 見えない重圧に呆気なく負けてしまうと、私は観念したように肩を落として小さく宣言していた。 本当は怖いけれど、嫌だけれど…殺生丸さまに呆れられて見放されるのはもっと嫌だから、無理にでも覚悟を決めるしかない。そう思った私はそっと腰を上げて、戸に向き直りながらわずかに息を飲んだ。 だ、大丈夫…。結界もきっと身構えていればそれほど痛くないはず。邪見があんな風に尻餅まで突いちゃったのは、結界があるなんて思わなくて油断していたから…あるって分かっていれば、きっと大丈夫。大丈夫…! 必死に自分へ言い聞かせるように心の中でそう唱えながら、ゆっくりと戸へ近付いてみる。やがて手を伸ばせば触れられる距離にしゃがみ込んで、一度深呼吸をするべく意を決するように手を握った。 ――そんな時、不意に感じた風にドキ…と鼓動を響かせる。 咄嗟に視線を戸へ向けた。一枚板でできた戸と地面の隙間、その向こう。どうしてかそこから、懐かしい風が、匂いが、流れてきたような気がした。 「…おばあちゃん…?」 風に運ばれてきたほんの微かな匂いに声が漏れる。 まさか、そんなはずない。だってここは元いた世界とは全然違う。この下になにがあるのかなんて分からないけれど、おばあちゃんがいるはずがない。 でも…この匂いは確かに――大好きなおばあちゃんの匂いだ。 「どうして…」 信じられない思いに心臓が鼓動を強くする。あるはずがない、けれどわずかながら確かに感じられる匂いに否定ができなかった。どう考えてもおばあちゃんがここにいるはずがないのに、微かに流れてくる風が、運ばれてくる匂いが、この先におばあちゃんがいると伝えてくる。 あり得ない、頭ではそう分かっているのに、気が付けばあれほど感じていた恐怖心も忘れて戸の取っ手に手を掛けていた。ギ…と古めかしい音を立てながら戸を持ち上げると同時に後ろで声が上がった気がする。けれど私はただ目の前の戸だけを見つめたまま、砂粒や落ち葉なんかがパラパラとこぼれていくそれを最後まで持ち上げた。 目の前は真っ暗な穴。けれどどういうわけかそこには階段が伸びていて、底の見えない闇へと続いているようだった。計り知れない暗闇、だけれど、その向こうからわずかに流れてくる風は一層濃くおばあちゃんの匂いを運んでくる。 それに意識を捉われるまま、私は躊躇いもなくその階段へと足を踏み出していた。 その時背後でまた大きな声が上がった気がするのだけれど、私の耳には届かなくて。ただ暗闇を見つめながら、ゆっくりとその階段を下っていった。 ――次の瞬間、 「!? きゃあっ!」 どこからともなく現れた突風が私の体を強く包み込む。思わず目を瞑ってしまうと同時、まるで風に連れ去られるような浮遊感に襲われた私は体を縮ませて必死に耐えようとした。 ――けれどその風は、決して暴力的ではなかった。むしろ優しささえ感じるほど柔らかく支えられていて、私をどこかへ運んでいくかのように緩やかに流れていく。 そんな不思議な風がやがて解けるように弱くなっていくと、いつしか体の浮遊感さえ薄れていくのを感じる。そうしてそっと降ろされる感覚を味わい、足、手と順に床へ触れた。 「……ここ…は…?」 湿っぽい板張りの床に座り込んだまま、呆然と辺りを見回してみる。どうしてかすごく暗くて、ここがどこなのか、どんな場所なのか確かめようがなかった。 かろうじて分かったのは、天井らしきところに薄っすらと四角を模るような光が漏れていること。もしかしたら私は階段から落ちて、突風が吹いた拍子に戸が閉まってしまったのかも…。そう思って見つめてみるけれど、一向に開けられる様子がなければ外に誰の声も聞こえない。 まさか置いて行かれた…? なんて思いがよぎりそうになったけれど、あの状況で殺生丸さまたちが確認もせず放っておくとは思えない…。 …もしかしてここは…さっきまでいた場所ではないの…? 不可解な状況に芽生えた可能性が鼓動を早くする。 少しずつ暗闇に慣れてきた目で見えたものは、頭上の光が漏れる場所へ続く階段くらいだった。それ以外はなにもないのか暗闇に包まれていて分からず、どんどん膨らむ恐怖心に胸が苦しくなってくる。 と…とにかく、階段を上がってみよう。もしかしたらあの光が漏れているところから外に出られるかもしれないし…。 そう感じた私はゴク…と小さく息を飲んで、手探りで階段の方へ向かった。 「…あれ…?」 思わず、小さく声が漏れる。 どうしてだろう…この階段に、既視感があるような気がした。暗くてよく見えないからはっきりと思い出すことはできないけれど、遠いいつか、どこかでこんな階段を…こんな空間を見たような気がする。頭上で四角く光が漏れる光景もそう、いつか…どこかで…… ――そうして思考が深みを増していくほど、鼓動がドクン…ドクン…と確かに強さを増していくのを感じる。 よく見えないけれど、それでも私は、もう分かってしまっていたのかもしれない。信じられないけれど、信じたい。そうであってほしい。そんな思いが湧き上がって呼吸さえ忘れてしまいそうなほど緊迫する中、古い木製の階段を踏みしめるようにゆっくりと上がっていく。 そうして光が漏れる四角い天井に手を触れると、無意識に息を飲みながらそこをグ…と押し上げた。 途端、眩しいくらいの光が差し込んできて思わず目を細める。それでも抗うように薄く目を開いて辺りを確かめようとした――その瞬間、 「あ……」 力なく声が漏れる。ドクン、ドクン、と激しく鼓動が響く。戸惑い、歓喜、困惑――様々な感情が渦巻くのを感じながら、私は目の前に広がる景色に言葉を失っていた。 いつの時代からあるのかも分からないくらい古い書物や家具、それらに似合わないスチール製の棚やそこに並ぶ雑貨、扇風機なんかの現代的な家電―― そんな至極普通の物置らしい景色。 それは紛うことなく、私の家の蔵のものだった。 back