26

無理やり眠らされたり、優しく寝かしつけてくださったり…殺生丸さまたちのそんな変わったお気遣いのおかげですっかり回復した私は、ようやく旅を再開することができていた。 相変わらず邪見には小言を言われたけれど、頑張って挽回するからと言い聞かせるようにしてなんとか納得してもらっている。 …実際、頑張らなきゃ。たくさん手間や迷惑をかけてしまったし、なによりも私の目的――私の時代へ帰る方法が、まだなにも分かっていないのだから。 この時代にきて目まぐるしい出来事に流されるまま、もうずいぶんと時間が過ぎてしまっている。このままじゃいつまで経っても進展しないし、殺生丸さまたちにもご迷惑をお掛けしてばかりになってしまう。だから、そろそろ本腰を入れてなにかひとつでも手がかりを捜さなきゃ。 よし、これからはもっと頑張るぞ…!! 「ここで休む」 私が意気込むと同時、不意に足を止めた殺生丸さまからそんな指示が出されてしまった。 それは、今日の旅の終了の合図。せっかく今やる気を燃やしたというのにどうやら空回りしちゃったみたいで、私の中で燃え上がりそうになった炎はぷしゅ~…と音を立てて消え去ってしまった。 …そうだよね…もう空が赤くなり始めてるんだもの。それに、今日はまた月明かりのない朔の日みたいだし…暗闇が苦手な私のために、少し早めに休息に入ることは伝えられていたもの。仕方ない…また明日頑張ろう…。 よよよ…と肩を落とした私は、焚火の下準備をするために辺りに落ちている枝を拾うことにした。けれど、小さく身震いをしてしまって。枝に伸ばした手をそっと引いた私は、殺生丸さまと邪見の方に振り返った。 「ご、ごめんなさい。少し…か、厠に、行ってきます」 離れたところを指差しながら、そっちに視線を向けて小さく言う。 トイレに行くことを申告するのは恥ずかしくて慣れないのだけれど、勝手に出ていくと怒られるし、最悪の場合はあとを追って来られてしまうから、いつも申告するようにしていた。 けれど、そんな私の小さな羞恥心なんて知ったことではない邪見は焚火の準備を進めながら平然とした様子で声を返してくる。 「うむ。あとで付き合わされるのは面倒だからな、明るいうちに全部出してこい」 「じゃ、邪見っ」 デリカシーのかけらもない邪見の言葉につい声を上げてしまう。た、確かに夜中に邪見を付き合わせてしまうのは申し訳ないと思っていたけれど…なにもあんな言い方しなくていいのに…それも、殺生丸さまの前で…。 つい顔を赤くした私は「もうっ」と小さな声を漏らして、早く済ませてこようと茂みの奥へと入っていった。すると背後でビシッ、というなにかが当たるような音と同時に「いだっ。せ、殺生丸さま!? なにを…」という声が聞こえてきて。つい足を止めてしまったけれど、続く殺生丸さまの声は全然聞こえてこなくて、首を傾げた私は再び足を進め始めた。 一体後ろでなにがあったんだろう…。なんだか分からないけれど、殺生丸さまが邪見になにかぶつけたのかな…? 聞こえてきた音からそう考えてみるけれど、詳細は分からなくて。あとで聞いてみようと思った私は、殺生丸さまたちから少し離れた場所で茂みの影に入った。 (やっぱりお風呂とトイレがないのは慣れないな…) 人目を避けて隠れてしなくちゃいけない状況についそんなことを考えてしまう。 時代が時代なのだし、決まった拠点がなくて旅をしているから仕方がないのだけれど、この生活をしていてやっぱりお風呂とトイレは欠かせないものだなあってすごく痛感した。 私の時代に帰れた時には、ふやけるくらいいっぱいお風呂に入ろう。もう一生分くらい入ってもいいかもしれない。そんなことを考えながら着物を正した私は、すぐに殺生丸さまたちの元へ戻ろうとした。 そんな時―― 「うう…誰か、誰かおりませんか…」 突然、帰り道とは違う方向からそんな弱々しい声が聞こえてくる。それにドキ…と体を強張らせた私は、立ち止まったまま耳を澄ませるように声の元へ集中してみた。 するとまた「誰かあ…」という声が聞こえて。小さく息を飲んでは、なるべく足音を立てないようにそっと声の元へ近付いた。 ――本当は、近付かないでおくべきなのだけれど。逃げるべきなのだけれど、その呻き声から、声の主が私のおばあちゃんと同じくらいの年齢のような気がして心配になってしまった。放っておけなかった。 だからこっそり様子を窺おうと思って小さく屈んでは、茂みの影から声の主を覗き込んでみることにした。 「あ…」 思わず小さな声を漏らして立ち上がる。そしてすぐに茂みを押し退けながら越えると、私はそこにうずくまるよう座り込んでいたおばあさんにそっと寄り添った。 「おばあさん、大丈夫ですか? どうかされたんですか…?」 「ああよかった…やっぱり人がいた…ごめんねえ、ちょっと足を捻ってしまったみたいで、歩けなくなっちまって…」 私を見たおばあさんは安心したような顔を見せてそう言いながら足首を摩る。 どうやら私の足音が聞こえた気がして声を上げたという。そう話すおばあさんが痛そうに擦る足首を確かめてみると、悪い捻り方をしたのか少し赤く腫れてしまっているようだった。 大きな籠を背負って…山菜かなにかを取りに来たのかな…。だけどこんな森の奥で、もうすぐ日が暮れてしまうというのにおばあさん一人で歩けないなんて… このままじゃ危険だ。放っておけない――けれど、殺生丸さまたちの元へ連れていくなんてできるはずがないし…どうすれば…… そう思っていると、おばあさんが手を持ち上げて遠くを指差した。 「ここを真っ直ぐ行けば、わしが棲む村があってな…今から山を下れば、暗くなる前には着くだろうから…悪いけど、そこまで手を貸してはくれんかのう…?」 「え…」 弱々しく向けられたお願い。すぐにでも“はい”と返事をしたかったけれど、少しだけ躊躇ってしまった。 というのも、私は殺生丸さまたちにお手洗いにいくとしか言っていないから。勝手にそれ以上に出歩いて戻るのが遅れてしまったら、またご迷惑をお掛けしてしまうんじゃ…と心配になってしまった。 けれど…おばあさんをこのままにはしておけないし、殺生丸さまたちの元へ伝えに戻っていると日が暮れてしまうかもしれない。 迷いを抱えながらおばあさんを見れば、申し訳なさそうに下げられた眉が、体が、ふるふると小さく震えている。その様子に小さく唇を結んだ私は息を飲んで、すぐさまおばあさんの背負っていた籠を受け取った。 「行きましょう。日が暮れてしまう前に」 籠を背負いながらおばあさんにそう声を掛ければ、おばあさんは「ありがとう…ありがとうねえ…」と申し訳なさそうに繰り返しながら頭を下げてくれる。 殺生丸さまたちには申し訳ないけれど、この人の救助を優先しよう。私には困っている人を放っておくなんてこと…できないから。そのあとですぐに戻って事情を話せば、殺生丸さまも分かってくださるかもしれないから。 そう考えてはおばあさんに肩を貸して、ゆっくりと彼女が言う村の方へと歩きだした。 ――そうして森を抜けてしばらく歩いていると、薄暗くなった景色の中におばあさんの言う村を見つけた。そこは本当に小さな村で、おばあさんを捜していたのか、数人の村の人たちが灯りを持ってこちらへ駆けてくる。 「ばあさん! よかった、無事だったか」 「すまないねえ。足を挫いちまって、この人に助けてもらったんだ」 おばあさんがそう言うと、村の人たちの視線が私に注がれる。それに戸惑った私は「た、たまたま通りがかったので…」と口にしながら小さく笑んだ。 すると村の人たちは私をまじまじと見つめて、ついには見定めるような目を向けられる。 「あんたずいぶんいい着物着てるねえ。どこかのお偉いさんの娘かい?」 「まさか姫さまなんでねえか?」 どこか恐る恐るといった様子で私の着物を見つめながら村の人たちが口々に言う。 そうだ…私の着物は殺生丸さまがくださった綺麗な着物。いただいて以来、変に目立ってしまう洋服の代わりにずっと着ていて忘れていたけれど、思えばこれは貴族のような犬夜叉くんのお母さんの身代わりに使っていたもののひとつ…決して安いものではないはずだ。お偉いさんやお姫さまだって間違われてもおかしくはないのかもしれない。 けれど私は一般庶民だし、そもそもこの時代の人間じゃない。なんとか誤魔化さなきゃ、と焦ってはすぐさま両手をぶんぶん振るってみせた。 「い、いえっ。これはその…たまたま出会った方が、もういらないからとくれたもので…わ、私はただの農民です…!」 思いついたままを咄嗟に口にする。最後にちょっぴり嘘をついちゃったけれど…それでも村の人たちはなんとか納得してくれたみたいで、「そんなこともあるんだねえ」「羨ましいわあ」とのんびりとした感想を言っていた。 一応、怪しまれずに済んだのかな…? なんとなくのほほんとした雰囲気の村の人たちにそう感じては、ほ…と小さく胸をなでおろす。 おばあさんを送り届けることもできたし、特に問題もなさそうだからもう戻っても大丈夫かも… 「えっと、それでは…私はこれで失礼しますね」 ぺこ、と頭を下げて踵を返そうとした――けれど、それは「待ちなされ」という声に止められてしまった。 「今日は朔の日だ。もうずいぶんと日も落ちておるし、危険だから今晩はここで休まれるが良い」 「そうだよ。わしを助けてくれたお礼をさせとくれ」 旦那さんと思われるおじいさんと助けたおばあさんがそう言って私の手を握ってくる。 ど、どうしよう…殺生丸さまたちに伝えられていないから早く帰らなくちゃいけないのに…。いけないのに、おばあさんの懇願するような瞳が、私のおばあちゃんと重なってしまうような気がして。 心苦しくなった私はきっぱり断ることもできず、おばあさんに「はい…」と小さな返事をしてしまっていた。 ――やがて月の出ない夜が更けた頃。おばあさんが採ってきた山菜で作ったご飯をごちそうになっておもてなしをされた私は、村全体が寝静まった頃合いを見て布団から起き上がっていた。 (やっぱり…事情は伝えにいかなきゃ) どうしてもそれが気になっていた私は布団を出て、音を立てないように寝ているおばあさんたちの傍を通り抜けていく。 戻ったら怒られるかな…もし置いて行かれていたらどうしよう…そんな思いがよぎって少し不安になりながら、そっとおばあさんの家を出た。 外は本当に真っ暗だった。月明かりがなくて、灯かりを持っていないとなにも見えないくらいに。そんな深い闇に足が竦んでしまいそうになったけれど、静かに息を飲んで、壁伝いにゆっくりと足を踏み出した。 ここで灯りを点けたら誰かに見つかってしまうかもしれないから。だからせめて村を出るまでは頑張ろうと、勇気を出して耐え続けた。 ――けれどその時、突然口を塞がれて体を引き込まれる感覚に襲われる。思わず目を見張った私は咄嗟に悲鳴を上げようとしたのだけれど、大きな手が私の口を塞ぎ込んで声を出すことすら叶わなかった。 すぐさま身動ぎして逃れようとすると、それを抑え込むように体を包み込まれて。肩にサラリとした感触を流し込まれたと同時に、 「叫ぶな。大人しくしろ」 と耳元で低く、小さく囁かれた。その声につい肩を揺らしてしまっては、体を強張らせるままドキドキと鼓動を響かせる。 けれどそこに、恐怖心はなかった。なぜならその声が、私を抑え込むこの人が、殺生丸さまだと分かったから。 むしろ安堵するような思いさえ抱くとそれが伝わったのか、そっと手を放されて解放される。それでもまだ少しドキドキと胸を高鳴らせながら振り返ると、ようやく暗闇に慣れ始めた視界に私を静かに見下ろす殺生丸さまの姿が映った。 「こんな夜更けに一人で出歩くなど、なにを考えている」 開かれた口から告げられたのは、そんなお咎めの言葉。それに以前“一人で出歩くな”と怒られたことを思い出しては、すぐさま「ご、ごめんなさい…」と頭を下げた。 「その…殺生丸さまになにも伝えられないままここへ来てしまったので…人が寝静まった今のうちに、事情だけでもお話しに戻ろうと思って…」 俯きがちになりながら、それでも殺生丸さまを見上げて経緯をお話しする。すると殺生丸さまは私を見下ろすまま表情も変えず、ただ静かに瞼を下ろして語られた。 「お前が老婆に手を貸したことは知っている。害はないようだからそのままにしていた」 「え…?」 淡々と語られる言葉に思わず大きく目を瞬かせてしまう。おばあさんを助けたことはまだ言っていないのに、知っているって…害はないようだからそのままにしていたって… もしかして殺生丸さまは…私がおばあさんを助けるところを見ていた、ということ…? 困惑するように、疑問を抱くように殺生丸さまを見つめていると、彼はどこか呆れを孕んだ声色で言い出した。 「お前は放っておけばすぐにでも喰われ兼ねん。だからしばらく様子を見ていたのだ」 私の疑問に答えるようそう話してくれる言葉に呆然としてしまう。 まさか、見られていたなんて…。一応私がおばあさんと接触してから様子を見にきてくれたということなのだけれど、見られていたなんて露ほども思いもしなかった私は、申し訳なさと気遣っていただけた嬉しさに戸惑いながら「その、ありがとうございます…」と頭を下げていた。 するとこれで状況を整理できたと判断されたのか、殺生丸さまは「戻るぞ」と短く言ってすぐさま踵を返そうとする。けれどその姿にはっとした私は、慌てて「あ、あのっ」と声を上げた。 「も、申し訳ないのですが…その、ここで一夜を過ごしてもいいですか…? 私が突然いなくなると、おばあさんたちに心配をかけてしまうと思うので…」 「……」 すごく勝手なお願いだと思う。けれど心配をかけることも不安にさせることも嫌で、お別れだけはちゃんとしておきたかった。 それを思いながら俯いて返事を待つけれど、殺生丸さまは黙り込んだまま。怒らせてしまったかな…そう思った時、不意に小さくため息をこぼされた気がした。 「好きにしろ。ただし、早く戻って来なければ置いていくぞ」 そう言いながら殺生丸さまは森の方へ足を進め始めてしまう。その姿に慌てた私は「あっ、ありがとうございますっ」と頭を下げて、すぐに続けるよう 「殺生丸さま、おやすみなさい」 ともう一度軽くお辞儀をした。殺生丸さまはそんな私を見てはいなかったけれど、ほんの一瞬、足を止められたような気がして。「早く戻れ」とだけを返しながら再び歩き出してしまった。 それに小さく笑みを滲ませた私は、言いつけの通りにおばあさんの家へと戻っていった。 ――翌日、おばあさんたちにきちんとお別れを告げた私は、いくつかの干し柿と丸いおにぎりをもらって殺生丸さまたちの元に帰っていた。そうして邪見にぐちぐちと小言を言われながら旅を再開して、また普段通りの日常に戻ったことを感じる。 そんな中で、私はこれまでの旅にはなかった干し柿とおにぎりを見つめていた。 おばあさんの家で渡された時にも感じた寂しさ。それを甦らせてしまっていると、そんな私の様子に気が付いた邪見が訝しげな顔を向けてくる。 「そんなに食いものを見つめてどうしたのだ。腹が減ったというには顔が暗いぞ」 「あ…ごめん…ちょっと、私のおばあちゃんのことを思い出しちゃって…」 「祖母を? 食いものでか?」 「うん…私のおばあちゃんもよく干し柿を作ってて…おにぎりも、こんな丸い形だったから…」 現代にいた頃、幼い時からずっと見てきたおばあちゃんの干し柿やおにぎりを思い出して重ねてしまう。無事でいてくれているかな、元気にしているかな。おばあちゃんに思うことが、謝りたいことがたくさんあって、どうしても思い詰めるような感覚に苛まれていた。 そんな重い気の沈みに引っ張られるように、視線が地面に縫い付けられる。けれどふと、視線を感じるような気がして緩やかに顔を持ち上げてみた。 すると静かに、横目にこちらを見る殺生丸さまと目が合った。 もしかしてくよくよ考えていることが気に障ったのかも…。そう思ってついごめんなさいと口にしそうになったのだけれど、殺生丸さまはなにも言わず、ただ静かにその顔を前へと向け直されてしまった。 ――きっと、それからだと思う。殺生丸さまがたびたび一人でどこかへ行かれるようになったのは。 back