視線を攫う紅
春の穏やかで暖かな陽気がどんな気持ちの角も取ってしまうような朗らかな感覚に包まれる。平和そのものな空気のおかげで時間の進みさえゆっくりに感じられるこの春の里、その中にある竜神社で、私はいま箒を手にしたまま柔らかい青が広がる空を眺めていた。 「気付けばもう一週間かぁ…」 薄い雲がゆっくりと流れていく様子を見つめながらつい込み上げてきた独り言をこぼす。 一週間、それは私がこのアズマの国に現れて経過した時間だった。あの日、突然謎の光に包まれてアズマに飛ばされた私は大地の舞手であるカグヤちゃんに助けられて、事情を聞いてくれた彼女やこの春の里の神さま、うららかさんの厚意によってこうして春の里での日々を過ごしている。 おかげで私もようやく状況に慣れてきて里の人たちと交流したりといったこともできるようになって。いまでは里の人のお手伝いなんかをして過ごす時間が増えたくらい、春の里に馴染み始めていた。 さて、このあとのお手伝いはどこに行こうかな… なんて考えた時、ふと視界の端に見慣れた姿を見つけた。 「あ、カグヤちゃん。おかえり」 「チトセさん。今日もお掃除してくださっているんですか?」 「真面目だなー。お前はもうちょっと大人しくしててもいいんだぞ」 私の声かけに振り返ったカグヤちゃんが箒を見て言うと、彼女に並んでふわふわ浮いているモコロンが呆れたように首を振るった。「オイラがチトセの立場だったらもっとのんびりくつろいでるのにな」なんて言葉を付け加えて。 なんとなくその姿が想像できてしまうものだから、ついあはは、と笑みを浮かべる。 …そういえばこうして普通に話しているけれど、本人曰くモコロンはカグヤちゃんと契約しているなんだかすごい白竜らしい。よく分からないけれど、ミホシハバキ? の眷属で、本当はアマカケルモコシロノミコト…なんて大層なお名前だとか。 けれどそのミホシハバキさんが分からないうえに彼が竜になった姿を見たことがない私からすれば、どこからどう見ても彼は愛らしいマスコットだ。見た目も“モコモコ”という羊のような魔物とそっくりだし、どちらかといえば“すごい”というより“可愛い”という感想が勝ってしまう。 …なんて、本人に言ったら怒ってしまうだろうから言わないけれど。思ってしまったことは胸の中にしまい込んで、私は手にしていた箒に視線を落としながら言葉を返した。 「私も最初はモコロンと同じ気持ちだったんだけど…なにかしてないとなんとなく落ち着かないんだよね」 「変な奴だなー。のんびりするのが一番だろ」 「仕方ありませんよ、モコロン。チトセさんは突然環境が変わってしまったんですから」 カグヤちゃんが私をフォローしてくれるとモコロンは「それもそうか」と納得してくれる。 するとカグヤちゃんがふと思い出したように「そうだ」と言って、ずっと手にしていた包みを差し出してきた。 「これ、いろはさんからです。新作のお団子ができたから食べてみて、と」 「え、いいのっ? 私お金とか払えないのに…」 「先日お店を手伝ってくれたお礼と言っていましたよ」 「そんなっ、むしろ私の方が手伝わせてくれたお礼をしなきゃいけないくらいなのに…」 渡されるお団子の包みを受け取りながら申し訳なさに肩をすぼめてしまう。 いろはちゃんとは、この春の里で『いろは茶屋』を経営している女の子だ。彼女は小さい妹のすずちゃんと二人でお店を切り盛りしているのだけど、うららかさんがよくお手伝いをしているよしみで私も先日少しだけお手伝いをさせてもらったのだ。 とはいえそれほど長くお手伝いができたわけではないし、元々“早く馴染めるように里の人たちと接してみましょう”といううららかさんの提案から始まったことだったから、人との会話なんかのやり取りに重きを置いていて、あまり役に立ったとは思えない結果だった。 だから“手伝ってくれたお礼”なんて申し訳ないし、むしろお礼を言うべきなのは私の方だと思ってしまう。 このままでは悪いから、お手伝いのことも含めてあとでちゃんとお礼を言いに行こう。そう心に決めてはお団子を持ってきてくれたカグヤちゃんにも「ありがとね」とお礼を伝えて包みを柔らかく握りしめた。 そんな時、モコロンがカグヤちゃんを呼び掛けた。 「なぁ、そろそろ約束の時間じゃないか?」 「約束? 二人はこれからどこか行くの?」 「はい。夏の里の方で依頼を受けまして…十五時に待ち合わせをしているんです」 「ま、よくある魔物退治だな」 カグヤちゃんに続いて呆気なく言うモコロンは腕を組んで強気な姿勢を見せる。 カグヤちゃんって普段は可愛らしくておしとやかに見えるのに、自分より大きな魔物相手でも臆さず闘う力と度胸を持っているのだから本当にすごいと思う。あとで聞いた話だけど、大したことない魔物の一種だったというあの鬼にさえビビり散らかした私とは雲泥の差だ。本当に勇敢で尊敬する。 なんて一人で静かに感心していると、モコロンがくるりと身を翻して片手を上げた。 「じゃあ行ってくるぞ。晩ご飯作って待っててくれよな!」 「もう、モコロンったら。チトセさん、気にしなくていいですからね」 「ふふ、大丈夫だよ。ご飯たくさん作って待ってるね」 困ったように笑うカグヤちゃんに笑い掛けながら手を振る。そんな私に手を振り返しながら階段を下りていく二人の後ろ姿を、私は見えなくなるまで静かに見送っていた。 私がアズマに来てからというもの、カグヤちゃんとモコロンには一緒に竜神社に住まわせてもらっていてお世話になってばかりだ。だからせめてもの恩返しとして炊事なんかを中心にお手伝いをしているのだけど、正直、それでも足りないくらい恵んでもらっている。 (本当、いい人たちばっかりだよね…) この春の里、竜神社、そしてお団子と、ゆっくり視線を移していきながらしみじみと実感する。 普通だったらこんなどこの誰かも分からない怪しい人間をここまで手厚く保護してくれるはずがない。だというのにここの人たちは優しくて、会う人会う人みんなが私を案じて温かく接してくれる。 だからかな、本当なら自分の世界に帰る方法を探さなきゃって焦るはずなのに、そんな気持ちが全然湧いてこないのは。 むしろずっとここにいたいと思ってしまう。帰りたくないとさえ思ってしまう。 それくらい素敵な場所と人に恵まれたからこそ、私は日々周りの人たちに恩返しをする。たくさんたくさん、お返しをするんだ。そう決意を新たにしたところで、ひとまずいまの仕事を片付けようと箒を握り締めると終わりかけの掃除の仕上げに取りかかった。 「……よし、これでいいかな? さて次は…いろはちゃんのお団子タイムにしよ~!」 ゴミひとつない境内を見回して箒を片付けては、いろはちゃんがくれたお団子を手にうきうきで境内の隅へと歩いていった。 茶屋がある側、一部壊れた柵を越えたところにある一本の木。そこが私のお気に入りスポットのひとつだ。ここは春の里の中心が眺められて、いろは茶屋を始め色んな場所が見渡せる。里の出入り口も近くにあるから人の往来も見られて、あの人はどこの里の人かなとか、あの露店はなにを売りに来たのかなとか、色んなものが見られて楽しいのだ。 元いた世界ではこんなこと全然しなかったけれど、春の里の穏やかな空気に絆されているからかのんびりと景色を眺めることが増えた気がする。でもそれは決して悪いことではなくて、むしろ浄化されるような、とても心地いい充足感があった。 さて、今日はどんな人が来るのかな。なんてぼんやりと考えながら木にもたれ掛かってはもらったお団子の包みを開いていた――そんな時、里の門の近くにふと目を惹く人影を見つけて手を止めた。 鮮やかな紅い色の羽織に緑色の着物、毛先が紅葉のように紅く色づく焦げ茶色の長い髪を緩やかに揺らしながら歩くその人は、この里の人ではないと一目で分かる出で立ちをしていた。 その色合い、落ち着いた雰囲気、そして羽織に描かれた霞模様と紅葉の柄から、まさに秋らしい人だと感じさせる。 「誰だろう、あの人…」 その姿をつい目で追ってしまいながら思いが口を突いて出る。 初めて見たかもしれない…ううん、間違いなく初めてだ。あんなに目を惹く人を忘れるはずがない。 長い前髪に隠されがちだけど、眼鏡をかけているらしいその顔は整って見える。こんな高いところから見て分かるのかと問われてしまいそうだけど、そうはっきりと感じるくらい目を惹くのだ。 なんだか目を離せないままその姿を見つめていると、その人は落ち着いた足取りでいろは茶屋に――そこでお手伝いをするうららかさんになにか話しているようだった。 それにしても…あの人、身長がかなり大きい気がする。うららかさんも小さいわけではない、どちらかというと女性の中では少し高めなくらいなのに、そのうららかさんと並んで頭一つ以上違っている。遠目に見ているだけじゃよく分からないけれど、二メートルくらいあるんじゃないかな…。 そんなことを考えながら眺めていると、どうやらうららかさんのお知り合いなのか彼女が朗らかに微笑みながら会話を弾ませている様子が見える。でも、対するあの人は表情を大きく変えることがないくらい落ち着いていて、なんというか、大人びた人だなと思った。 ただ会話をしているだけで目立ったことなんてなにもしていない。けれどなんとなく目が離せなくて、ただ静かにその人を見つめていた。 そんな時――不意にその人と目が合った。 「!」 ドキ、と心臓が飛び跳ねるような感覚を抱いては慌てて木の陰に隠れる。 ……って、なんで隠れたの私…!? 別にやましいことなんてしてないんだから隠れなくてもよかったじゃん…! ドキドキと高鳴る鼓動を聞きながら後悔するけれど、もうあとの祭り。却って不審がられていたらどうしよう、と不安になりながら恐る恐る様子を覗き見てみると、あの人はすでにうららかさんに向き直っていてなにごともなかったように話を続けていた。それだけでなく、長椅子に腰掛けてお団子を注文している様子。 もしかして…気付かれてない、のかな…? 目が合ったように見えただけ…? 未だ少し緊張を残しながらもう少しだけ様子を窺ってみるけれど、あの人は全然こちらを気にしていないみたいでひとまずほっと胸を撫でおろした。 よかった…。知らない人に遠くからずっと見られている、なんて気分良くないもんね。無意識だったとはいえ、いまのは見すぎた私が悪い。次からは気を付けないと…。 なんて反省の念を抱きながら、それでももう一度だけ、ちらりと視線を送ってしまう。 あの人にはなんだか見ていたくなる、不思議な魅力があると思う。それに…なぜだか少しだけ、胸が温かくなる。 いままでに感じたことのない感覚を不思議に思いながら、開きかけていたお団子を包み直す。反省も兼ねて、今日はもう里の観察をやめて竜神社の縁側でお団子を食べることにした。 そうして縁側で改めて広げたお団子。その表面が少し乾いている様子に、どれだけ見つめてしまっていたんだと恥ずかしくなったのだった。あとがき
クラマさん登場です。ヒロインは遠目に見ただけですが。 実は私自身がキャラクター発表時にクラマさんを見て一目惚れをして、でも好きなタイプかなぁ~堅苦しいキャラだったら嫌だなぁ~とか思ってたら見事にドハマりしてしまったという経験があるので、このお話のヒロインも一目惚れから始めてもらいました。 そもそも見た目が良すぎるんですよねあの神さま…。そら一目惚れするでしょ。 これからいい感じに距離が詰められたらいいなぁと私も温かく見守っていきたいと思います。