32

深い濃紺に沈んでいた空が端から溶け出すように色を薄くしていく。夜が終わりを告げ、山々の向こうから溢れ出す陽光が一日の始まりを示し始めたようだ。姿を変えるように移りゆく空を見上げながら、私は未だ眠りこける邪見を尻目に静かに腰を上げた。 休息に利用していた木の陰から一歩踏み出せば、見計らったように吹き抜ける風が緩やかに全身を撫で、私の髪を弄ぶ。視界にちらつくそれを退けるよう耳へ掛けては、ふと風上へ視線を移した。 ――だがそこには何者の影もなく、ただ瑞々しい草木の青い匂いが静かに運ばれてくるだけである。 「……」 私の視界の端で、風に撫でられた草花が小さく躍る。ただそれだけの景色をやや眺めたのち、切り捨てるように視線を外した。 風を感じると無意識にあれの姿を捜してしまうことがある。匂いがしないこと、妖気を感じないことから分かりきっているのだが、まさかいるわけではあるまいなと目をくれてしまうのだ。 風羽故郷(くに)に帰って、もうすぐひと月になろうかというのに。どういうわけかあれの存在は私の記憶から薄れることなく、むしろ忘れるなと言わんばかりに色濃く居座り続けていた。 なぜ、風羽のことが忘れられんのか。その理由を無意識に捜そうとしてあれと過ごした日々を思い返す。すでに何度か繰り返した行為だが何度繰り返そうと未だ答えを見つけられず、さらにはしこりのように引っ掛かりを見せる場面がいつも脳裏に残るのだ。 「あとは好きにするがいい」 そこに響くのは、風羽との別れ際に吐いた己の言葉。風羽のことを思い返すたび、決まってこの言葉が残り火のように燻り続けていた。 (…なんとも…ぬるい言葉を向けたものだ) 自身で告げた言葉ながら嫌気が差すのを感じる。 あの時、風羽は迷いを抱いていた。なにを迷うことがあるのか分からなかったが、確かに躊躇い、戸惑い、怖気づいているように見えた。 しかしそれは私には関係のないこと。ゆえに確かな別れを告げて切り捨ててしまえばいいだけなのだが、どういうわけか私が肝心なところで向けたのは曖昧な言葉。はっきりと言ってやれば断り切れない風羽は従うはずだというのに、それをしなかった己に疑問と呆れのような感情が渦を巻く。 分からない。そんな言葉を告げたことも、こうして未だに風羽へ意識を向けていることも。これではまるで、切り捨てられんのは私の方だと言わんばかりではないか。 そんなはずはない。馬鹿馬鹿しい。 ふざけた思考を振り払うよう視線を外す。その時、傍らに転がる邪見がもごもごと口籠るようにしながら身動ぎを始めたのが目についた。 「お…おい風羽、どこへ行くっ。まだわしの話は終わって…」 口籠る声がはっきりしてきたかと思えば邪見は突然そのような声を上げながら体を飛び起こした。どうやら夢を見ていたのだろう。目の前の光景にしばし状況が読めない様子を見せて、やがて落ち着きを取り戻すように「なんだ、夢か…」と呟いている。 邪見は時折こうして寝言を漏らしたり寝ぼけた行動をとることがある。そのためこのような光景は普段通りであるのだが、今回ばかりはその寝言にわずかながら眉をひそめてしまった。そうとは知らず目を覚ました邪見は私の姿を見とめるなり「あ。おはようございます殺生丸さま」と特段変わらない様子で声を掛けてくる。 「…風羽の夢でも見たか」 「え? は、はい」 「どのような夢だ」 「へ…そ、そんな大した夢では…その、風羽にわしの話を聞かせるという、なんの変哲もない夢で…」 普段は私が邪見の見た夢に言及することはないからだろう、問われたことに戸惑いを露にする邪見はそれでも正直に内容を口にする。かと思えば珍しく言及したことに気を良くしたか、邪見は夢を振り返りながらしみじみと話しを始めた。 「それもこれも眠る前、風羽がいたときは話し相手をさせていたと思い返していたせいでしょうなあ。いまは相手がおらんで退屈で、つい感傷に浸ってしまい……あ゙っ。けっ、決して殺生丸さまとはお話できないとかつまらないとか聞いてくれなくて冷たいだとか、そんな不敬なことが言いたいわけではなく…!」 「うるさい。勝手に狼狽えるな」 一人で語っていたかと思えば自ら首を絞めるように焦り始める邪見へきっぱりと言い捨てる。すると邪見は慌てて自分の口を両手で押さえ込み、滝のような汗を流しながら硬直していた。 ――無駄の多い話だが、邪見の言っていることは事実だ。確かに風羽がいた頃はあれが邪見の話し相手をし、食糧の調達など二人で過ごすことも多かった。それもあってそのような光景を夢に見たのだろう。 恐らく邪見も同様に風羽を忘れられず、さらには話し相手としてあれの存在を求めてさえいるようだ。 (風羽…なぜお前の存在は、これほどまで私たちの記憶に居座り続ける) 再びお前と会えば分かるのか。あの日から感じているこの違和や物足りなさは、お前なら埋められるというのか―― 届くはずもない無駄とも思える問いを雲居に投げかけるよう目を細め、しめやかに吹き抜ける風に髪を舞わせる。当然声など返ってこないことを分かっていながらしばし雲居を見つめては、やがて切り捨てるように顔を背けた。 「さっさと起きろ。置いていくぞ」 「はっ、はい! ただいまっ」 邪見を正すよう言い捨て、その返事を聞くか否かという頃合いで足を踏み出した――その時、わずかに覚えのある匂いが鼻を掠めた気がした。 「…ん? どうかなさいましたか? 殺生丸さま」 足を止めた私を不審に思ったらしい邪見が問うてくる。しかしそれに声を返すことはなく、私は今しがた感じた匂いを探るように意識を集中させていた。 まさかと思ったが、気のせいだろう。あれがここにいるはずがない。戻ってくるはずがない。思わずよぎった可能性を切り捨てるように思考を否定する。 あれが故郷に帰ってひと月ほど、これまで一度たりとも戻ってくることはなかったのだ。それが今さらのこのこと戻ってくるとは到底思えん。 だというのになんだ…この胸の奥がざわつくような落ち着きのなさは。この感覚は一体なんなのか、私はなにを感じているのか――これまでにない違和感にたまらず眉根を寄せた。 ――その時、あの匂いを運んできた風が微かに私の肌を撫で髪をすり抜ける。 「!」 ともに、微かな妖気さえ感じて目を丸くした。 間違いない――そう確信すると同時に私の脳裏にあの姿が映る。 「え゙!? せ、殺生丸さまっ。一体どちらへ!?」 邪見が驚くままに声を上げると同時、私はすぐさま地を蹴り視界を遮る木々の届かない上空へ飛翔していた。そのまま風の来た道を辿るよう空を駆ければ、進むにつれてそのわずかで曖昧な匂いが徐々に形を成していくのを感じる。 ――なぜだ。なぜ今頃になって。 突然現れた気配にたまらず疑問を募らせては尾をざわつかせながら宙を駆ける。不思議と落ち着かない気持ちがあったのは、なぜあやつが今さら戻ってきたのかという思いもさることながら、感じたあれの風の気配があまり感じたことがなかったものだったからだ。それはまるで、初めて相見えた私が手を下さんとしたあの時に咄嗟に放たれたもののよう―― それを予感しては、匂いを手繰り寄せるように空を駆けた。幸い、遠くない位置に匂いを感じる。方角からして恐らく祠の周辺だろう。 こちらへ戻ってきて、当てもなく彷徨い歩いたところに良からぬものと出くわしたか…よぎる可能性にわずかな苛立ちに似た感情を抱くと、濃くなる匂いの元へ一際早く風を切った。 ――やがて目下に捉えたのは祠のある森からやや離れた場所。一層強くなった匂いを辿り、忙しない足音が聞こえる場所へ目を向けた。 「!」 そこに――森の中を駆け続ける女の姿を見つけた。あの日と変わらぬ装いに身を包むそれは息を切らし、背後に迫る獣のような妖怪から必死に逃げ惑っている。 やはり妖怪に出くわしていたか。想定通りの光景に煩わしさを覚えると同時、不意に女の足がもつれその体は地表へ飛び込むように倒れ込んだ。 女はすぐさま体を起こし再び駆け出そうとしたが、すかさず迫った妖怪がその腕を捕らえる。同時に高く振りかざされた鋭い爪が女の瞳に映った――その時、私は地へ降り立つとともに妖怪の腕を断ち切っては、餌食にならんとする女の体を懐へ引き込んだ。その勢いのまま素早く爪を振るえば、それは確かな感触を伴って妖怪の体を切り裂いた。 その瞬間断末魔を上げる間もなく散ったそれが力なく地面へと崩れ落ちるが、私はそれに目をやることもなく、私に縋りつくよう身を寄せる女へ視線を落としていた。 「…風羽」 込み上げてきた女の名を、小さく口にする。その声に弱々しくも顔を上げたその女は、確かに異なる時代の故郷へ帰ったはずの風羽であった。少しばかり驚いた表情を見せてはいるが、儚くも柔く温かな雰囲気を持つその姿は決別したあの日となんら変わりないもの。 間違いない。この柔らかくも澄んだ匂い、人間でありながら微かに妖気を内包する気配、すぐに怯え小さくなる華奢な体――その全てがずっと私の記憶に居座り続けたそれと寸分違わぬものだった。 匂いを感じた時はまさかと、錯覚かとさえ考えたが、それは確かにここにいる。自身の腕の中に存在している。それをしかと自覚した途端、どういうわけか胸の奥深くに熱を持ったなにかがじわりと滲むよう広がった気がした。 それを訝しむ刹那、わずかに鼻を掠めた匂いに眉をひそめる。その元を辿るように視線をやれば、風羽の右腕に切ったような傷口が見て取れた。どうやら深くはないようだが血を滲ませるそれは、恐らく妖怪の爪が掠めたことでできたのだろう。 それを察して風羽の顔を見やるが、風羽はその傷を見ることも触れることもしないまま真っ直ぐにこちらを見つめている。 「殺生丸さま…」 目を合わせたからか、風羽はようやく発したひどく小さな声で私の名を呼ぶ。 その声にまたも胸の奥がじわりと疼く気配を感じていれば、風羽の瞳が朝露のように光を大きく揺らがせた。だがそれはすぐさま私の懐に隠すよう押し付けられ、風羽は私の着物を強く握り締めながら必死に身を寄せるよう縋っていた。 ――微かに、すすり泣く声が聞こえる。 「どうした。泣くほど痛むか」 傷に当たらぬよう腕に触れて問うが、風羽は小さくも懸命に、何度も首を横に振るった。 …どうやら、涙の原因はこれではないらしい。ならばどうしたというのか、まさかまた妖怪の残骸に怯えでもしたのか。そう思考した――その時、はらはらと涙をこぼす風羽が再び顔を上げて私を見つめた。 「嬉しいんです…殺生丸さまにもう一度会えたことが…」 震える声で必死に伝えんとするよう大切に、懸命に紡がれる言葉。それに私はわずかながら目を見張った。 嬉しい? この私に会えたというだけで、嬉しいだと? それだけのことで、このように泣いているというのか。 理解できないその言葉の意味にわずかながら眉根を寄せる。しかし風羽はその言葉が本心であることを伝えるよう真っ直ぐこちらを見据えながら清らかな光を宿す涙を頬に伝わせた。 …どうやらこれが今しがた口にした言葉は偽りでも誇張でもない、真に思っている言葉のようだ。それを思い知らされるほど一切の揺るぎない瞳にたまらず視線を吸い込まれては、二の句が継げないままただ立ち尽くしていた。 そんな私たちをからかうように、少し冷たいくらいの風が抜ける。その風に髪を弄ばれながら、私はついに瞼を伏せるよう視線を外した。 「…やはり、お前の言動は分からん」 これまでにも何度も思い、此度も感じさせられたことをそのまま口にする。 なぜ私に会いたいなどと思ったのか。なぜそれが叶ったからと涙するのか。風羽の言動の全てが私には到底理解できない。 ――だが…不思議と悪い気はしなかった。 そんな不可解な感覚に自身の胸のうちを探ろうとしたが、変わらずこちらを真っ直ぐに見やる風羽がそれを遮った。 「殺生丸さま…」 先ほどの安堵に満ちた声とは違い、どこか緊張を含んだか細い声で私を呼ぶ。その声に逸らした視線を戻してやれば、風羽はずっとこちらに留めていた瞳をついに伏せるよう逸らし、小さく震える唇を結んだ。わずかに泳ぐ視線が、風羽の真意を表す。 なにを躊躇っているのか。迷いを垣間見せるその姿に口を噤むまま次の言葉を待っていれば、やがてもう一度強く唇を結び直した風羽は私を覗き込むように深く見つめながらその口を開いた。 「殺生丸さま。私をもう一度…殺生丸さまの旅に、ご一緒させていただけませんか…?」 意を決した様子で、それでもなお控えめで遠慮がちに申し出る風羽の瞳が光を強く宿す。まるで風羽の覚悟を示すように。 その言葉に私はしばし口を噤んでいたが、自ら何度も思い返していたあの時の言葉をまたも蘇らせては、試すようにもう一度口にした。 「私は好きにしろと言ったはずだ」 「…そう、ですが…私にはお側にいる理由が、もう…」 都合よく受け取ることもできるはずの言葉に風羽は言い淀むばかり。 …なるほど。先ほどからなにを迷っているのかと思えば、己の役割のことか。 確かに風羽は自らの故郷に帰ることを目的としていたため、それが果たせた以上私たちについて来る道理はない。それが分かっているからこそ、気の小さい風羽は容易く決断することができないのだろう。 …だというのに――それでも私とともに来たいと言うのか。 「……このところ、邪見が話し相手がおらぬとぼやくばかりで鬱陶しい。そろそろあれの相手をする者が欲しいところだ」 深く目を伏せながら手頃な案を差し向ける。 間違ってはいない。なにかと喋りたがる邪見は私に対して一方的に喋ってはいるが、返事がないことに時折ため息をこぼし風羽を名残惜しく思うよう彼方を見ることがあるのだ。 あれが相手を求めている。それだけだ。決して情が移ったなど、そういうことではない。 そう思考するまま静かに瞼を上げれば、目の前の風羽の表情が一変していた。眉が上がり、瞳が輝きを見せる。 「は、はいっ…! そのお役目、私が務めさせていただきます…!」 涙を滲ませながらも笑みを浮かべ、懸命に宣言する風羽。そこに淀んでいた悲しみは風に攫われたように消え去り、至極嬉しそうに、感動すら抱いた様子で表情を綻ばせていた。 なぜだかその姿に、胸の奥が満たされるような充足感に近いなにかを感じた気がした。 風羽と別れていた時には感じることのなかった感覚。嫌ではないそれを不思議に思い胸へ手を触れようとしたが、その手は緩く空を掴み、静かに下ろした。 そして何度も反芻した言葉を――「好きにしろ」とだけを口にする。 ――こうして、私と風羽の奇妙な関係が再び始まりを告げた。 よろしければ感想などいただけると嬉しいです。
 
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