07

山々の向こうへ太陽が沈んで行く。世界が茜色に染められる中で、ようやく意識を取り戻した犬夜叉が重い瞼をゆっくりと開き始めた。そこに自身を覗き込む冥加と七宝、そしてその奥にかごめの姿がある。 ぼんやりとする頭でそれらを認識しながら「…う…」とかすかな声を漏らし、途端に強く目を見開いた。 「はっ! うっ…」 がばっ、と体を起こしたものの瞬間的に走った鋭い痛みで顔をしかめる。咄嗟に押さえた胸の辺りにはいつの間にか真新しい包帯の感触があった。 「犬夜叉、動いちゃダメよ…」 「せっかくかごめが手当てしてやったのに! 傷が開いても知らんぞ!」 「こんなもん、掠り傷だっ。…奴はどこだ!」 痛みに嫌な汗がいくつも浮かび上がるが、それでも犬夜叉は周囲に視線を巡らせた。しかし心当たりのない七宝とかごめは「奴って!?」と怪訝そうに声を揃え、なにも知らない様子を見せてくる。 「瑪瑙丸とか言う胸くそ悪い妖怪だよ…」 「瑪瑙丸ですと!? それは本当ですか!?」 突然顔色を変えた冥加が驚いた様子で飛びついてくる。どうやら彼はこの名前に聞き覚えがあるらしく、それを悟った犬夜叉がすぐさま問いただそうとした――だがそれさえ遮るように、切迫したかごめがぐっと顔を迫らせてくる。 「それじゃ彩音は、その瑪瑙丸って奴に…!?」 「!?」 ギク…と嫌な震えが体を迸る。まさか、そう思いながらもう一度周囲へ入念に視線を巡らせてみれば、その嫌な予感が益々増幅して汗を滴らせた。 ――彩音がいない。 気を失い倒れていていたはずの彩音の姿が、どこを見渡しても見つからない。 あるのはただ地面に突き立てられ、夕日に照らされながら長い影を引く鉄砕牙のみだった。 「あの野郎…彩音を攫って行きやがった!」 「なにい? あああ、情けない! こいつは、惚れた女も満足に守れんのかあ!」 「やかましっ!」 信じられんというように拳を振る七宝へ容赦のないゲンコツが即座に叩き込まれた。すると七宝は瞬く間にぷっくり膨らむタンコブに涙を浮かべながら、「せっかく手当てを手伝ってやったのに…」と恨めしそうな声を漏らしてくる。 だがそんな様子に構わず、平気でタンコブの上に飛び乗ってきた冥加はなにやら真剣な表情で犬夜叉を見上げた。 「犬夜叉さまっ。…確かにその者は、瑪瑙丸と名乗ったのですな!?」 「ああ、間違いねえ…知ってんのか?」 どうやら情報を持っているらしい冥加の様子を見てはすぐに身を乗り出して問いかける。それに対して冥加は眉間にわずかなしわを刻み込み、どこか険しい表情をしながら呟くように言い出した。 「うむ…瑪瑙丸とは、大陸の大妖怪飛妖蛾(ひょうが)の一人息子じゃ…」 「大陸の妖怪?」 「左様…今を去ること二百年前…大陸から『元』という大軍隊が、攻めて来た時のこと…戦による死者の魂を追い求め、大陸の妖怪どもめがこの国に攻めて来た…その頃、犬夜叉さまの父君は…西国を支配しておった…必然的に両者は激しくあいまみえ、暗雲と暴風を呼び…凄まじい嵐を巻き起こした…」 いつしか落語のように扇子を持ち出してまで語っていた冥加だが、語るその口は止めないままにいそいそと動き出す。かと思えばなにやら風呂敷を取り出し、自身のあらゆる荷物を丁寧に包み込んだ。 「そしてついに、飛妖蛾めを自らの牙で封印し…大陸の妖怪どもを追い返すことに、成功したそうですじゃ……って…」 帽子を被り、杖まで用意した冥加が風呂敷を背負って歩き出そうとした途端、鋭い爪にひょい、と摘まみ上げられた。小さすぎる冥加に抵抗などできるはずもなく、そのまま険しい表情の犬夜叉の眼前へ連れて来られては厳しい声と鋭い瞳を向けられる。 「見てねえのか…」 「…え? いや、その…」 「てめえ、昔っから危なくなると逃げてたんだな…」 「いやあのう、父君といい、犬夜叉さまといい…無茶をなさいますから…」 嫌味たっぷりで白い目を向けてくる犬夜叉に苦笑するしかない冥加はすかさず何度も汗を拭う。それに痺れを切らしたのか、犬夜叉はかごめを呼びつけるなり背中に乗せてすぐさま強く地を蹴った。 「じゃあ、飛妖蛾って奴が…どこに封印されてんのか知らねえのか!?」 「いや、それなら聞いたことがあります…」 「どこだ!?」 「不帰の森の時代樹に…」 おぼろげな記憶を思い返しながら答える冥加の声が犬夜叉の速度に伴い小さくなっていく後ろで。ドッ、と倒れ込む七宝が疲れ果てた様子を露わにした。 「おーい犬夜叉ーっ! 待てーっ。おらを置いてくなー!」 * * * 日が沈み切り、鋭利な三日月が紺碧の空を照らす夜。大きく歪んだ時代樹の下で瑪瑙丸を呼ぶ瑠璃の声が聞こえた。 「瑪瑙丸さま…守備はいかがで?」 「見ての通りだ…」 「…その小娘は?」 「奴を誘き寄せる餌だ…」 「犬夜叉をここに…?」 瑠璃は予定とは違う計画に訝しげな声を漏らす。その視線の先には体の節々を木の蔓に巻かれ、宙に浮くように寝かされる彩音の姿があった。 瑪瑙丸はそれを見つめながら、自分を拒んだ鉄砕牙のことを思い返す。 「破壊の剣には結界が張られていた…」 「では…」 「奴にしか持つことができぬ…この牙の封印を解かぬ限り、“継承の儀式”を行うことはできぬ。そのためには、奴の鉄砕牙がどうしても必要なのだ」 地面に突き立てられた巨大な牙に忌々しげな視線を向ける。その牙こそ、犬夜叉の父が飛妖蛾封印のために残したものだ。 「しかし、こんな人間の小娘で、誘き出せるので…?」 「来る…あの一族は人間好きなのだ…」 玻璃がにわかには信じられないという様子で彩音を見据えるが、瑪瑙丸は絶対的自身を胸にそう言い切った。 「かつて、奴の父は、人間の女に惚れた。そして、その血を受け生まれた犬夜叉も、また人間とつるんでいる…」 「ほんと…物好きなこと…」 まるで嘲笑うように瑠璃の口元が孤を描く。すると瑪瑙丸は彩音を見つめたまま玻璃を呼び、返事をする彼女にとって少し耳を疑うような言葉が投げかけた。 「この女を支配しろ」 「…は?」 「半妖を始末するのに、ちょっとした座興を思いついた」 「承知いたしました…」 含みのある笑みを浮かべて背後の牙を見つめる瑪瑙丸。その思惑を汲んだ玻璃は頭を下げると抱いていた雲母を瑠璃に預け、今だ深く眠る彩音に歩み寄った。そして自分の額の勾玉から同じものを複製させ、彩音の額に宛がおうと手を伸ばす。 ――額にそれを埋め込めば、その者は玻璃の意のままに動く人形となるのだ。 そのため彩音も術式に嵌めようと勾玉をかざす――だがそれはバチバチッ、という激しい音と共に電気のような光を迸らせた。かと思えば勾玉は強く弾かれ、玻璃の手を離れて地面に転がってしまう。 その様子に気付いた瑪瑙丸が訝しげな顔で振り返る中、同じく怪訝に思ったらしい瑠璃がわずかに狼狽える玻璃の背後から顔を覗かせた。 「どうした玻璃」 「この小娘、強い霊力を持っている…巫女なのか?」 「まさか…こんな奇天烈ななりをしてるのに…」 彼女らにとって見たこともないセーラー服を纏う彩音は到底巫女だと思えないのだろう。その姿を見つめながら、二人は信じられないといった様子を露わにした。 それに対して瑪瑙丸はなにかを訝しむようにひとしきり彩音を眺めると、やがて「…そうか」と小さな声を漏らした。 「覚えがあるとは思っていたが…その白い髪飾り…龍神より不死の御霊を授かったという巫女か…」 「不死…?」 「この小娘が…?」 瑠璃と玻璃は聞いたこともない巫女の話に眉をひそめる。瑪瑙丸も確信があったわけではないが、もしそうだとすれば使える、と不気味な笑みを湛えた。 瑪瑙丸は静かに心臓の前へ手を伸ばす。そこで人差し指と親指をなにかを摘まむように曲げると、間にわずかな赤い光を灯らせて小さなかけらを顕現させた。 「これを使うてみよ」 「四魂のかけら?」 「よろしいので?」 差し向けられたそれに二人は思わず問うてしまう。なぜならそれは瑪瑙丸を甦らせたものであり、圧倒的な力を与えてくれるという、妖怪ならば殺し合ってでも手にしたい垂涎ものなのだ。 しかしそれを知っていながら瑪瑙丸は言葉を覆す様子はない。それどころかかけらを摘まむ指に力を込め、滴らせた己の血で禍々しい深紅に染め上げて見せた。 「真に強い者ならば、こんなものは必要ない」 呟くようにそう言い、瑪瑙丸はピッ、とかけらを弾き飛ばす。赤く染まったかけらは同色の光を引きながら玻璃の元へ飛んでいき、受け止めた彼女の手によって勾玉に重ねられた。 「ふふ…」 玻璃から笑みがこぼれると同時に、仄かな光を放つ勾玉は赤い四魂のかけらを吸収して赤く染まる。やがてそれらが一体になると、再び玻璃の足が彩音の方へ向けられた。 前髪を分けられ露わにされた白い額。そこへ勾玉を押し込むように当てれば、先ほどのように抵抗されることもなくスウゥゥ…と薄くなってった。 「…んっ…」 勾玉が完全に中へと消えた瞬間、意識を取り戻した彩音がわずかに表情を歪めて身をよじった。しかし体は木の根に拘束されて動かすことができない。その違和感に目を開くと、彩音はようやく自身を拘束するそれに気が付いた。 「なにこれ、木の根…? んっ、はな、せっ…あっ!」 引き千切ろうと腕や足に力を込めた途端、木の根がボロッと崩れて地面に叩き付けられてしまった。思わず尻餅をつくような形になったことに苦悶の表情を見せる彩音を、瑠璃と玻璃は愕然とした様子で見つめる。 「こいつ…封じの根を苦もなく解くとは…」 「巫女の力を持つというのは本当のようだな」 「! あんたさっきの…」 見覚えのある声に瑪瑙丸の姿を見とめ、ようやく自分が攫われたのだと知っては周囲を見渡す。知らない場所に自分ただ一人。犬夜叉も誰もいないのだと気付くと、鋭い瞳で瑪瑙丸を睨みつけた。 「犬夜叉はどこ」 「心配せずとも奴はもうすぐここに来る」 「まさか、私を囮に…?」 瑪瑙丸の不穏な笑みにそれを悟っては強く唇を噛みしめる。あの時気を失ってなければ…と後悔の念に駆られていると、不意に「ふーっ…」と動物の威嚇の声が聞こえてきた。 「き、雲母っ…!? なんで…」 「この子はもう私たちのもの…」 「なっ…」 平然と告げられる言葉に耳を疑う。だが雲母があれほど信頼し合っている珊瑚を裏切るとは思えず、こちらへ毛を逆立ててくる雲母に目を凝らすよう強く見つめた。すると額に見えた、勾玉のような形をしたわずかな光。 それに気付いた彩音はすぐさま燐蒼牙を構えた。 「雲母を返して! 今すぐ!」 「お前たち、この小娘の相手をしておあげ」 彩音の要求に構わず玻璃が静かにこちらへ腕を向けてくる。その言葉が虚空に消えると同時に、どこからともなく大量の蛾が現れた。それは彩音が驚き目を見開く間にも視界を埋め尽くさんばかりに群を成し、彩音を翻弄するように襲いかかってくる。 「やめっ…この…!!」 また鱗粉を吸わされては抵抗もできない。それを思うとすぐに口元を覆い隠し、必死に燐蒼牙を振るった。だがあまりにも数が多すぎるそれを薙ぎ払うことは叶わず、いつしか彩音は追い込まれるようにその場に膝を突いていた。 成す術がない。その様子を見つめる玻璃が愉快そうな笑みを漏らす中、突然とてつもない勢いで回転する獲物が現れ大量の蛾を蹴散らした。 「あれは…飛来骨!?」