優しくありながら、不穏な気配を孕む光が周囲を照らす。それに犬夜叉だけでなく
彩音やかごめまでもが顔を上げれば、空に分厚く垂れこめていた暗雲が散り始めている様子が見てとれた。
そしてこの清浄とさえ感じられる光を放つそれが、ゆっくりと姿を現していく。
「満月…?」
かごめがたまらず呟く。その言葉の通り、そこに覗いた光の正体は大きな満月であった。
神楽もこの現象は想定していなかったのだろう、どこか怪訝な様子が垣間見える表情でそれに視線をくれている。
誰しもが徐々に全貌を現わしていく月を見上げる中、不意にどこからともなく桜の花びらが柔く舞い降りてきた。
周囲に桜の樹などない。だがそれでも確かに降り注ぐ花びらは幻想的に揺らめき、まるでこの景色が現実のものではないかのような錯覚を抱かせるほど華麗に舞い散っていた。
『限りなき、思ひに焼けぬ皮衣…袂かはきてけふこそは着め…』
満ちる静寂の中に突如として現れた、儚さを孕む美しい声。聞き馴染みもなく姿さえ見えない第三者のそれに眉をひそめた時、神無の持つ鏡がまるでひとりでに光るかのように強く光を瞬かせた。
「…なんだ…?」
――なにかがいる。神楽と神無とは別に、何者かが。それを悟った犬夜叉が鉄砕牙を支えに傷だらけの体を起こし呟けば、それに応じるよう鏡の中に現れた赤紫色の線が五芒星を描き出した。
そして『ふふふふふ…』と胡乱げな笑い声が漏らされるとともに、五芒星の向こう側で何者かの影が色濃く浮かび上がってくる。
感じたことのない気配。それに気が付いた犬夜叉はすぐさま声を荒げた。
「何者だてめえはっ」
『我が名は神久夜…
永遠なる夜の支配者…』
やがてその姿をしかと現わした神久夜は夜闇のように黒く艶やかな髪を垂らし、紫を基調とした佳麗な装いで妖艶さを纏いながら犬夜叉を見据える。
だがその女は彼にとって初めて目にする人物。覚えのないそれに「神久夜だと…?」と怪訝そうに復唱しては、警戒するように表情を強張らせた。
「けっ、おれになんの用だ!」
まるで雪のように激しく舞い落ちる花びらの中で犬夜叉は凄むよう声を荒げる。
だがその体は鉄砕牙で支えるほど満身創痍の状態。そんな有り様で新たな勢力に立ち向かえるはずがないだろう。そう不安をよぎらせた
彩音が「犬夜叉!」と声を上げて加勢に駆け出そうとした――が、
「下がってろ! こいつ、やばいぜ…」
突如上げられた制止の声に続き、神久夜から一切目を離すことなく息を飲むように呟かれた言葉に思わず足を止める。
彼がそのようなことを口にするなど滅多にないこと。それほど恐ろしい相手なのかと思わざるを得ないその様子に状況の悪さを一層痛感させられては、止めた足を後ずさらせてしまいそうになりながら神無の手中を見つめた。
その視線の先では変わらず犬夜叉を見据える神久夜が胡乱げな笑みをこぼす。
『ふふふふ…わらわには見える。お前の内なる願い…暗黒の心に支配されし
真の姿…醜い獣…』
囁きかけるように言葉を紡いでいくと同時に、その鏡面に犬夜叉の姿を映し出す。すると鏡の中の犬夜叉は神久夜の言葉に姿を暴かれるよう、溢れ出す妖気に身を任せるまま妖怪化して恐ろしい咆哮を上げた。
――これこそが、犬夜叉が望んでいることだと言わんばかりに。
それを目にした犬夜叉は地面に突き立てていた鉄砕牙を引き抜き、疎ましげに眉根を寄せながら神久夜を鋭く睨み付けた。
「なにほざいてんだ。そっから出てきやがれ!」
そう声を荒げた犬夜叉は強く駆けだしながら「風の傷!」と叫び鉄砕牙を振るった。途端、放たれた衝撃が地面を抉るように破壊しながら勢いよく神楽たちへ迫る。
だがそれが容赦なく彼女たちへ浴びせられるその寸前、眼前に青く澄んだ光が現れて壁となるように風の傷を防いでしまった。
「なにっ!?」
思いもよらないその力に犬夜叉は目を見張る。
光の壁は凄まじい風の傷の衝撃に打たれながらも揺らぐことなく、やがて衝撃が消え失せるとともに静かに虚空へ溶けていった。そうして巻き上げられた土煙が次第に散っていく中、光の壁に守られていた神楽たちは当然のように傷ひとつない姿を犬夜叉の前に現してみせる。
「けっ、そうかい。だったら直接たたっ斬ってやる!」
すぐさま次の手を打つよう声を荒げながら駆け出す犬夜叉は両手で鉄砕牙を握り締め神楽たちの元へと駆けていく。その姿にすぐさま扇を開いた神楽は「竜蛇の舞!」と口にしながら勢いよく扇を振り切った。
途端に放たれる複数の竜巻が犬夜叉の行く手を阻むように迫る。だがそれでも犬夜叉が足を止めることはなく、真っ向から飛び込みながら大きく振り上げた鉄砕牙に力を込めた。
「爆流破!!」
叫ぶような声とともに強く大きく鉄砕牙を振るう。その瞬間繰り出された凄まじい衝撃は渦を巻き、神楽の竜巻さえ飲み込むように激しくうねりながら神楽たちへと迫った。
その威力に神楽が思わず「なに!?」と声を上げる。
地面が破壊され、岩片が激しく飛び散る絶体絶命の状況。そんな時に、どういうわけか神無が怯むことなく小さな一歩を踏み出した。
「神無っ」
『愚かな…』
神楽がたまらず神無を呼ぶとともに、鏡を黒く染めた神久夜が短く呟く。
直後、鏡が眩く光り輝いたかと思えば、神楽たちの前に薄っすらと黒い光の玉が現れた。それは瞬時に深淵を思わせるような黒に染まると同時、突如激しく暴れる爆流破を渦巻かせるようにしながらその身へ吸収していく。
「な、なんだ!?」
「爆流破が…吸われてる!?」
思いもよらない、理解のできないその現象に犬夜叉と
彩音が息を飲むよう声を上げながら目を見張る。誰しもが目を疑うように黒い光の玉を見上げていれば、それはやがて静けさを取り戻すように爆流破を全て飲み込んでしまった。
爆流破が、渾身の技が呆気なく取り込まれてしまった。その揺るぎない事実に呆然と立ち尽くす犬夜叉が「くっ」と歯を食い縛った――その時、視線の先に浮かび上がる黒い光が、突如雷雲の如く眩い稲妻をいくつも走らせながら大きく広がり始めた。
とてつもなく肥大化していくそれがやがて拡大を止めたその瞬間、大気が大きく揺るがされる衝撃が走る。
――直後、それは吸収した爆流破を四方八方に勢いよく吐き出してみせた。
衰えることのない、むしろ威力を増しているとさえ感じる爆流破の凄まじい衝撃は地面を穿ち、地形を変えてしまうほど激しく周囲を破壊する。地面を波打たせるように破壊しながら伝わるその衝撃は、隆起する地面によって犬夜叉の体を逃げる間もなく容易く攫ってしまった。
だが犬夜叉はすぐさまその場を飛び退き逃れ、体勢を整えんと顔を上げた――その時、すでに正面には次なる爆流破が迫っていた。
「なっ!?」
「犬夜叉っ、おすわりいっ!」
同時に犬夜叉と同じ光景を見た
彩音が咄嗟に言霊を響かせる。その瞬間念珠の力によって強引に地面へ叩き付けられた犬夜叉の体に確かな重みが飛び込んできた。だがその重みの正体を確かめられるほどの余裕はなく、地面に押さえつけられる犬夜叉は真上を激しく過ぎ去っていく爆流破の風圧に歯を食い縛り続ける他ない。
そんな彼の姿を前に、神楽の高らかな笑い声が響かせられた。
「犬夜叉、あんたも落ちぶれたもんだねえ。女に守られるんだからさ」
嘲笑うように言い捨てられる言葉。犬夜叉はそれに悔しさを募らせながら微かに目を開くと、視界の端に見慣れた姿を見つけた。
彩音だ。どうやら咄嗟に駆け寄るも間に合わないと踏んだ彼女は、言霊で強制的に犬夜叉を沈めてはそのまま彼を守るように覆い被さったようだ。
自らの体の上で必死に爆風に耐える彼女の姿にそれを悟った犬夜叉は、言いようのない感情に一層歯を食い縛っていた。
――やがてあの黒い光が消えた頃、辺りは奪われた爆流破によって激しく破壊され荒れ果てた姿を晒していた。それだけではない、まるで生気を失ってしまったかのように一面灰色になっている。
そんな惨状に立ち込める土煙が景色を薄っすらと霞ませる中、一人離れていたかごめが犬夜叉と
彩音を捜すよう大きく声を響かせていた。
そんな彼女が踏み出す場所に広がる、鮮やかな色。死んだように色を失った景色の中で、どういうわけかかごめの周囲だけは元の色を見せていたのだ。まるで、かごめが色を与えているかのように。
「あの小娘…あの娘だけ時の流れが違う…」
その様子を見ていた神久夜が空に浮かぶ羽根の上で怪訝そうに呟く。しかし神久夜にとってのその異常はかごめだけでなく、彼女が駆け寄っていく先で犬夜叉に手を貸す
彩音からも感じられた。
「どういうわけだ…あの娘、すでに時が止まっている…」
彩音の姿に異変を感じては眉をひそめながら小さくこぼす。
時が止まっているものは本来動くことはできないはず。だというのにその視線の先の
彩音は動きに淀みを見せることもなく至極当たり前のように動いている。
その不可解な彼女に神久夜が黙り込めば、その様子を不思議に思った神楽が同様にかごめたちを見下ろしながら問うた。
「いいのかい? 放っといて」
『望みのものは手に入れた…』
気がかりはあるが、見たところ脅威には感じられない。ならば、いまは目的の遂行が先決だろう。そう考えた神久夜はその一言で今回の目的の完了を示唆した。
すると神楽は音もなく羽根を旋回させ、静かにその場を離れていく。
――富士五湖、本栖湖。
再び富士の麓へと身を移した神楽たちは新たな湖へと訪れ、これまで同様に持ち帰った火鼠の衣をそこへ落とした。緩やかに舞う火鼠の衣はやがて水面に触れ、真円の波紋を広げる。そうしてその身を水に侵食させていき、静かに飲み込まれるよう水底へと舞い落ちていく。
『なごりなく、燃ゆと知りせば皮衣…思ひの外に、置きて見ましを…』
遠ざかる火鼠の衣を見つめながら神久夜が儚げに詠う。それに伴い、赤い文様が光りを灯した。
こうして光を灯した文様は三つ。沈黙を守り続ける文様は、残り二つ。それらが円を描くように並ぶその中心に立つ神久夜は、ただ静かに佇むままそれらの光が揃う時を待ち続けていた。
静けさを保つ、夢幻城を思いながら――
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