05

深く濃い霧に景色を霞ませる荒れ地。まるでなにかに蹂躙されたかのようにひどく捻じれ朽ち果てた歪な木々が広がる景色の中で、細く長い死魂虫が木々の間を縫うようにその身を滑らせていた。 それが向かう場所には桔梗の姿。彼女は戻ってきた死魂虫に寄り添われるなり目を閉じてそっと耳を傾けた。 「そうか…奈落と入れ替わりに現れたこの邪気の正体は…」 自身の代わりに広く様々な地へ情報を集めさせていたのだろう。声のないその妖怪から話を聞いた桔梗は、閉ざしていた目を静かに開いて呟いた。 「見届けるか…」 * * * 鮮やかな茜色に染まる空の下。切り立った山間の、赤い日差しが届かないほど深く影に覆われる底には、巨大な肋骨を表すように太く大きな骨が地面からいくつも伸びていた。 そしてその中を流れるか細い小川――それだけは周囲に反して煌々と輝き、真っ赤な夕空の色を映している。 人気もなく、地を伝う水のせせらぎしか聞こえない静かなその場所で、手にした不思議な枝を退屈そうに見やるのは神楽であった。 「まだかい?」 翡翠色の玉を実らせる枝を見回すのも飽いたか、どこかうんざりした様子の声を落とす。その視線が向けられた先には、炎のような赤から黄のグラデーションに染まる小川へ手を伸ばす神無がいた。 彼女は呼び掛けに声を返すこともなく、小川からなにかを拾い上げては強く光を反射するそれを神楽に見せるよう振り返ってくる。 「それが龍の首の玉か」 ようやく目当てのものを見つけたらしい神無の元へ歩み寄りながら言えば、神無は静かに頷きを返す。そんな彼女の両手に包まれるよう掬われたそれは、自ら放っているかのように眩い光を見せる、不思議な模様の入った透き通る硝子玉であった。 ――富士五湖、山中湖。 満天の星々がきらめきを見せるほど夜の帳が下りた頃、煙を吐く富士山の傍へ羽根を寄せた神楽たちは湖の上でその身を留めた。そして先ほど見つけ出した龍の首の玉を、ただ静かに湖へ落とし込む。 『“我が弓の力は龍あらば…ふと射殺して、首の玉は取りてむ…”』 無数の泡を纏いながら沈みゆく玉を見つめ、神久夜が詠う。それに伴うよう、どこかで龍の首の玉を模した黄色の文様がカアッ、と光を灯すのを感じては、静かにその場をあとにした。 ――そうして次に訪れたのは富士五湖、精進湖。同様に湖の上で羽根を止めた神楽は、指示通り湖へ玉の枝を放り捨てた。それが小さな音を立てて水に飲まれれば、緩やかに沈んでいくそれを見つめる神無が微かに口を開いた。 「“まことかと聞きて見つれば、言の葉を…飾れる玉の枝にぞありける…”」 儚い声で詠われるとともに、先ほど同様玉の枝を模した緑色の文様が光りを灯す。それを確かめた神久夜が『あと三つ…』と呟くのに応じるよう、神楽が羽根の高度を上げた。 「次はどれにする?」 「火鼠の衣…犬夜叉…」 神無が繊細な声で指示をすれば、神楽は「あいよ」と短く返して羽根を高く大きく舞い上がらせる。そうして満月に消えるようその身を高く昇らせた彼女たちは、犬夜叉の元へと迫りゆく―― * * * ――同日、夕刻のこと。神楽たちが各地を巡る頃、骨喰いの井戸がある森には戦国時代に戻ってきた犬夜叉と彩音とかごめの三人の姿があった。 村に戻るでもなく留まっているのは、かごめが突然「いいもの作るから、ちょっと待ってて」と言い出したため。言われるがまま足を止めた二人はなにやら作業を始めてしまうかごめの傍で不思議そうにその様子を見つめていた。 「なにやってんだ?」 「ん? せっかく撮ったんだから、これをこーして…」 犬夜叉に問われた彼女はそう言いながら証明写真機で作成された写真にハサミを入れていく。彼女の手に隠れてあまり見えないが、どうやら犬夜叉の顔と彩音の顔を切り取っているらしい。なぜそんな切り抜きを? と思ってしまう彩音がその手元をしかと覗き込もうとした時、 「はい、できあがり」 かごめがそう声を弾ませながら満足げに顔を上げた。かと思えば彼女は手元でパチ、と小さな音を立てて、なにやら楽しげに二人の方へ振り返る。 「二人とも、じゃんけんしてっ」 「じゃんけんだあ?」 「なんでまた急に…」 「いいからいいから」 かごめの唐突な要望に首を傾げる二人だが、かごめは構わず笑顔でじゃんけんを促してくる。それに戸惑うように彩音と犬夜叉が向き合えば、「じゃあ…」と口にした彩音が手を差し出した。 なにかと役に立つだろうと思い、一行にはじゃんけんを教えていたため犬夜叉も迷うことなくそれに続くよう手を出してくる。そうして互いに「じゃーんけーん、ぽん」と声に出しながら何度かあいこを繰り返し、やがて勝者は犬夜叉に決まった。 だが、なんのためのじゃんけんなのか。それがさっぱり分からない二人はかごめを見やり、さらに犬夜叉は「終わったぞ」と次を促すように彼女へ告げる。するとかごめは変わらずにこにこと笑みながら犬夜叉へ歩み寄っていった。 「じゃあ勝った犬夜叉にはご褒美。はいっ」 「なんだよ」 「ペンダント?」 かごめが“ご褒美”と称して満足そうに犬夜叉の首にかけたもの、それは先ほどからかごめがなにか手を加えていた金色に輝くハート形のペンダントであった。 しかし犬夜叉にとってそれは見慣れないもの。少し怪訝そうな様子からすぐに外してしまうかも、と感じたかごめは念を押すように言いだした。 「これを肌身離さず持ってるのよ」 「それでどうなるんだ?」 「うーんと…願いごとが叶うようになるの。それはもう四魂の玉を凌ぐほどの効果があって…」 「嘘つけっ。こんなもん、おれは死んでもしねーからな」 犬夜叉に持たせておきたいからだろう、適当なことを言って誤魔化そうとしたかごめであったが、不満げな声を上げる犬夜叉は結局ペンダントを外してかごめに押し付けてしまう。 その様子を見ていた彩音は「まあ犬夜叉にハートはね…」と少し的外れな思いで苦笑してしまったのだが、対するかごめは諦めたくないようで「いいじゃないそれくらい!」と声を上げながら犬夜叉に押しつけ返した。 「あんたは彩音がいないとダメだから、ずっと一緒にいられるように二人の写真を入れてあげたのよっ」 「ちょっと待ってかごめ、なに恥ずかしいもの作ってんの!?」 突然飛び出した思いもよらない言葉に彩音は愕然としながら彼女に詰め寄ってしまう。 どうやらかごめはペンダントを開いた左側に犬夜叉、右側に彩音の顔写真をはめ込んでいたというのだ。確かに写真を加工していることは分かっていたが、まさか自分たちの写真がそんなことになっているとは考えもつかず、それも昔のベタなカップルのようなものを作られているということに彩音は顔を真っ赤にするほど恥ずかしさを覚えてしまっていた。 もしかしたらかごめの時代では普通なのかもしれない。だがその未来に生まれ過ごしていた彩音からしてみれば色んな意味で恥ずかしすぎる。そう思って慌てて破棄させようとした――が不意に、犬夜叉がなにかに気が付いたようはっと顔を上げた。 「犬夜叉?」 「どうしたの、なにかあった?」 彼の様子が気掛かりで、かごめと彩音は不思議そうに犬夜叉へ問う。するとわずかに真剣な表情を見せる彼はスンスン、と鼻を鳴らし、確かめるように周囲の匂いを嗅ぎ始める。 直後―― 「この臭い…まさかっ」 「えっ、ちょっと犬夜叉!?」 「なによいきなりっ」 なにかに勘付いたよう突如駆け出してしまう犬夜叉の姿に二人は目を丸くする。 彼は一体なにを嗅ぎ付けたのか。なにひとつ分からない彩音たちであったが、犬夜叉のただならぬ様子に不安を抱いてはすぐさま頷き合って足を揃えるようにあとを追いかけた。 ――辺りが薄暗く闇に包まれ始める中、森の中を駆け抜ける犬夜叉は険しい顔をして鉄砕牙の鞘を握り締めていた。 「(間違いねえ、奈落の臭いだ! 奴はまだ生きてたんだ!)」 先ほどから感じる、忘れもしない臭い。その源は先日倒したはずだというのに、それでも確かに存在するそれの臭いに眉間のしわを深めながら懸命に足を強く速く回し続けていた。 森を抜けるとともに、不穏な風が強く吹き体を打ち付ける。いつしか空は重く禍々しさを感じるほど黒い雲に覆い尽くされ、夜とは違った暗さを世界に落としていることが見て取れた。それでも犬夜叉は足を止めることなく、臭いが強い朽ちた大木の元へと迫っていく。 そこに、白く眩い光が瞬いた。まるでこちらの動きに伴うような瞬きに眉をひそめて足を止めれば、数メートル先に二つの人影が立ちはだかっていることに気が付く。 「ふふふ…来たね」 そう怪しく笑みを浮かべるのは神楽。隣には鏡を抱える神無も佇んでおり、先ほどの光の瞬きが彼女の鏡であったことを悟る。 しかし、見えるのは彼女たちだけで奈落の姿はない。どうやら臭いの元は奈落から生まれた彼女たちのものであったようだ。それを察した犬夜叉は「へっ、てめえだったか神楽」と吐き捨てるように言い、勢いよく鉄砕牙を引き抜いて声を荒げた。 「奈落の敵討ちにでも来たのか!」 「奈落? そういやそんな奴がいたねえ…ふっ。もういまは関係ないさ!」 その言葉とともに突如扇を振るわれ、途端にいくつもの風の刃が放たれた。それが瞬く間もないほどの素早さで迫るが、犬夜叉は咄嗟に強く地を蹴り大きく跳躍しては掲げた鉄砕牙を両手で握りしめるほど強く構えた。 「じゃあなんの挨拶だ!」 声を荒げ、神楽を叩き斬るように真上から鉄砕牙を振り下ろす。しかし神楽はそれを寸でのところで飛び退るようかわし、犬夜叉も地面を叩き付けると同時にすぐさま彼女を追うよう飛び掛かる。 ――そこへ、自転車で犬夜叉を追っていたかごめと彩音が辿り着いた。彼女たちが自転車を放って駆け付ける中、渦中の神楽は高く舞い上がりながら広げた扇を大きく掲げてみせる。 「風刃の舞!」 強く振るわれる扇から再び風の刃が襲いくる。しかし犬夜叉はそれに怯む様子もなく飛び込み、鉄砕牙で斬り捨てるように風の刃を打ち消してみせた。そうして互いが地面に降り立ちながらも、足を緩めることなく激しい攻防が続けられる。 「神楽…!?」 「生きてたの…!?」 すぐそこで犬夜叉と闘う彼女の姿にかごめと彩音が目を疑うよう驚きながら声を漏らす。 しかしそんな二人などは眼中にもないようで、絶えず距離をとるよう駆ける神楽は犬夜叉へ向かって再び扇を構えた。 「竜蛇の舞!」 そう声を上げ振るわれた扇から複数の竜巻が放たれる。凄まじい威力を見せるそれは犬夜叉を取り囲むよう襲い掛かり、懸命にかわそうと身を翻す彼を追い込んでいく。それに「くっ」と疎ましげな声を漏らした犬夜叉は隙を見て強く地を蹴り、竜巻の届かない高さへと抜け出すべく大きく跳び上がった。 だが―― 「! しまった!」 たまらず声を上げるほど強い後悔を瞬時に抱く。なぜなら神楽は犬夜叉のこの行動を先読みしており、彼が跳び上がると同時に風の刃を放っていたのだ。それに気が付いた時にはすでに風の刃は目前。大きく後方に飛び退ろうとするも刃は犬夜叉へ容赦なく襲い掛かり、彼の体の至るところを斬りつけるように衣を刻んでいった。 そのわずか一瞬の間。何度も斬り付けられた左の袖が千切られるように犬夜叉を離れ、痛々しく高く空に舞い上がっていく。 すると犬夜叉が力なく地面に転がり、その姿に肝を冷やした彩音たちは慌てて彼の元へと駆けだした。 「犬夜叉っ」 「来るな!」 突如上げられる強い声。それに驚くよう足を止めれば、犬夜叉は悔しげに顔を歪めながら傷だらけの体を起こそうとしていた。 しかし対する神楽は追撃することなく、それどころか犬夜叉の方に目をくれることもなく風に舞わされる衣の袖を受け止める。 「手に入れたよ。火鼠の衣」 「な…」 神無の方へ向けられた彼女の言葉から、狙いは最初から火鼠の衣であったことを知り目を丸くする。 なぜ突然神楽たちが火鼠の衣など欲するのか。意図の見えないその様子にたまらず眉間のしわを深めた――その時、突如頭上から柔らかくも強さを感じる確かな光が降り注いできた。