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ただ静かに、森の中の獣道を進んでいく。 ――私が奈落に操られたあの日から、数日が経った。あれからなにか変わったかといえば特にそれらしいこともなく、私の体力が回復するに合わせて再開された旅はいままで通り続いている。 けれどそんな中でも、ほんの少しのちょっとした変化は確かに感じられた。 「りんちゃん、眠いの?」 「んー…」 阿吽の背で何度も目をこするりんちゃんに問いかけてみれば返事というには物足りない声が返ってくる。これはもうほとんど寝ていると言っても過言ではない。私が呼び止めようと殺生丸さまの方へ向くと、彼はすでに足を止めてこちらへ振り返っていた。 「少し休むか」 「はい、お願いします」 この辺りなら妖怪の気配もなく安全だということで、すぐに休息を取ることとなった。私は阿吽を木陰に連れて行ってはりんちゃんを降ろし、その場に伏せる阿吽の隣に寝かしつけてあげる。 ――そう。変化と言えば、殺生丸さまが以前よりも私たちを気にかけるようになったことだ。 どうやら殺生丸さまは私が奈落に攫われ操られたことを気にされているらしく、あれ以来妖怪などの不穏な気配には一層敏感になられているし、なにかが近付こうものならすぐに助けてくださる。そして奈落に仕込まれたものによって身体的に無理をした私を労わってくださるのが延長して、体調が優れない素振りを見せるとすぐさま休息に移るようになった。 もちろん、これだけ気にかけてくださるようになった理由はお互いの気持ちを打ち明かし、より親密になったことも含まれているのだけど。 「志紀」 現代から持ってきていたブランケットをりんちゃんにかけていると、不意に殺生丸さまから呼びかけられた。その声に振り返ってみれば、殺生丸さまはこっちに来いと言わんばかりに踵を返して歩き出してしまう。 どこかへ行くんだろうか。ひとまず邪見に「留守番よろしくね」とだけを言い残してはすぐさま殺生丸さまの元へ駆けていった。 ――ほどなくして追いつくも殺生丸さまは足を止めることなく顔だけを振り返らせてきて再び前を向く。その隣に並んで歩みを進めていれば、辺りでさえずっている小鳥たちの声が安らかに木霊した。 自然に包まれている。そんな感覚でふと頭上を見上げてみれば、せめぎ合う木々の隙間から木漏れ日が差し込み、まるでプラネタリウムのように煌めいていた。 「たまにはこんな時間もいいですね」 あまりない珍しい時間に、たまらずそう囁きかける。 私たちは基本的にみんな揃って行動をするため、私と殺生丸さまが二人きりになることはそうそうなくて、この瞬間がすごく新鮮に思えた。それを殺生丸さまも同様に思ってくださったのか、前を向いたまま「そうだな」と返される。 「…ところで、どこに行くんですか?」 「もう少しだ。じきに見える」 そうは言われるけれど、辺りは一面緑一色の獣道だ。殺生丸さまは私になにかを見せたいようだけど、この光景がもう少しで変わるとは思えないほどに深く森が続いている。 それでも殺生丸さまの言葉を信じて歩みを続けていると、なにやら次第に明るく開けた場所が見えてきた。そこには鮮やかなものも見えて、なんだか輝かしさを感じられる。 鬱蒼とした森の奥に、こんな場所があったなんて。それを思いながらつい小走りになって森を駆け抜けてしまえば、途端に広大な花畑が姿を現した。 「わっ…すっごい綺麗…! 殺生丸さま、この場所知ってたんですか?」 「匂いがしてな。お前が喜ぶかと思って誘ったのだ」 「そうだったんですね…ありがとうございますっ」 少しらしくなさも感じてしまうようなその気遣いが嬉しくてたまらず笑顔がこぼれる。せっかくだから二人でこれを満喫したくて、私は殺生丸さまの手を引いてすぐさま花畑に駆け込もうとした。 けれどその時、不意にずる、という音が響くと同時に私の体が大きく傾いて。思わず「あ゙っ」なんて情けない声を漏らした私はそのまま思いっきり花畑の中に倒れ込んでしまった。それも、殺生丸さまを巻き込んで。 途端にいくつもの花弁が舞い上がる中、まるで私が押し倒されたかのような形になっていることに気が付いては慌てて謝罪の言葉を口にしていた。 「す、すみませんっ…! また殺生丸さまを巻き込んじゃって…」 「本当にお前は…いつも忙しないな」 そう言うと殺生丸さまは私の頬にかかった自身の髪を優しく払いのけてくれた。よかった、怒ってはないみたい。そう思いつつも、私は苦笑を浮かべてもう一度すみません、と謝った。 その時、顔のすぐ傍でゆらゆらと揺れる一輪の花が目についてふと気を取られてしまう。私はそれにそっと手を触れながら、脳裏に甦ってくる懐かしい記憶に思いを馳せていた。 「殺生丸さま…覚えてますか? 私がこの世界に来て、初めて妖怪に襲われた日…あの時も、こんな花畑にいたんですよね」 「ああ…そうだったな」 殺生丸さまはそう返事をくれるものの私がなにを言いたいのかは分からないようだった。その様子をちらりと横目にしながら私は手の中の花を軽く弄ぶ。 「私、あの時…初めて本当に死ぬんだって思って、すごく怖かったんです。でも殺生丸さまがすぐに助けに来てくれて…本当に嬉しくて…もしかしたら私、あの時から殺生丸さまのことを意識してたのかもしれません」 「志紀…」 「最初はこの人を信用しても大丈夫なのかなーとか不安に思ってたんですけどね」 「…………」 茶化すような言葉に続けて、なーんて、と言おうとした寸前、殺生丸さまの目がじと、と私を見てくる。かと思えば明らかに私を沈めるつもりであろう手が伸ばされて、慌てた私はすぐさま抵抗するようにその手をがし、と掴み込んだ。 「い、いまは信用も信頼もしてますから! 初見です、初見の時だけの話ですっ」 すかさず懸命に弁解をすれば殺生丸さまはなんとか手を戻してくれる。その際に「お前はいつも一言多い」とぼやかれたけれど、私に対する殺生丸さまの扱いだって似たようなもので大概だと思う。 お互い様ですよ。なんて思いながらも口にはせず、差し出される手に掴まってゆっくりと立ち上がった。そうして隣に立つ彼を見つめながら、これまでの日々を脳裏に思い描く。 ――確かに出会った当時は殺生丸さまの得体が知れず怖くて、本当について行ってもいいのか不安に思ったこともあった。けれどそれはほんの一時だけで、実は優しいところがあることに気が付いてからはむしろこのお方と一緒にいたいとさえ思い始めていたくらいだ。 それはもちろん、いまでも変わらない。 それを伝えようかと少し悩んでいれば、不意に殺生丸さまの手が私の頬を撫でるように滑らされた。あまりに突然のことで、ほんの少しだけ驚いた私はドキ…と心臓を跳ねさせてしまう。 どうかされたのかな、なんて思いながら向き直ってみると、殺生丸さまはなにやら少しだけ真剣な色をした瞳を向けていた。 「志紀、」 囁くように名前を呼ばれたかと思えば真っ直ぐに見つめてくる視線を外すことなく、どこかほんの少し強張っているようにも見える表情で問われる。 「これからをどうするつもりだ」 「これから…ですか?」 唐突な問いは、私が現代に帰ることができると分かった時に投げかけられたものとなんら変わりのないものだった。けれどその答えはすでに告げている。だからこそ殺生丸さまがもう一度同じことを問うてきた理由がさっぱり分からなくてつい首を傾げてしまった。 「あの、殺生丸さま…? 一体…」 「ここにいれば、再びあのような危険な目に遭うこともあるだろう。お前がそれを恐れるなら…現世へ帰ることを、止めはせん」 私の声を遮った殺生丸さまは優しくも力強く説得するよう言葉を連ねる。 あのような…というのはきっと、私が奈落に攫われて操られていた時のことを言っているのだろう。確かにあの時は操られたことによる体の負荷なんかでかなり危なかったという。それと同じことがまたあるかもしれないし、今度は直接手を下される可能性だってある。 だからこそ――そんな危険な思いをするくらいなら安全な現代にいた方がいいのではないかと思ったからこそ、殺生丸さまはこうして改めて私に選ばせてくれようとしたのではないだろうか。 けれど彼の瞳がどこか…私の勝手な思い込みかもしれないけれど、どこか切なげに見える気がして。それを見つめる私はつい困ったような笑みを浮かべて「殺生丸さま」と彼の名を呼んだ。 「私は殺生丸さまと…りんちゃん、邪見、阿吽…みんなとずっと、ここで一緒に過ごしていたいです」 なにがあろうと、私の答えは変わらない。それを伝えるようにしっかりと彼の瞳を見つめて、真っ直ぐにその気持ちを口にした。 だって、もう二度と現代に帰れないわけでもないのだし、決断をそう急ぐ必要もないと思うから。それにもし万が一現代に帰れなくなってしまったとしても…なにがあったとしても、私は殺生丸さまのお傍を選ぶ。それだけは、揺るぎない。 自身の気持ちを改めて確かめるように思いながら笑い掛ける。そんな私を見て殺生丸さまの表情もわずかに和らぎを見せたような気がして。 つられるように安堵の気持ちを纏った私は、「それに、」と口にしながら殺生丸さまへ一歩身を寄せた。 「危険な目に遭っても、殺生丸さまが守ってくれるじゃないですか」 「…そうだな」 ふ、と小さく笑いながらあっさり肯定される。そんな彼の姿に、私は自分で言っておきながらも少し呆気にとられるよう驚いてしまった。 そっか、守ってくれるんだ。分かっていたことかもしれないけれど、こうしてはっきりと意思を示してもらえると言葉にできない高揚感に包まれる。 すごくすごく嬉しい、けれど、どこか照れくさくて恥ずかしい。 そんな思いについ視線を外してしまっていると、殺生丸さまが私に向き直るように身を寄せる。 「志紀。手を出せ」 そう呟くように向けられた声に従って、そっと手を差し出す。するとそれに被せるよう乗せられた殺生丸さまの手の中から、なにか小さくて硬い感触が落とされた。 それを不思議に思いながら見つめていれば、殺生丸さまの手が離れていくに伴ってその姿が露わにされる。 「! これ…私の…」 私の手に残されたそれは赤と青の二色が混じりあう蝶の形をした石のネックレスだった。攫われた時に落として失くしてしまったとばかり思っていたけれど、どうやら殺生丸さまが持っていてくださったらしい。 「これは私たちと過ごした証なのだろう。…もう、失くすな」 そう囁かれた殺生丸さまは私の手ごと覆うようにしてしっかりとネックレスを握り込ませる。私はその確かな感触を覚えるままに「はい」と返事をしては、小指を立てて殺生丸さまの右手のそれに絡ませた。そしてお互いの小指を優しくも確かに繋ぎ、「約束します」と小さく笑ってみせる。 その様子にほんの少しばかり驚かれた殺生丸さまがやがてフ…と小さく微笑まれると、その指を放すなり突然私の手を強く引いた。それにバランスを崩すよう呆気なく引き込まれた体は、殺生丸さまの腕の中に容易く収められてしまう。 「志紀よ、もう一度言う」 右手を背中に回してしかと抱きしめられるまま耳元で囁かれる言葉。それにえ…と小さな声が漏れそうになった私を一層強く抱きしめた殺生丸さまは、 「私の傍にいろ」 優しくも力強く、そう囁かれた。それを耳にした途端私は思わず目を大きく見張ってしまう。 ――ああ、やっぱり…あの時の言葉は寝言なんかじゃなかったんだ。 たまらず込み上げてくる涙をわずかに滲ませながら、溢れ出す感情に身を震わせる。それでも声だけは揺らがないようにしっかりと、精一杯の力を込めて笑みを浮かべた。 「もちろんですっ」 ――この果てしなく広い世界を、あなたと共に。 いつまでもずっと、歩み続けていきます。 End. back