18
あのあとりんちゃんと邪見が目を覚まして、私は予定通りみんなに手料理を振る舞った。味付けとか色々心配なことは多かったけどりんちゃんはずっと笑顔で食べてくれて。邪見は照れくさいのか分からないけど、ぶつぶつと小言を言いながらも一番食べていた気がする。
二人ほどではないけど、殺生丸さまも少しだけ手を付けてくれて「悪くはない」って言ってくれた。
それが、そのたった一言だけが、すごく嬉しかった。
本人は褒めたわけじゃないのかも知れないけど、私にとっては肯定されたような、やっと認めてもらえたような気がして嬉しさに身を震わせた。正直、終始にやけてしまいそうになる顔を隠すのは大変だった。
次は“美味い”って言ってもらえるように頑張ろう。なんて目標を抱いて、私はこれまで以上に色んな料理を考えるようになった。
――そうして数日が経ったある日のこと。
幾度かの帰宅から戦国時代へ戻ってきたいま、青々と茂る草木が囲む中をいつものようにゆっくり歩いていた。
幾度かの帰宅、というのは、ここのところ稀に現代で夜を過ごすようになったのだ。家から出なければ他人に見られる心配はないし、なによりも邪気が高まるという夜は妖怪のいない現代で過ごした方が安全だから。そう交渉すれば殺生丸さまも納得して許可してくださった。
…とはいえ、やはり無条件で許してくれたわけではない。多くても十日に一度。それ以上はダメだと言われた。
その理由はりんちゃんだ。ただでさえ人里で過ごすことが慣れていない彼女を、本来は行けるはずのない未来の生活に慣れさせるのもどうか、ということらしい。私としてはお風呂とかご飯とか、諸々満足に過ごしてほしかったけれどそう言われてしまえば否定することはできない。だから私も帰りたくなった時、用がある時はなるべく一人で帰ることにしていた。
(りんちゃんがベッドの寝心地を覚えて、固い地面で寝られなくなっちゃっても困るしね)
なんて苦笑気味に考えれば、ふと脳裏に自宅のベッドが浮かび上がった。それと同時に、殺生丸さまに無理矢理膝枕して…いつの間にか膝枕し返されていたあの日を思い出してしまう。
(な、なんでいまそんなこと思い出すのっ)
慌てて振り払うようにぶんぶんと頭を振るった。それに伴って握っていた阿吽の手綱が揺れて、阿吽から不思議そうな表情を向けられてしまう。ごめんね、なんでもないよ。そう言い聞かせるように阿吽の体を撫でてやりながら小さくため息をこぼした。
このところずっとこうだ。寝る時や現代に帰ってベッドを見た時、どうしてかいつもあの時の光景を思い出してしまう。原因はいくら考えても分からないけど、きっと“無礼なことをしてしまったという後悔”からなんだと私は考えている。実際殺生丸さまを休ませるためとは言え、あんな強引な手を使わなくても他に方法があったはずだし…。
「
志紀お姉ちゃん大丈夫? お顔、赤いよ?」
「えっ」
わずかに眉を下げて心配そうな顔を覗かせるりんちゃんの言葉にドキ、とした。その言葉の真偽を確かめるように両頬を触ってみれば確かに熱い。それを感じ取った途端、私は自分の鼓動がうるさいくらい高鳴っていることにまで気が付いてしまった。
きゅ、急にどうしたの自分…ああもう、うるさい。頭にまで響いてくる。
私が胸を押さえながら俯いていれば、りんちゃんがしゃがむよう促してその小さな手を私のおでこに触れさせた。
「うーん…風邪じゃないみたいだけど、殺生丸さまにお願いして休ませてもらおう?」
「だ、大丈夫だよりんちゃん。えっと…そう、ちょっと日差しが強いからのぼせちゃったのかな?」
「それならやっぱり休まなきゃ! りん、殺生丸さまに伝えてくるねっ」
しまった、逆効果だった…! そう思う間にもりんちゃんはすぐさま殺生丸さまの元へ駆けていってしまう。本当になんでもないんだけど、りんちゃんは完全に体調不良だと思ってしまっているようだ。
殺生丸さまはどうか気にせず旅を続けてください。そう願いながら様子を見届けるも私の願いは届かず、結局私たちは森の傍の川辺で休息をとることとなってしまった。
* * *
「よっ…と」
腰より高い岩へ飛び乗るように座り込む。
静かで川のせせらぎくらいしか聞こえないここにいるのは私一人だ。気を遣ってくれたりんちゃんには悪いけど、私は少し一人になりたくてみんなから離れている。
殺生丸さまが大丈夫か、と聞いてくれた時はなぜだかむしろ焦ってしまって。私は咄嗟に「大丈夫ですからっ!」なんて言い放って逃げるように走ってきてしまった。せっかく心配してくださったのに…感じ悪いな、私。
はあ、と大きなため息をこぼしながら胸に手を添えてみれば、確かな感触が伝わってくる。
(まだドキドキしてる…ほんと、どうしちゃったんだろう…)
このところ、殺生丸さまのことを考えると胸が高鳴って息苦しくなることがある。目が合うと心臓が破裂しそうなくらい鼓動が激しくなって、思わず逸らしてしまう。
そんなことが続いて、最近は殺生丸さまとまともに顔を合わせることすら難しくなっていた。会話もなんだかぎこちなくなってしまうし…。
せっかく殺生丸さまから声をかけてくださることが増えたのに、なんだか申し訳ない。なんて思っていれば、不意にかごめちゃんの姿が脳裏に浮かび上がった。
「殺生丸のこと、好きなの?」
なんの疑いもなく、クリアな瞳で聞いてきた彼女は本当に、素直に気になったことを聞いただけなのだろう。からかうつもりもあっただろうけど、私にそんな要素が感じられなかったらそもそもそんなことを言い出さなかったはずだ。
「好き…かあ…」
試しに口にしてみれば、なんだか途端に恥ずかしくなってくる。
あーナシナシっ。いまのナシ! 私が殺生丸さまを好きだなんてそんな…もしそうだとしても、そんなの絶対叶わない恋だ。
あの方は私には想像もできないくらい立派な妖怪で。それに引き替え私は未来からなぜか来てしまっただけの、なんの力もないただの人間だ。そんな私があのお方の恋人になんか、絶対なれっこない。
そもそも私は、本来ここにいていい人間じゃないんだから…
(……はあ。なに落ち込んでるんだろ、自分)
ふと気分を落としている自分の存在に気が付いては呆れたような笑みが浮かんだ。分かっていたことなのに、改めてそれを考えたらどうしようもないくらい気分が沈んでしまう。
ああもう、やめよう。こんなこと考えたって、どうしようもないんだから。
気分転換に散歩でもしようと地面へ足を降ろせば、不意に視界の端でなにかがちらついた。
「…?」
一瞬の光のようにも見えたそれは森の茂みの中。そこへ顔を向けてみれば、知らない間に小さくて真っ白な女の子が立っていた。服も髪も白く、肌でさえ色素の薄い不思議な女の子。その両手で抱えるように持たれた丸い鏡がさっきの光の正体なのかもしれない。
それにしても…いつからそこにいたんだろう。気配なんてこれっぽっちも感じなかったのに。
一人でうだうだ悩んでいる姿を見られたかもしれないと思うと少し恥ずかしくなったけれど、女の子は私と目が合ったことに気が付くなり小さく手招きをしてきた。
「え、私…?」
思わず周りへ視線を巡らすも、女の子のほかには私くらいしかいない。ということはあの子が呼んでいるのは私なんだろうけど…彼女がどこの誰かなんてさっぱり分からなくて、なんで私を呼んでいるのかも見当がつかなかった。
人違いかな、なんて思ってしまったけれど、あの子はずっと私に向けて手を上下に揺らしている。
(もしかして、なにか困ってる…?)
そう考えた私は女の子に招かれるまま森の中へと踏み込んでいった。
* * *
木々を掻き分けて進んでいくも辺りは木と木と木。私はあの女の子の手招きを追っていたはずなのに、気が付けばその子の姿を完全に見失ってしまっていた。
あの女の子、一体なんなんだろう。
私を手招いては一定距離で姿を消して、また離れた場所に現れては手招いて姿を消して…その繰り返しなのだ。そのおかげでめちゃくちゃ頑張っているのにさっぱり追いつけない。
実はあの子、困っているとかじゃなくてただ遊んでほしかっただけなのかな。さては鬼ごっこの上級者か。
おかげで私は迷子ですよ。全く景色が変わらない深い森の中で。
やってくれたなあの子…私にとってこの状態は完璧にデジャヴ。まさか女の子が消えちゃうなんて思いもしなかったけど、私が森に入れば迷ってしまうことくらい簡単に予想できたはずなのに。私の馬鹿。
また殺生丸さまにご迷惑をおかけしてしまう…また怒られてしまう…うっ、胃が痛い…。
「あ…そうだよ、きっと殺生丸さまがお迎えに来てくださるはず。ということは、下手に動かないで大人しく待っておいた方がいいよね」
――なんて考えてから、どれくらいの時間が経っただろう。
こういう時の体感時間はやたらと長く感じるものだけど、いまは実際に数十分ほど経っているはずだ。なんなら数時間経っていてもおかしくない。きっと。
私が動くと余計に迷いそうだし、殺生丸さまと行き違いなんてことになっても嫌だったからその場に座って待っていたけれど、どうしてだか目的の人物は一向にやってくる気配がない。
「わ…私、ついに捨てられちゃったとか? なーんて…」
冗談半分でそんなことを呟いておいて、ものすごく惨めな気持ちになった。じょ、冗談だから…実際には来てくれるって信じてるから。だって殺生丸さまは傍にいろって言ってくれた。寝言かもしれないけど、それでも私は確かに聞いた。だから大丈夫。信じていればきっと来てくださる。
そう強く願うようにしていれば、不意に木の枝を踏み折る小さな音が聞こえてきた。
殺生丸さまだ! なんの確証もなくそう思い込んだ私は嬉々の表情で立ち上がり、音の元へ振り返った。
「…あ……」
思わず力の抜けた小さな声を漏らしてしまう。なぜならそこにいたのは待ち望んだ殺生丸さまではなく、姿を消したあの真っ白な女の子だったからだ。
勝手に殺生丸さまだと思い込んだ自分にはちょっと呆れてしまう。ついはあ、と小さくため息をこぼすと、私は女の子へそっと微笑みかけてみた。
「よかった、まだいたんだね。てっきり置いて行かれたのかと思っちゃったよ。ね、森の外まで一緒行こう?」
冗談交じりでそう問いかけるも女の子は無言のまま私を見つめてくる。どうやらもう手招きもしないし、用事は済んだのかもしれない。となれば、この子は結局なんのために私を呼んだんだろう。
色々謎は残るけれど、ひとまず一緒に森を抜けるために女の子へ近付こうと足を踏み出したその時、不意に女の子の鏡が大きく傾けられて私の姿を映しだした。
「っ…!?」
鏡が途端に白く光り輝き、私の体からなにかがスゥ…と吸い出された。それと同時に全身の力が抜けていき、瞬く間に意識が朦朧とする。
そうして私が最後に見た光景は、私から抜け出た白いもやのようなものが女の子の鏡の中に音もなく飲まれていくものだった。
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