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フワ…とした柔らかな感覚に包まれながら低くなった視界にほんの少しのため息をこぼす。すると殺生丸さまは腰を屈めながら、私の体をそっと降ろしてくれた。 「あ…ありがとうございました」 未だに高鳴ってうるさい胸を押さえながらお礼を言うと、殺生丸さまはただ無言でこちらを見つめてくる。かと思えば、私の荷物がほとんど取り上げられてしまった。 「い、いいですよ殺生丸さまっ。私が持ちますから」 「いいから開けろ」 取り返そうとした手は簡単に避けられてしまい、ついには素っ気なく視線で促される。どうやら鍵が掛かっているからそれを持っている私に開けさせたかったようだけど…玄関に鍵が掛かったままなんて、一体殺生丸さまはどこから出て来られたんだ。 そんなことを思えば、過去に宿の窓から飛び出したことを思い出して嫌な予感を覚える。…あとで部屋の窓の鍵、確認しておこう…。 「りんちゃんー、邪見ー。ただいまー」 玄関に踏み込みながら二人を呼び掛けてみるも返事がない。テレビに夢中になってるのかな? なんて思いながら殺生丸さまとほんの一瞬顔を見合わせては、荷物を手にしたままりんちゃんたちがいるリビングへ向かった。 「りんちゃーん? …あ」 思わず小さな声が漏れる。覗き込んでみたソファーにはリモコンを握り締めたりんちゃんと、だらしなくよだれを垂らす邪見がくったりと横たわっていた。どうやら私たちがいない間に眠ってしまったらしい。 特に邪見は私が出ていく前から眠そうだったしね。なんて苦笑してしまいながら、傍に置いていたブランケットを二人にそっと掛けてあげた。 「ご飯は二人が起きてからにしましょうか」 殺生丸さまにそう提案すれば小さく頷きを返される。それを確認した私はとりあえず晩ご飯用の食材を冷蔵庫にしまい、日用品の類をリュックに押し込み始めた。 きっと夜が明けたらすぐに戻るはずだろうし、それまでに準備は済ませておきたい。 「んー。こんなもんかなあ…よいしょ」 パンパンに膨らんだリュックを試しに背負ってみれば思った以上の重さが伸しかかる。こ、これを持ち歩くのか…ちょっと減らした方がいいかもしれない。 リュックを床に降ろして、これはいる、これはどうしよう…と悩んでいると、不意に視線を感じて動きを止めてしまう。その視線の元へ顔を上げてみれば、表情も言葉もなくただ淡々と私を見つめる殺生丸さまが立っていた。 「どうかしました?」 「…なんでもない」 殺生丸さまは素っ気なく呟くように言うと顔を背けてしまい、その視線は点けっぱなしのテレビへと向けられた。けれどそれは番組を見ているとかではなくて、ただその方角に向けているだけのもの。 もしかしたらすることがないのかもしれない。そう思った私はベッドへ腰を下ろして隣をぽんぽんと叩いた。 「殺生丸さまも休みませんか」 そう問いかけてみれば殺生丸さまの視線がもう一度ちら、とこちらへ向けられる。すると殺生丸さまはそのまま私が促した通り隣へ腰を下ろしてくれた。 けれど、呟かれた言葉はその行動とは裏腹なもの。 「私のことは気にするな。お前こそ休んでいろ」 「ダメですよ。殺生丸さまもたまにはゆっくり休んでください。そのために帰ってきたんですから」 そう言い聞かせると殺生丸さまは驚いたように少しだけ目を丸くした。そういえばそんな理由だってことは話してなかった気がする。でも教えたいまなら素直に従ってくれるだろう。…と思ってたのだけど、そんな私の予想は呆気なく打ち砕かれた。 なぜだか殺生丸さまは納得しておらず、ほんのわずかに眉根を寄せて抵抗の意を見せてくる。 なんでそんな意地を張るんだ…。思わずむ、とした私は両手を握りしめて殺生丸さまへ向き直った。 「おりゃっ」 「!」 両肩を掴んで無理矢理ぐい、と引っ張れば容易く殺生丸さまの体が傾く。まさか私が突然こんなことをするとは思っていなくて油断していたようだ。そのまま殺生丸さまの頭を私の膝に乗せることに成功すると、案の定殺生丸さまが眉間に深いしわを刻み込んで見つめてきた。 「貴様…なんのつもりだ」 「こうでもしないと休んでくれそうになかったので。…怒りました?」 「……」 そう問いかければ殺生丸さまはフイ、と顔を逸らして「…この程度で怒りはせん」と小さく呟かれた。この程度、って言うけど殺生丸さまは少しでも気に食わなかったらすぐ切り捨てるタイプでしょう。実際私は何度もやられてますしね。 …なんて、本人に言ったらそれこそ怒られるだろうから絶対に言わないけど。 「…………」 「…………」 言わなかったら言わなかったで、変な沈黙が続いてしまった。 どうしよう…なんか喋った方がいいんだろうけど、言葉が出ない…。自分でやっておきながら、急に恥ずかしさが込み上げてきた。 冷たい表面温度の向こうにしっかりと感じられる体温。指で掬えばサラサラと流れ落ちる艶やかな銀の髪。男でありながら女の私より断然美しくて格好いい綺麗なお顔。 全てが私の手の届くところにあって、なんだかとても落ち着かない。 「えーっと…だ、大丈夫ですか? 変な感じとか…しませんか?」 「……ああ」 「そっ、そうですか…!」 どうしても戸惑ってドギマギしてしまう。 意外ながら、殺生丸さまは抵抗することなく私に身を委ねて目を伏せていた。寝ている、のかは分からないけど、黙り込んでしまった殺生丸さまの体は呼吸に合わせてほんの小さく上下している。 それを見つめていると心臓が破裂しそうなほどの鼓動を繰り返して、私は咄嗟に窓の外へ目をやった。 空には硝子色の三日月。いつの間にか夜が降りていたらしい。 「…殺生丸さま…」 ほんの小さく、蚊の鳴くような声を漏らした。額の模様があってか、三日月を見ると殺生丸さまを思い出すことがある。遠い、手の届かない存在。 ――そうだったはずなのに、気が付けば彼はいつも隣にいて手を伸ばせば届いてしまうくらい近くに感じられるようになった気がする。 それっていつからなんだろう。そう感じているのは私だけ、なのかな…。 よぎる思いに再び視線を落としてすぐ傍の三日月を見つめる。落ち着きかけていた鼓動がまた速さを増していく中、額の三日月に掛かる前髪を除けようと静かに手を伸ばした。 「志紀」 「へっ!? あっ、ふぁい!?」 あまりに唐突すぎる呼びかけにドキッ、と心臓と手を跳ねさせて返事をする。思いっきり噛んじゃったけど。 もしかして前髪を触ろうとしたのがバレたのかと思って、咄嗟に鼓動を隠すように胸を押さえたけれど殺生丸さまは黙ったまま。それ以上なにも言うことがなければ、その目が開かれることもなかった。 え…? もしかして、寝言…? こっちは心臓が口から飛び出るかと思うくらいびっくりしたって言うのに、ただの寝言だったと? それを思うと驚かされたことがなんだか悔しくて、つい仕返しがしたくなって。 そーっと手を伸ばした、瞬間だった。 「私の傍にいろ」 目を伏せたまま、小さく。それでいてはっきりと呟かれる。 寝言じゃなかった、ということよりも、まさか殺生丸さまの口からそんな言葉が出るとは、という衝撃の方が大きかったように思う。 ただ私には言葉の意味も、なんでそんなことを言ったのかも分からなくて、ほんの小さく漏らした「えっ…」いう声を最後に黙り込んでしまった。けれど殺生丸さまは返答を促すことも待つこともなく、本当に起きていたのかさえも分からないほど静かに、規則的な呼吸を繰り返すばかりだった。 (た…たぶん…寝言、だよね…) これ以上なにかを言う気配もない主の姿にそう思い込む。声をかけてみればその真偽は簡単に分かるというのに、いまの私はそんな勇気足り得るものをなにひとつ持ち合わせていなかった。 * * * ――スズメの声が聞こえる。 いつの間にか眠ってしまっていたらしいことに気が付いてはそっと目を開いた。その時、寝起き特有の掠れる視界にとてつもない違和感を覚える。別に目の前の景色が一変していたとか、そんな大層なことでもないんだけれどある意味では間違っていない。 なぜなら私の視界はやけに低くなっていたのだ。 膝枕をしていた私の視界は本来もっと高い位置のはず。それなのに今はかなり下がっていて、おまけに白い着物がほのかな温もりとともに私の顔の真下にあった。 「目が覚めたか」 聞き覚えのある声が頭上から降り注がれる。でもこの声の主は私の膝にいたはずで、そんなところから声が聞こえるはずがないのだ。 ぐるぐると混乱する頭をその声がした方へ向けてみれば、やはり思った通りの人物が、つい数時間ほど前の私と同じ状態で、下にいる私へ真っ直ぐな視線を向けてきていた。 …ってことはいま、私が殺生丸さまに膝枕をされている…? 「ごっ、ごめんなさい!! すぐどけますからっ!」 やっと状況の整理がついた途端に飛び起きようとすれば、殺生丸さまはそんな私の頭を大きな手でがし、と掴まれた。咄嗟にえ、なんて声が漏れそうになるもそんな暇はなく、私は再び殺生丸さまの膝の上に押し付けられてしまう。 「あ、あの…殺生丸さま…手、くっ…苦しい、です…」 「昨夜の罰だ。私の頭を無理矢理下ろしたことのな」 押さえ付けられて見えないけれど、そう告げる殺生丸さまの顔にはきっと意地の悪い笑みが浮かんでいるに違いない。 あの時は確かにやり方がまずかったかも知れないけど、素直に言うことを聞いてくれない殺生丸さまだって悪いはずだ。 そうは思っても口にすれば今度はなにをされるか分かったものではないから、私はただ押さえつけてくるこの手を放してもらえるまで殺生丸さまの膝をばしばしばしと叩き続けていた。 back