13

殺生丸さまが歩いていくのを追うように進む森の中。 どうやら私が必死に抜けようとしていたこの森には結界が張られていたらしく、迷いの森のような状態になっていたため脱出することは不可能だったそうだ。 殺生丸さまは私がいないことに気が付いて気配を辿り、近くまで探しに来てくださっていたのだとか。そんな時にこの森の結界を見つけ怪しんでいると、どういうわけか突然それが薙ぎ払われるように解けて。次第に森の中から私の匂いと奈落さんの匂いが流れてきたから向かってみればあの有り様だった…と語られた。 なんだかわけの分からないことの連続で困惑しっぱなしだったけど、そんなことよりも殺生丸さまが助けに来てくださったのが嬉しくてたまらなくて。緩む頬を引き締められず、だらしなくデレデレとにやけていた――かった、のだけど…… いまの私はそれも出来ないほど気まずく重たい空気を感じ、顔を上げることもできないままちまちまと足を進め続けていた。 「…………」 「…………」 無言。ただひたすらに、無言。 これはもう喋った方が負けなんじゃないかと思うくらいに長い沈黙が続いている。それだけならまだしも、殺生丸さまはどこかピリピリとした、一触即発の雰囲気を醸し出しているような気さえする。 (うーん…なんだかとっても…怒っていらっしゃるような…) ひしひしと感じる冷たいオーラに思わず冷汗を滲ませてしまう。表情もいつも通りで変わらないと思っていたけど、よく見ればほんのわずかに眉根が寄っているような気がしなくもない。それに加えて足音も少しだけ強い気がする。もしかしたら気のせいなのかもしれないけど…。 「あのー、殺生丸さま…もしかしてなんですけど…怒って、ますか…?」 「…………」 恐る恐るといった様子で聞いてみるけれど返事はなにひとつない。予想通りといえば予想通りだ。でもそのおかげで殺生丸さまが怒っているのだということに確信を持てた。 …のはいいんだけれど、その理由が分からない。なにか怒られるようなことをしてしまっただろうか。 ちらちらと殺生丸さまの顔色を盗み見ながら、いままでの出来事を思い返してみる。といっても、奈落さんに一方的に絡まれたくらいで特に変わったことはない気がする。 うーん、なにかそれらしいこと… (あ゙っ。そ…そういえば私、断りもなく勝手に抜け出したんだった…!) 思いっきり当てはまる出来事を思い出してはギクリと体を硬直させてしまう。そりゃ殺生丸さまもお怒りになるに決まっている。一人行動だけでは飽きたらず、森を迷ったうえに敵であろう男から襲われかけたところを助けてもらったのだ。 こんなの、もう怒られる要素しかないじゃないか。怒られるどころか殺されてもおかしくないレベルだよ。 「せ…殺生丸さまっ、その…色々とすみませんでした! もう勝手な行動はしませんので許してくださいっっ!」 身が震えそうになった瞬間に思いっきり頭を下げて謝れば、殺生丸さまは足を止めてこちらに振り返ってくれる。うう、顔を上げるのが怖い…。でもこの状態で首を落とされるのはもっと嫌だ。 いますぐ頭を上げてしまうかどうするかで迷っていれば、不意に殺生丸さまから予想の斜め上をいくお言葉が返ってきた。 「そうではない」 「……へっ?」 絶対これだと思っていたことをあっさり否定されて、思わず邪見のような素っ頓狂な声を漏らしてしまった。けれど殺生丸さまはそれ以上なにも言うことなく、静かに踵を返して歩き出す。 お、置いて行かれる。焦った私は慌てて追いかけて、もういっそのこと、と殺生丸さまの顔を覗き込んでみた。 「な、なんで怒ってるんですか?」 じっ、と見つめて問いかければ、殺生丸さまは再び足を止めてくれてこちらを見てくれる。向けられた金の瞳にドキ…としながらも、私はひたすら殺生丸さまを見つめ続けて答えを待った。 その様子を見た殺生丸さまはフ…と視線を外して。彼方を眺めると、もう一度向き直ってはやや真剣みを帯びた強い瞳で見つめ返してくる。 「志紀、奴とは関わるな」 「…はい?」 はっきりと端的に告げられた返事、それは答えではなく指示だった。 これまた予想外だ…。“奴”というのはきっと奈落さんのことなんだろう。確かにあの人は“殺生丸さまの敵”みたいな空気を感じるし、関わるなと言われるのも分かる。とは言え、今回はあっちから勝手に絡んできたのであって、私が関わりたくて関わったわけではない。それくらい殺生丸さまだって分かっているはずなんだけど…なんでわざわざ改まって言ってくるんだろう。 私が疑問に思っていれば、殺生丸さまはまた一人で歩き出してしまった。結局のところ、理由を教えてくれる気はないらしい。やっぱり自分で考えてみるしかないのか…なんて思いながら俯き、私は大人しく殺生丸さまのあとをゆっくりと追い始めた。 怒られる原因、怒られる原因…うーん…やっぱり勝手な行動をとったことくらいしか思いつかない。それのほかに一体なにが… 「あいたっ」 ドン、という鈍い音と同時に、頭に若干の衝撃が響く。前を見ていなかったせいでなにかにぶつかったようだ。その対象を確かめるようにゆるりと顔を上げてみれば、いつの間にかこちらへ体ごと振り返った殺生丸さまが立ちはだかっていた。 「え、あ、すみません。考えごと…」 「奴になにを言われた」 状況の理解に遅れながらも謝罪していた私の声を遮ってまで告げられる。その言葉もまた理解に遅れて、思わず首を傾げた私は自分より背の高い殺生丸さまを心底不思議そうな顔で見上げてみた。 なぜそんなことを聞くんだろう。そう思いながらも、言われたからには…と私は頭の片隅でそれとなく記憶を辿ってみた。 奈落さんに言われたこと、と言っても、特に大した会話はしていないし、別段変わったことなんて言われていないはずだ。自分のことを聞いていないのかと言われて、好都合だと呟かれて、それから…… そこまで考えてようやく思い出した一言。そうだ、私は確かに言われていた。私にはよく分からなかった、あの言葉を。 「確か、私を人質にする…とか言ってた気がします。なんのため、とかは分からないんですけど…」 「人質…か…」 殺生丸さまは私の言葉をほんの小さく復唱すると、どこか嘲笑うような笑みを微かに浮かべられた。 え…こ、恐…笑う要素なんてあったっけ…。 状況に全くついていけない私が困惑していれば、突然殺生丸さまの腕が首裏に回されて。突然のことに思わず声を漏らしそうになるもそれは叶わず、私の体はそのまま強引に殺生丸さまの方へと抱き寄せられてしまった。 「えっ!? あっあの、せっしょう…」 「できるものならするがよい」 「へ…」 ほんの小さく呟かれた言葉に目を丸くする。きっと奈落さんに向けられたであろうそれは挑発のようで、絶対にさせないという意思さえ感じられた。 ということは…殺生丸さまが私を守ってくれる、という風に捉えてしまっていいのだろうか。いや、そんな都合よく捉えたらまた怒られちゃうんじゃ…。いやでも…… 思うことは色々あるのに、なによりも理解できないこの状況に顔が熱くなりすぎて思考が全然まとまってくれない。なんだこの状況。なんだこの状況…!? 初めての経験に私の頭がパンクしそうになった寸前、不意に殺生丸さまの手がスルリと離された。それについ声が漏れそうになるけれど、殺生丸さまは私の気持ちなど知ることもなく静かに歩き出してしまった。 (な、なんだったんだろう今の…) 分からない。分からないけれど、離れてしまうのがすごく名残惜しく感じた。 のぼせたようにぼー…とする頭でそう思いながら、私は無意識のうちに殺生丸さまの背中を見つめていた。 すると気が付いた、小さな違和感。気になって目を凝らしてみれば、殺生丸さまの背で揺れ動く銀の髪が先ほどまでとは違う揺れ方をしていた。なんだか優しい、緩やかな揺れ。そういえば足音もいつも通りの静かなものに戻っているような気がする。 ということは、いつの間にか機嫌は元に戻ったということだろうか。 結局なんで怒っていたのかが分からず、私は大きく首を傾げてしまっていた。 原因は勝手な行動ではない。それでいて奈落さんとは関わるなの一言。というか、殺生丸さまはやけに私と奈落さんのことを気にしているようだった。 そうなると、殺生丸さまはもしかして…… (やきもち…妬いてる…?) ふとそんな考えが浮かんでくるものの、いくらなんでもそれはないだろうと慌てて自己否定した。別にそれが嫌だからとかではなくて、ただ殺生丸さまがそんな感情を抱くとは到底思えなかったから。 ……もし本当なら、どんなに嬉しいか。 なんて思いが胸のうちにぽつりと生まれて、私はすぐさま振り払うように首を振るう。すると殺生丸さまから「早くしろ」とのお声をいただいて、ドキ、と肩を震わせた私は止めていた足を咄嗟に大きく踏み出した。 * * * 闇に飲まれたように暗く大きな城。そこには陰鬱とした、気分の悪くなるような空気が重苦しく立ち込めていた。 人間では耐えられないほどの強い邪気に塗れたその城のずっと奥。そこにあの男――奈落が静かに腰を据えていた。 「邪魔が入ったか…」 コトン…と硬い音を響かせた傀儡は、まるでなにかに斬り込まれたかのように上下を分断され力なく床へ転がった。それが意味するのは分身の敗北。奈落の企みは思い通りにいかなかったようだが、当然それで諦めるような男ではなかった。 まるでそれを示唆するように、静かなこの空間へ御簾を払いのける音が静かに鳴らされる。 「奈落…」 「なにやら随分と熱心なようだけど、今度は一体なにをさせようって言うんだい?」 「来たか。神無、神楽…」 傍に立ちはだかる少女と女に視線を移し、奈落は妖しい笑みを存分に湛えた。 髪や着物、全てが白に塗り潰されたような表情のない少女、神無。その隣で大きな扇を構えた女、神楽。二人は奈落が作り出した分身だ。 「志紀という女をここへ連れて来い。もちろん、生かしたままでな」 「なんだい、それなら神無一人でも十分じゃないか」 奈落の指示に神楽が訝しげな表情を浮かべる。それもそのはずだ。ただの人間相手なら、鏡で魂を吸い取れるという神無だけでも十分その役目を果たせるのだから。だがそれでも奈落は神楽をも呼び寄せた。 その意図への理解が及ばない神楽へ、神無が手にしていた鏡を傾ける。それを覗き込めば、どういうわけか鏡は現在の志紀の動向をはっきりと映し出していた。神楽同様に鏡を見据える奈落はス…と目を細めると、唸るような低い声で囁きかけてくる。 「志紀は常々、殺生丸と行動をともにしている」 「…ふうん…そういうことかい」 ようやく自分が呼ばれた理由を知り、納得した様子を見せる。確かに神無一人に向かわせれば確実に殺生丸がそれを阻止してしまうだろう。 「時の流れは違えど、志紀からはなんの力も感じられん。殺生丸さえ離してしまえば…」 「あとは楽勝…ってわけかい」 開いていた扇をパシン、と閉じては踵を返す。それに神無が続こうと体の向きを変えた刹那、神楽は顔だけをわずかに振り返らせて奈落に問いかけた。 「あんた…そんな女捕まえて、一体どうしようってんだい?」 「殺生丸を誘き寄せる餌にする。ただそれだけだ」 「……そうかい。行くよ、神無」 ほんの少しの間を空けてはどこか呆れたように顔を逸らし、神無を呼ぶ。神無が黙り込むまま小さく頷くと、鏡の中に鮮やかに写っていたはずの志紀の姿が消え、元の鏡面に周囲の闇を写していた。 以降神楽は振り返ることもなく屋敷を出て、すぐさま髪飾りの羽根を一枚抜き取り足元へ落とす。するとそれは瞬時に大きさを変え、二人は慣れた様子でそれに乗り込んだ。それに伴い神楽が風を巻き上げ、二人を乗せた羽根は空高く飛翔していく。 (志紀とかいう女…厄介なのに好かれたねえ) back