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目の前の光景にただただ呆然とする。だって、これはどう見たって馴染み深い私の家なんだもの。家具もカーペットもなにもかも、寸分の違いなく記憶の通り。 あまりにも突然すぎる変異に、私はただ呑気に“自分ってこんな匂いなのか…”なんて場違いなことを考えてしまっていた。確かに嗅いだことがある、懐かしささえ感じてしまいそうな匂い。これが殺生丸さまの言う私の匂いか、とまで考えてはっとした。 あまりにも驚きすぎて頭が真っ白になりかけていたけど、いま私の隣には本来存在するはずのない殺生丸さまがいらっしゃるのだった。私も混乱しているけど、きっと彼の方がその衝撃は大きいはず。そう思って困惑しているだろう彼に声をかけようとするも、それより先に薄く唇を開かれた。 「ここはどこだ、志紀」 「えっ、えーっと…私の思い違いじゃなければ、現代の私の家…のはずです…」 「お前の…?」 明らかに怪訝そうな表情を浮かべられる。そりゃそうですよね。いきなり私の家に飛んだ(?)んですもん。しかも私の家ってことは、時代まですっ飛んじゃってるわけだし。はっきり言って私自身も全く理解できていないし、本当にこれが私の家かどうかも未だに疑っているくらいだ。 もしかしてやけにリアルな夢を見てるとか…? だとしたらどこから? いやでも殺生丸さままでいるし…と自分で自分の思考を否定しそうになったけれど、むしろ殺生丸さまが現代の私の部屋にいるという不思議な状況的には夢だと言われた方が説得力がある気がした。 いやいやいや、まさか夢じゃないよね。そう思ってもう一度殺生丸さまを見上げてみれば、彼は怪訝そうに部屋を見渡している模様。 な、なんだろう…めちゃくちゃ恥ずかしい。幸いそんなに散らかってるわけじゃないけど、こんなに見られるなら日頃からもっときちんと片付けておけばよかった…。 なんて考えてはっとした。そういえば戦国時代に飛ばされる数十分前、コンビニに行こうとした時に玄関で傘立てを蹴っ飛ばしていた気がする。それも帰ってから直そうと思っていたから、帰れていなかったその間の傘たちはあの時の姿のままであるはず。 ということは、これが本当に自分の家か、夢かどうかをそれで確認できるというわけだ。それに気が付いた私は慌てて部屋を駆け出すと、勢いよく玄関へ飛び出していた。 「あっ…」 目に飛び込んできた光景に思わず小さな声を漏らしてしまう。なぜならそこには、ばったりと倒れた傘立てと数本の傘が派手に散らかっていたからだ。 しかもそこにいつも並べていた靴はなく、それはいま私が履いている。 なにもかもあの時のまま。現実としての綻びがない。なにひとつ矛盾しないこの光景が、これが現実なのだと教えてくれていた。 それを呆然と見つめながら、おまけに自分の頬をしっかりめに抓ってみる。 「う゛…ふつーに痛い…」 思ったより力が入ってしまったおかげで、これがもし夢だとしても醒めてしまうだろうと思えるくらい痛かった。 でもおかげで分かった。ここは私の家だ。間違いない、帰って来られたんだ。 そう思うと歓喜の感情がふつふつと湧き上がってきて、全身を駆け巡る高揚感にいても立ってもいられなくなった私はすぐさま殺生丸さまの元へと駆けだした。 「聞いてください殺生丸さまっ、ついに帰って来られましたーっ!!」 「!」 私は嬉しさのあまり両手を広げて駆け寄ると、勢いそのままに殺生丸さまの懐へと飛びついていた。その衝撃が突然のことで耐えられなかったのか、殺生丸さまはぐらりとバランスを崩して真後ろのベッドに倒れ込んでしまう。 それに伴い銀の髪が大きく広がる中、私は嬉しさに感極まって殺生丸さまの着物を涙で濡らしてしまっていた。 (本当に…帰って来られたんだ…) 長いようで短い日々、ずっと待ち望んでいたことがようやく現実になってくれた。 それを思いながら涙ぐむ私はぐす、と鼻を鳴らして。それでも殺生丸さまがいる手前、そんな涙も抑えようと必死に力を込めていた。 「……志紀」 不意に、黙り込んでいた殺生丸さまが私を呼んだ。その声に応じるようにゆるりと顔を上げると、涙の向こうの殺生丸さまがわずかに眉根を寄せて、怪訝そうな表情を浮かべられているのが分かった。なにかが気に障ったような、そんな様子。 それにほんの一瞬だけぽかんとすると、遅れて冷静になり始めた頭がようやく現状を理解してきて。私の顔は瞬く間にサアー…と血の気を引かせていった。 「ごっ…ごめんなさい!! つい嬉しくて、その…すっ、すぐに退きますからっ!」 「…………」 涙を拭い、慌てて謝罪しながら仰け反るように体を起こせば、それに伴って殺生丸さままで上体を起こされる。 あ、ダメだ終わった。怒られる。 なんて思いが瞬時に脳裏を横切ると、それを肯定するように殺生丸さまの大きな手が私の後頭部をむんずと掴んでくる。ああ、グッバイ現世。また会おう。 今生の別れだと次なる衝撃を待てば、私の頭は粗暴ながらも緩やかにもこもこのなにかへ押し付けられてしまった。 (…あれ…? い、痛くない…?) 予想外の感触に目を丸く見開くと、私の視界は真っ白いふわふわした毛に埋め尽くされていた。 こ…この感じはもしかして、殺生丸さまの肩に掛かっている…… 「ぷはっ。せ…殺生丸さま…?」 押し付けられる頭をなんとか上げて殺生丸さまを見上げてみれば、彼は私に視線をくれることもなく呆れたように囁いてきた。 「泣きたいのなら好きなだけ泣け。それくらいは待ってやる」 素っ気なく淡々と、けれど冷たくはない声色でそう告げられる。 その言葉がなんだかひどく胸に沁みて、おさまりかけていたはずの涙がまた少しずつ溢れ出してきた。それでも泣いている場合じゃないとなんとか堪えようとしていたのに、殺生丸さまがまるでそれを許さないかのように私の頭をぎこちなく撫でてくる。 殺生丸さまの慣れない気遣い、優しさ。それに触れているだけで余計に涙腺が緩んで、とうとう緊張の糸を切らせてしまった私は我慢できずに感情に任せるまま泣き続けた。 (ああもう、どうして…いつも素っ気ないくせに…こんな時ばっかり優しくするなんて、ずるい) なんだか納得がいかないような悔しいような、でも嬉しいような。そんな思いを抱えながら、しばらく顔も上げられないまま涙をこぼしていた。 ――けれどそれもひとしきり泣きはらしてしまえば、ようやく気持ちも落ち着いてきて。呼吸を整えるように深く息を吐き何度も涙を拭っては、「もう、大丈夫です」と呟きながらそっと顔を上げた。 きっと顔なんて目も当てられないくらいぐしゃぐしゃだろうな。でもそんなことはどうでもよくて、なんだか気分の晴れた私はえへへ、とぎこちない笑みを浮かべていた。 それを横目でちらりと見た殺生丸さまは一度呆れたように目を伏せると、小さくため息をこぼして着物の袖を握られる。なにをするのかと思ってその様子を見ていれば、突然それが私に向けられて涙に濡れた頬をグッ、と無造作に拭われた。うぐ、ちょっと痛い… 「…って! ダメです殺生丸さま! 着物が汚れますからっ」 「それがどうした」 そっ、それがどうしたって…。 殺生丸さまがあまりにも淡々と言うせいで思わず返す言葉を失ってしまった。そりゃあ妖怪なんかを手にかけた時に少し汚れたりはするし、今さらといえば今さらなんだけどさ…。なんだか納得がいかない私は強めにこすられて若干ヒリヒリする頬をさすりながら、ほんの少し口をへの字に曲げていた。 すると不意に、殺生丸さまはフ、と顔を上げられて。まるで黄昏るように部屋の一点を見つめ始めてしまう。 「…志紀」 「はい?」 突然ぽつりと呼ばれて返事をするも、殺生丸さまは変わらず部屋を眺めていてなにかを言われる様子もない。 けれどきっと、言いたいことはこの現状についてのことだ。それを悟った私は一度視線を落として、そのまま呟くように殺生丸さまへ問いかけてみた。 「一体…なにが起こったんでしょうか。急に帰れたなんて…それも、私だけじゃなくて、殺生丸さままで一緒に…」 「…心当たりはないのか」 「特には…あっ。それらしいことと言えば、私がこれを太陽にかざしたこととかですかね?」 唯一なにかあるとすればそれだと思って、ずっと握りしめていた蝶のネックレスを手に広げてみる。見たところなんの変哲もないネックレスだけど、私たちがこっちに来る前にこれを掲げたら、ほんの一瞬強く光っていたような気がする。 だからきっと、これがなにかの鍵を握っていることに違いはないんだけど… 「…そういえば…これを薦めてくれた人が、これには不思議な力が~とか、選ばれた人間じゃないと~とかなんとか言ってた気がします。よく覚えていないんですけど…」 「不思議な力だと…?」 「はい。その人も詳しくは知らなかったみたいで…商人から買い取った際に聞いたみたいです」 うーん、あんなインチキくさい言葉をよく覚えていたな私。なんて謎の関心に浸りながら、まじまじとネックレスを見つめて説明する。あのお兄さんはすごく意味深そうに語ってくれていたけど、やっぱりどう見ても普通のネックレスだ。ただ、あの時やけに心を惹かれていたのも事実ではある。 もし本当にこれが力を秘めているとするなら、本当にこれのおかげで現代に帰って来られたのなら… 「また…向こうに戻れるかもしれません」 確証はないただの予測ですが。私がそう呟けば、殺生丸さまはこちらを見据えながらしかと問うてきた。 「試すのか。危険を伴う可能性もあるのだぞ」 「それでも、試してみる価値はあります。なにより殺生丸さまが一緒なので、もしなにかあっても大丈夫ですよっ」 ぐっ、と拳を握りしめて言えば、殺生丸さまはほんの少し驚いたような顔をされた。なんでそんな表情を見せるんだろう。さっぱり分からない私が不思議そうに首を傾げると、殺生丸さまは切れ長の瞳でこちらをじっと見つめてきた。 「お前は私を容易く信用しすぎている」 ボソ、と呟かれるように言われた言葉は上手く聞き取れなくて、つい聞き返してしまう。けれど殺生丸さまがもう一度言い直してくれることはなく、何度聞き直しても言葉を返されることがなかった。それどころか顔を覗き込むようにして言ったせいか、突如殺生丸さまの手ががし、と私の視界を覆い尽くしてくる。 「しつこい」 「あだだだだ…! す、すみませ…っ」 ギリギリギリとこめかみを押さえつけてくる指圧がとんでもなく痛くて、震える両手で慌ただしく抵抗しようとした。すると殺生丸さまは、はあ…と小さくため息をこぼされて、ようやく私の頭を解放してくれる。 またやられてしまった…次こそ頭蓋骨を割られ兼ねないし、ほんと気をつけよう。なんて思いながらこめかみをさすっていれば、殺生丸さまの手の平が目の前にずい、と差し出された。 なんだろうこの手。なんのために… (…お手?) よく分からないけど、ぽん、と手を乗せてみる。 それでも殺生丸さまはなにも言うことなく、なんだか異様な沈黙が流れてしーんとしてしまった。 こ、これは…間違ったかもしれない。色んな意味でドキドキするのを感じながらちらりと殺生丸さまを覗き見れば、なんだかとてつもなく冷めた目でこちらを見据えていた。 「……早くしろ」 顔をフイ、と背けながら言われると私は申し訳なさで肩をすぼめて縮こまってしまった。呆れられたのかあとで怒られるのか…それは分からないけどあとで絶対に謝罪しよう。精一杯。全力で。 だらだらと冷や汗を伝わせながら小さく返事をした私は、ネックレスを強く握りしめて窓の外の太陽にかざしてみせた。すると次の瞬間、陽光に照らされた蝶のチャームがカッ、と強い光を放ったような錯覚に陥る。思わず目を瞑った私たちの瞼の奥は、その光によって白く染め尽くされてしまった。 * * * 特に変わらない感覚に疑いを持ちながら、そっと目を開いてみる。本当に時代を越えられたか分からないけれど、どうか越えていて…と強く願いながら。 そうして掠れる視界に映り込んできたのは、木々が生い茂り、私が足を浸けていたあの小川が伸びる戦国時代の風景であった。 「もっ…戻れた…! やっぱり、これのおかげだったんですよっ」 「そうらしいな」 「~~っ、やったー! これがあればいつでも行き来できそうだし、今後はもう帰りの心配なんてしなくてよさそうですよーっ」 弾けるようにぎゅうー、と殺生丸さまを抱きしめると、頭上から「志紀」と諭すような声が振りかかる。 はっ! しまった、またやってしまった…! 殺生丸さまはテディベアじゃないってば誰だよ間違えた奴! 私だよ!! は~~っいい加減お叱りの鉄槌が下るぞ…! 私が頭を抱えて忙しなく顔を赤くしたり青くしたりしていると同時に、背後から「あーっ!」という可愛らしくて甲高い声が響き渡ってきた。 「志紀お姉ちゃんと殺生丸さま、“あいびき”してるー!」 「ぶっっ!? りっ、りんちゃん…!?」 とんでもない言葉が聞こえてきて思いっきり吹き出してしまった。懲りずに殺生丸さまに抱きついてしまったところを運悪くりんちゃんに見られていたらしい。い、いつの間に起きてたんだ…。 見られてしまったことだけでも率直に恥ずかしいのに、“逢引”なんて言われて耳まで燃えるように熱くなっていく。私は途端に殺生丸さまから離れると、楽しげなりんちゃんへ慌てて駆け寄っていきその小さな体をぎゅうっ、と抱きしめた。 「りんちゃんほらっ、ほらね!? 私こうやって色んな人に抱きつくから! いまのはちょっと嬉しいことがあって、ついやっちゃっただけっ。逢引とかじゃないからねっ!?」 「えー。でも男の人と女の人がぎゅーってするのは、愛し合ってるからなんでしょ?」 りんちゃんはそう言いながら純真無垢な目で不思議そうに首を傾げてくる。本当に疑いを知らない目だ。くっ…誰だりんちゃんにそんなこと吹き込んだ奴…! もし邪見なら後でぶん殴る! 「あのね、愛し合ってなくてもぎゅーはするの。ね! だから逢引だとか、そういうことをすぐに言っちゃダメだよっ」 「え~」 「ダ、メ、だ、よ!」 「はあい」 必死に圧力をかけるように言えば、りんちゃんは渋々といった様子で返事をしてくれる。果たして本当に分かってくれているかは分からないけど…とにかく今はなんとかやりすごせたはずだ。きっと。恐らく、たぶん。 なんだかどっと疲れた私が思いっきりため息をこぼす頃、りんちゃんは「邪見さまを起こしてくるね」とだけ言い残してさっさと戻っていってしまった。 もう一度ため息をこぼす私が額の汗を拭うと、背後で衣擦れの音が小さく鳴らされた。しまった、りんちゃんを丸め込むのに必死になっていて忘れていたけど、私の真後ろには殺生丸さまがいる。しかもあの“逢引”という言葉も思いっきり聞かれてしまっている。 やばい。そう感じた私が恐る恐る振り返ってみれば殺生丸さまはすでに立ち上がっていて、ただ静かにこちらを見つめてきていた。 「えっと…せ、殺生丸さ…」 「どうする」 「えっ?」 なんとか弁解しようとするとそれを遮ってまで問いかけられる。どうするって、一体なんのことなんだろう。理解できずにぱちくりと目を瞬かせていれば、殺生丸さまは表情も変えず淡々と私を見つめ続けていた。 「帰れると分かっただろう。ならば、お前はこれからどうするつもりだ」 そう問いかけてくる殺生丸さまの目が、やけに真剣に見えたのは気のせいだろうか。 物事に興味を示さない殺生丸さまは他と同じように私のことも気にしていないと思っていたけれど、案外そうでもなくてちゃんと考えてくださっていたのかもしれない。だからこそ帰り方を知るという目的を果たしてしまって旅に同行する意味がなくなった私の今後を、こうしてわざわざ問いかけてくれたんだと思う。 私は思わず優しいなあなんて思いながら口元を緩ませると、すぐさま殺生丸さまへ笑顔を浮かべて見せた。 「そんなの決まってるじゃないですか。ほら、りんちゃんたちが待ってますよ!」 そう言いながら殺生丸さまの手を取れば、殺生丸さまはわずかに目を丸くさせる。けれど私はそれに構うこともなく、りんちゃんたちが待っている方へ強く引いて駆けていった。 確かに私が殺生丸さまたちについて行き始めた理由は帰る方法を探すためだ。けれどそれが分かったからと言って、もう簡単にお別れするつもりなんてない。それほどまでに、私はこの居場所に心地よさを感じているのだから。 自然と気分が高揚している私がスキップをするように歩いていく中、殺生丸さまがフッ、とほんの小さく笑みを漏らした気がした。 「…決まっている、か」 「ん? なにか言いました?」 「気にするな」 せっかく聞き返したのに呆気なく流されてしまった。なんて言ったんだろう…気になるな。なんて思っていれば「いつまで手を握っているつもりだ」という声を投げかけられてぎょっとしてしまう。慌てた私は咄嗟に手を離し、思いっきり頭を下げて謝った。 いい加減、このスキンシップ癖を治そう…。 back