10
村から遠く離れた頃、私たちはいつものように休息をとっていた。
大きな木の陰に腰を下ろすりんちゃんはいまにも倒れてしまいそうなほどうつらうつらと舟を漕いでいる。その横では休憩ばかりだと怒っていたはずの邪見も、大きないびきを掻くほどに爆睡していて。残す我らが主、殺生丸さまはというとまたどこかへと姿を消されていた。
殺生丸さまがいない間、本来なら邪見がりんちゃんや私を見守ることになっているはずなんだけど、見事この有様だ。仕方がないから私が代わりにその役目を負うことにしよう。
…と、思ったのはいいんだけど……
(やばい…私も眠くなってきた…)
こんなにも気持ちよさそうに眠る二人を見ていると、自然とこちらまで眠気を誘われる。いつもなら寝てしまえばいいだけの話なんだけど、今回は外出前の殺生丸さまの口振り的に長くは留まらないと思われる。それなのに今さら私まで寝てしまうのはなんだか忍びない。
というわけで、眠気覚ましに小川に行くことにした。ここに来るまでに川が近くにあったことは確認済み。二人にはちょっとだけお留守番をさせてしまうことになるけど、長居せずすぐに戻れば問題もないよね。
* * *
「よっ…と」
川のほとりに腰を下ろした私は迷わず靴を脱ぎ捨てて足を浸した。その瞬間、疲れた足に冷たい水が染み渡るような気持ちのいい感覚が広がって、思わずはああ~、と大きなため息を漏らしてしまう。
うーん、完全におっさんだ。誰かに聞かれたら引かれそう…でも、それくらい気持ちいいんだから仕方ない。それにここには私しかいないんだし、どんな声を出そうとも全然問題はないのだ。
「ふは~、極楽~…」
「
志紀」
「んえっ!?」
思いっきりだらけていたところに、あるはずのない声で名前を呼ばれて変な声を上げながら肩を跳ね上げてしまう。思わず反射的に振り返ってみれば、そこにはいつの間にか帰ってきていたらしい殺生丸さまがすぐ傍に立ってこちらを見下ろされていた。
しまった、殺生丸さまが帰ってくる前には戻ろうと思ってたのに…って、そうじゃない! いるじゃん、私以外の人! 全然気が付かなくて思いっきりおっさんみたいな声出しちゃったよ!!
「い、いたなら言ってください…!」
途端に顔が茹でダコのように真っ赤に染まるくらい恥ずかしくなった私がそう言いつければ、殺生丸さまはなぜか私のすぐ隣に腰を下ろされてしまった。珍しく殺生丸さまから近くに来られたことに驚いたけれど、いまの私の心境はそれどころではない。
情けなさのあまり赤い顔を見せたくない私が殺生丸さまから顔を背けていれば、突然「ふっ」と小さく笑みをこぼされた気がした。
「どうした。自らのだらしなさでも恥じているのか」
「な゙っ…!? わ、分かってるならわざわざ言わないでくださいよ! あー、もうっ」
恥ずかしいっ。穴があったら入りたいくらい…! そう思いながら頭を抱えた途端、私の中でなにかが引っ掛かってついフリーズした。
あれ…いま、殺生丸さまに笑われた…? それどころか、思いっきりいじられてすらいるよね…? え? 今までこんなこと、あったっけ…?
慣れない感覚に驚きながら殺生丸さまへ振り返ってみれば、ちょうど彼もこっちを見ていてばっちり目が合ってしまう。その瞬間肩を小さく跳ね上げた私はなぜか反射的に顔を逸らしてしまっていた。
(…って、なにやってんだ私っ。別に顔を逸らす必要なんてどこにもなかったじゃんっ)
我に返って後悔するもすでに手遅れだ。もしかしたらすごく感じが悪く見えたかもしれない、なんて考えて小さく高鳴る胸を押さえながら、弁解するようにもう一度ちらりと殺生丸さまの顔を窺ってみた。
けれど彼はいまこちらを見てもなく、ただどこか遠くを見つめていて今度ばかりは目が合うこともなかった。
(あれ…?)
途端、胸に違和感を抱く。さっきは咄嗟に顔を背けてしまったくらいなのに、どうしてか今はわずかな惜しみを抱える私が心のどこかにひっそりと姿を現したような気がしたのだ。
そんな矛盾に思わず顔をしかめそうになりながら、私はそのわずかな気配を探るように殺生丸さまの横顔を見つめる。
――…やっぱり殺生丸さまは、すごく整った美しい顔立ちをしている。それはもう私なんかが傍にいるのもおこがましいようなレベルで、だ。
男なのに女の私より圧倒的に美しくてかっこいい彼の姿には、テレビの中の俳優さんやモデルさんに通ずるような憧れに近い感情を抱かされていた。
でもどうしてか、いま私が見つめている殺生丸さまからはそんな遠い感情ではなくて、もっと近しい、なにかが……
「
志紀」
「へっ? あ、はい!」
惚けるように殺生丸さまを見つめていれば突然凛とした声で呼ばれてしまい現実へ引き戻される。知らぬ間に殺生丸さまはこちらへと振り返ってきていたようだ。
慌てた私は頬が紅潮するのを笑って誤魔化そうとしたけれど、それは叶わなかった。なぜならこちらを見つめる殺生丸さまの瞳が、どこか強い真剣みを帯びているように見えたから。それを向けられる私はつい笑うことも忘れ、きょとんとした顔でその瞳を見つめ返してしまう。
すると殺生丸さまは躊躇うこともなく、その整った唇を薄く開いてみせた。
「お前のいた時代に戻りたいか」
突然そう問いかけられた私は状況の理解が追い付かず、「え…」と声を漏らしてしまっていた。
どうして今さらそんなことを聞いてきたんだろう。私は元々それが目的でついて行っていたことを、彼は知っているはずなのに。
返答に困る様子を見せていれば、殺生丸さまはフ、と顔を背けて空を仰ぎ見た。
「昨晩、お前が泣いていた」
こちらを見ることもなく淡々と告げられた言葉に、私はつい声を詰まらせてしまった。
いつもならそんなまさかと笑い飛ばすところだったけれど、今回ばかりは私自身にも覚えがあることで否定することができない。あの時の涙の痕は、やっぱり気のせいなんかじゃなかったのだ。夢に現代を見ていたのかは覚えていないけれど、それが殺生丸さまにとっては“私が現代を惜しんでいる”ように見えていたのだろう。
呆然と黙り込んでいれば、殺生丸さまがまるで答えを求めるように私の名前を呼ぶ。それによって私は一度小さく口を結ぶと、しばしの間を置いて感じた想いを呟くように答えてみせた。
「やっぱり…戻りたくないって言ったら、嘘になります」
この時代に来てからの数日間、決して長くはない時間だけどすごく楽しかったことに違いはなくて。できればもっと一緒に色んなことを経験していきたいという気持ちがある。けれどやっぱり私がいるべきである現代を放っておくわけにもいかなくて、強い葛藤のような、やるせない気持ちがぐるぐると私の中を巡っていた。
やや間を空けて川に浸していた足を上げると、私は強く膝を抱え込んで揺れる水面を見つめたまま呟くように思いを声にした。
「私…もし現代に戻れるようになったとしても、素直に戻れない気がするんです」
「…なぜだ」
「なんていうか…私、いつの間にかここで殺生丸さまたちと過ごすことが、すごく好きになっていたんです。だから…帰りたいけど、帰りたくない…なんてわがままなことを思っちゃうんです」
変ですよね。そう言いながら笑いかければ、殺生丸さまは無言のまま私を見つめていた。その目の色がなんだか悲しげな、同情のような色をしているように見えたけれど、きっと気のせいだ。惜しむ私が都合よくそう感じているだけに違いない。そう思い込むと私は殺生丸さまから顔を背けて高く空を仰いだ。
「…それに、ずっと思っていたことがあるんです。もしかしたら、いつか突然現代に戻されることだってあるのかも知れない、って。こっちに来た時も、なんの前触れもなく突然のことだったんですよ。だから…もし本当にそうなっちゃった時…きっと寂しくて“もっと一緒に色んなことすればよかった”って、後悔しちゃうんだろうなあとか思っちゃって…」
そこまで話してしまうと、ふと殺生丸さまにこんなにしゃべりかけたのは初めてかもしれないという事実に気が付いた。いままで深く話したことがなかったのに、この瞬間ばかりは私の思いが溢れるように口を突いて出てくる。それは殺生丸さまに聞いて欲しかったからか、それとも引き留めてほしかったからかは分からない。それでも私は殺生丸さまへ正直に胸のうちを明かし尽くしていた。
けれどそんな私の話に殺生丸さまは特に返事をすることもなく、ただ深く黙り込んでいる。ちょっとしゃべりすぎたのかもしれない。そう思うと私は取り繕うように笑みを浮かべて、すぐさま謝罪した。
「辛気臭くなっちゃいましたね、ごめんなさい」
「……それでお前の気が済むなら、話せ」
「え?」
少しの間を空けてようやく返ってきた言葉に耳を疑ってしまう。いままで殺生丸さまがこんな言葉を掛けてくれたことがあっただろうか。きっと気紛れなのだろうけれど、確かに掛けられた言葉は暖かくて、優しくて。
思わずにやけてしまうほど締まりのなくなった顔でありがとうございます、と返事をすれば、殺生丸さまはほんの小さく呆れたような笑みを浮かべられた気がした。
「!」
突如、胸がドキ、と高鳴ったような感覚を抱く。それに驚いた私はつい胸に手を当てて、自分の鼓動を確かめるようにしていた。
(な、なんだろう、いまの…気のせい…?)
押さえた胸はいつの間にか普段通りの鼓動を繰り返していて、特に変わった様子もなさそうで。
一体なんだったんだろう、なんて思いながら、殺生丸さまに気付かれないくらい小さく首を傾げてみると、なにか冷たいものが微かに手に触れた気がした。ネックレスだ。その存在を思い出した私はそれを外し、眺めるように手の中へ広げてみる。
きっと殺生丸さまがくれただろう、蝶の形をした不思議な結晶のネックレス。日の光を不規則に反射させるその存在を見つめていれば、どうしてか胸の奥底から安堵のような気持ちがふつふつと湧き上がってきた。
「…殺生丸さま。私、もし本当に突然帰れたとしても、後悔しないようにします」
ネックレスを握り締めながらそう呟けば、殺生丸さまはほんの少しだけ不思議そうな表情を浮かべられた。
「離れ離れになっても、一緒に過ごしたことは事実ですから。私にはこれがありますし…これが、みんなと過ごした証拠になります」
だから、平気です。そう続ければ殺生丸さまはなぜかほんのわずかに驚いたような表情を見せてくる。殺生丸さまもこんな顔するんだ、なんて心のどこかで思いながら、私はそっと殺生丸さまの手を包み込むように握りしめた。
「なので…お願いします。私がいなくなっても、どうか私を忘れないでいてください」
「……
志紀…」
真っ直ぐに見つめて伝えた言葉がどう聞こえたのかは分からない。けれどほんの少し顔をしかめてぽつりと呟かれた私の名前が、殺生丸さまの声で呼ばれる名前が、とても心地いい。
そんな時、川を泳ぐ魚が水面に跳ねてバシャ、という水音を響かせた。それによってはっと我に返った私は己の行動に気が付いて、じわじわと顔を真っ赤に染め上げていく。
やばい。私いまとんでもなく恥ずかしくて恐れ多いことしてる。
それをようやく自覚した途端、殺生丸さまがなにか言いかけた寸前で空気を変えようと誤魔化すように慌ててネックレスを太陽に掲げてみせた。
「ほっほら、見てくださいこの石! 私と殺生丸さまみたいじゃないですか!? 私が赤色で殺生丸さまが青色で、それが混じって二人はいつも一緒~っ! なんつって…? …あ、あはは…」
ダメだ、自爆した。咄嗟だったとは言えこんなこっ恥ずかしいセリフを口走るやつがあるか。どうなってんだ私の思考回路。恥ずかしすぎて耐えられない。誰かもういっそのこと殺してくれ。
顔から煙が上がりそうなほど熱くなり、すぐさま冗談ですと弁解しようとした――その時だった。陽の光を浴びた蝶型のチャームが自己主張するように輝くと、途端に強い光がカッ、と放たれた。
突然のことに思わず目を強く瞑り、しばらくの沈黙に包まれる中そっと目を開いてみれば、蝶型のチャームは以前と変わりなく揺れていて。特におかしな様子もなく、気のせいだったのかと疑いそうになる状況に首を傾げかけた。
――けれど気が付く。確かに変わっていたのだ。ネックレスではなく、私たちを囲む、辺り一帯の景色が。
「え…なん、で…」
ぽつり、と声が漏れる。ほんの一瞬のうちに豹変してしまった目の前の光景が信じられず、私はただ呆然としたまま瞬きを繰り返すことしかできなかった。一向に理解が追いつかず辺りを何度も見回してみるけれど、私の中の衝撃は一向に治らない。
(なにが…どうなってるの…?)
信じられない目の前の光景。間違っていなければ、私たちが目にしているそれは――紛れもない私の家だったのだ。
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