09
静かだ。
ふと仰ぎ見れば、白い傷口を開く空の下を薄い雲の群れが流れてゆく。明日も天気は崩れそうにない。
不意に冷ややかな夜風が吹き込み、りんが身をよじった。
寒いか。そう考えては、開いていた障子の向こうに眺めていた空を静かに閉ざす。
夜も深まったいま、村の宿という縁のない場所へ身を置きながら、眠ることもなく時が過ぎるのを待つのは恐らく私だけだろう。
りんや邪見は相変わらず眠っている。そして、村に行こうなどと提案してきた
志紀も私の傍で眠っている。
私がかつて着ていた着物に包まれるこやつはなんの警戒心も抱くことなく安らかに眠っている。呑気なものだ。まるで私がなにもしないと信じ切っているよう。
ただの人間である小娘など、いますぐにでも息の根を止められると言うのに。
爪を差し向けるように手を伸ばす。少しでも傷を負わせれば、すぐに毒に侵され死ぬであろう。
「……」
だが、
志紀へと伸ばした手はそれ以上近付くことはなかった。
こやつを殺せば間違いなくりんは悲しみに暮れる。それほどまでにりんはこやつに懐いているのだ。
――…手を止めた理由は、それだけではない。こやつの匂いが鼻を掠めるたび、私はまるで意識を奪われるかのような錯覚に陥る。どういう訳かは私にも分からなかったが――悪いものではなかった。
殺めるのをやめ、その手を戻そうとしたその時わずかな異変に気が付いた。
志紀の目に月明かりに照らされる雫が浮かび、伝う。
泣いている。眠ってはいるものの、こやつは確かに一筋の涙をこぼした。
(現世が恋しいか…)
声に出さぬ問いを投げかけながら、頬を伝う涙を掬うように拭い取る。
すると私の人差し指を伝ったそれは、ほんの一瞬の温もりを感じさせて儚く消え去った。
その指をそっと唇に触れさせれば先ほどの温かさはなく、微かな冷たさだけが残されている。それをしばしの間感じては唇を拭い、私は再び障子に薄く浮かび上がる月の明かりを見上げた。
* * *
暗闇の中で意識が覚醒する。冷たい風が肌を撫でると同時に小鳥のさえずりが聞こえてきた。
スズメの鳴き声ばかりはいつの時代も変わらないな、なんて思いが浮かぶ私はいつしか深い眠りから目を覚ましていた。
「…ん」
重い腕を額に置いて目を開けると、そこには見慣れない木目の天井が広がっている。そうだ、昨夜は宿に泊まったんだった。なんて呑気に思い出しながらゆっくりと上体を起こす。
「あれ…」
まだ視界がぼんやりとする寝惚け眼を擦ればわずかに湿った感触がしてその手を見た。
涙…? もしかして私…寝ながら泣いてた?
全く記憶にないけれど、触れた目元には確かに涙の痕がある。そういえばなんだか頬も若干突っ張った感覚があるような…。
泣いていた理由は自分でも分からないけど、誰かに見られてたらちょっと恥ずかしいな…。そう思って辺りを見回すもりんちゃんと邪見はまだぐっすり夢の中だ。ということは二人は見てない、大丈夫。
問題は…
「…って、殺生丸さま…?」
振り返ってみれば、すぐ傍にいたはずの殺生丸さまの姿がない。ついでに窓の障子がしっかりと開かれていた。それでちょっと寒かったのか。
外はまだ暗い。たぶん時間で言うと三時半頃だろう。そんな時間にうちのご主人さまはどこへ行ってしまったのやら。
――まあでも、こうして姿を消すのは今日に始まったことではない。
殺生丸さまはたまに私たち、時には邪見までもを置いてどこかへ行ってしまうことがある。どこへ行っているのかなんて知らないけど、聞いたところで余計な詮索はするな、なんて怒られてしまうかもしれないから黙って待っている。
だからきっと、今回もよくあるお出かけだろうなと思った。
(じゃあもうちょっと寝ようかな…)
ふああ…と大あくびをしながら布団を掴む。殺生丸さまが帰って来ないとここを出られないのだから、いまはただ帰りを待つしかない。
そう思うも、窓から吹き込んでくる風がやけに体を冷やして気になってしまう。りんちゃんが風邪なんてひいちゃっても困るし、窓は閉めておこう。殺生丸さま、閉め出すわけではないのでどうか誤解しないでくださいね。
そう念じながら、寝起きでやたら重たい体を起こそうと手を後ろへ伸ばした時だった。
なにかが私の手に当たってコツン、と固い音を立てる。
なにかある…? こんな感触のものなんて置いてたかな、と思いながら振り返ってみれば、そこには小さめでシンプルな木箱がひとつ置いてあった。
(誰かの忘れもの…? でも私たちが来た時にはこんなもの、置かれてなかったような…)
手に取ってみればそれは私の手に収まるほどのサイズをしている。しかもよく見ればこの小さな木箱の端に『
志紀』と刻まれていた。
え、私…? 自分が書いた記憶はないし、恐らく寝ぼけて書いたわけでもないはず…じゃあ誰かが、私に…?
寝起きで頭が回らないせいかなにも分からなかったけれど、とにかく中身を確認すれば分かるだろうと思ってそっと蓋に手を掛けた。ほんのわずかにカタ、と小さな音を鳴らして蓋を外す。
「えっ…こ…これって…」
予想外のものに思わず目を見開く。どういうわけかそこに入っていたのは、昼間私が露店で見て気になっていた蝶型の石のネックレスだった。
な、なんでこれがここに? しかも私宛てで…一体誰が? 考えれば考えるほど頭がこんがらがってくる。
そういえば値段なんて全然見ていなかったけど、珍しい色をした綺麗な石だしきっと安くなんてないはずだ。
そんなもの…どうして私なんかに…。
様々な疑問が浮かび上がる中、窓の方からフワ…と柔らかな風が吹き込んできた。
「眠れたか」
「! は、はい。おかげさまで…」
突然戻ってきた殺生丸さまに驚きながらもなんとか返事をする。
すると殺生丸さまがわずかながらに微笑みを浮かべた気がして――目を疑った次の瞬間にはいつも通りの無表情に戻っていた。
いまの…見間違い…?
私がほんの少しだけ首を傾げながら目を擦っていると、殺生丸さまは邪見の枕元へと歩み寄っていく。かと思えば邪見の横に置いていた人頭杖を拾い上げて、その先で邪見の額をグリグリと押し潰し始めてしまった。
「い゙っ!? 痛っ、痛いです殺生丸さまあっっ」
「騒ぐな。行くぞ」
「はっはいいっ。…って、まだ暗…でっ!?」
邪見が喋りかける最中に殺生丸さまが放り投げた人頭杖が見事に邪見の頭へごちん、と命中した。あれは痛い。
するとその騒ぎでりんちゃんも目を覚ましたようで、ぼんやりとした表情を見せながら体を起こしている。私はそんなりんちゃんの傍へ寄りながらおはよう、と声を掛けて乱れた着物を正してあげた。
「殺生丸さま…もう行くの…?」
「そうらしいよ」
りんちゃんの問いかけに私が答えると、殺生丸さまは窓枠へ足を掛けてこちらに振り返っていた。
なんでそっちに…? ここを出るなら、反対側の廊下なんじゃ…なんて疑問を抱きながらも、私は殺生丸さまの元へ歩み寄っていた。
「あの、なんで窓に…」
「
志紀、掴まれ」
「へ…? どういうことですか?」
唐突な殺生丸さまの指示がさっぱり理解できず、私は思いっきり首を傾げてしまった。けれどそんな私とは対照的に邪見とりんちゃんはいつの間にか殺生丸さまの毛皮にしがみ付いて準備万端の体制だ。
それでも私には一体なにをしようとしているのか全然分からなくて、りんちゃんと邪見の二人と殺生丸さまを交互に見比べてしまう。
するとその時、廊下の方から床板の軋みが微かに聞こえた気がした。邪見が騒いだから宿主のおじさんが気付いたのかも知れない。
そういえばここに泊まっているのは私とりんちゃんだけということになっているんだった…まずい。これは非常にまずいぞ。
私が焦りに焦って、ない脳みそをフル回転させようとした瞬間、突然殺生丸さまが私に覆い被さった――気がした。
「えっ!? なにを…」
するんですか、と続くはずだった言葉が声になることはなく。
殺生丸さまは私の腰に腕を回すと、有無を言わさず脇腹に抱え込んで窓辺から軽やかに跳び上がった。近い、抱えられてる、そこくすぐったい、なんて様々な思いも掻き消えてしまうほどの一瞬で空高く舞い上がる。
それだけとんでもない勢いで遠ざかっていく地面に私は顔面蒼白になると同時、心の中で必死に叫び上げていた。
(おじさんごめんなさーーい!!)
まさかの無銭宿泊をしてしまったことに罪悪感が溢れてしまう。そしてただひたすらに落とされないことを祈りつつ、殺生丸さまの着物を力強く握りしめ続けていた。
* * *
それから明るくなった頃、私たちは以前と変わりなく旅を再開していた。
いつまで経ってもおじさんへの罪悪感は消えないけど、邪見には「気にすることでもないわ」なんて言われ続けている。無理だよ気にするに決まってんじゃん。普通に犯罪なんだからね。
はあ~、と大きなため息をこぼして肩を落としていれば、りんちゃんが不思議そうな顔をして私の手を見つめてきた。
「
志紀お姉ちゃん、それなに?」
「ん? ああ、これ…」
完全に忘れてたけど、私の手にはあの小さな木箱が握られている。
誰かが私にくれたみたい、なんて説明しながらりんちゃんに見せてみれば目をきらきらと輝かせて歓声に近い声を上げられる。女の子はみんな好きだもんね、アクセサリー。
「ねえねえ、それ着けてみてっ」
「えっ」
りんちゃんに言われて少し驚いてしまう。そういえば着けるなんて考えてもみなかった。
言われてみれば確かに、もらったのに着けないで持っておくのもなんだか悪い気がする。せっかく誰かが私にくれたんだ。ありがたく頂戴して、着けさせてもらおう。
木箱からネックレスを取り出して首元に通せば、キラ…と反射した石が輝く。石は吸い込んだ光を自身の色に変えて私の肌に小さく散りばめた。
それを見たりんちゃんが小さな感嘆の息を漏らすと、満面の笑みを浮かべて「似合ってるっ」と言ってくれる。こういうのに慣れてなくて、なんだか照れくさい。
つい気を紛らわすように軽く笑ってみせては、お礼を言って木箱をポケットへ押し込んだ。そんな時、不意にこちらに向けられる視線に気が付く。
釣られるようにそちらへ振り向いてみれば、殺生丸さまが横目でこちらを見ていたようで。
もしかしたらはしゃいでいたことが気に障ったのかもしれない。それも旅に必要のない装飾品を勝手に手に入れてのことだし。一応もらったという事情は話しておくべきか、と思って謝ろうとすると、それよりも先に私の予想を覆す思いもよらない声が向けられた。
「…悪くない」
それだけを呟かれると、殺生丸さまはなにごともなかったように正面へ視線を戻される。それから再び振り返ることはなく、いつものようにただ静かに歩を進めてしまわれた。
い、いまのは…聞き間違い…?
自分の耳を疑うも、確かにいま“悪くない”って言われた気がして何度もその一瞬の記憶を振り返ろうとする。そんな時ふと気になって、ポケットからあの木箱を取り出した。
その端には爪かなにかの鋭いもので刻まれた私の名前。
そうだ、私の名前を知っていて、私が寝ている間にこれをあそこに置けた人って…
(殺生丸さま…?)
そうは思ってしまうものの、真偽を確かめる勇気はない。
それでも、まさかとは思いながらも否定しきれない数々の要素に頭を悩ませた私は、いっそその口ではっきりと教えてくれないだろうかという期待の眼差しで彼の背中を見つめることしかできなかった。
もしこの予想が事実だったら、色々気になることはあるけれど…
それでも、すごく嬉しい。
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