08
「おや、どこからおいでくださったのでしょう」
「…え?」
「あ、此度はお忍びでございますか?」
「え? え? ど、どういうこと…?」
宿へ入るなり私を見た宿主のおじさんが突拍子もないことを言い出して呆気にとられてしまう。
それもそのはずだ。だって第一声がこれだもの。思わず周りを見てみたけれどここには私とりんちゃんしかいないし、これは間違いなく私たちに向けられたものだった。
私が答えに戸惑っているとそれを察したおじさんがきょとんとした表情を浮かべて小首を傾げてしまう。
「んん? どこかのお姫さまじゃないのかい?」
「はい…ただの庶民です」
「なあんだ。大層綺麗な着物だから、おじさん間違えちゃったよ」
たはは、と笑うおじさんに私まで笑ってしまう。といっても完全に苦笑だけど。
とりあえずこれで合点がいった。着物のせいでそんな勘違いをされたわけだ。他人の目から見ても分かるということは、この着物はやっぱり相当いいものらしい。
(殺生丸さま…そんなものを私に…)
自分が袖を通している着物へ視線を落とし、恐れ多さと同時に沸々と湧き上がる嬉しさを感じていた。
たまらず緩んでしまう口元を咄嗟に隠し、誤魔化すように咳払いをしてから「亡き父の唯一の形見なんです」とだけ言っておいた。まさか本当にこの言い訳を使う時がくるとは思ってもみなかったけれど、それのおかげでおじさんは特に疑ってくることもなく部屋は空いているよと言って案内してくれる。
宿泊人数とか部屋の大きさとか、希望をなにも聞かれなかったけど大丈夫だろうか。諸々心配な点があるけれど、私とりんちゃんは揃っておじさんのあとを言われるがままについていった。
* * *
「わーっ、お布団だーっ」
りんちゃんが嬉しそうに声を上げながら敷かれた布団の上を転がっていく。私は窓辺に座って微笑みながらそれを見守っていた。
あれからおじさんに促されるがままお風呂を済まし、用意された夕食をあっという間に平らげて部屋でくつろいでいる。久しぶりのお風呂はものすごく気持ちが良くて、毎日入れる現代の生活はすごく贅沢なんだなあと実感した。
りんちゃんもさっぱりして気分がいいみたいだし、よかったよかった。
……ただひとつ。唯一どうしようもない問題が私の頭を悩ませている。
(部屋が…狭いんだよなあ…)
改めて部屋をぐるりと見渡してみるも景色は変わらない。質素な造りのこの部屋はなんと二人用で、布団を二枚敷いてほぼいっぱいいっぱいである。
おじさんは事情を知らないから仕方がないのだけど、こんな手狭な部屋を用意されたと知ったら邪見ががなり立てそうな気がしてちょっとうんざりしてしまう。
私はその張本人たちを探すように、開け放たれた窓からぼんやりと外を眺めてみた。
気が付けばとっぷりと日が暮れていて、もう辺りにはなにがあるのかすら分かりづらくなっている。街灯なんかがある現代に比べて、この時代は月明かりしか頼れる明かりがないためにより暗く感じる。
こんな時間に外を歩く人はみんな松明なんかを持ち歩くらしいのだけど、どうやらこの村にはそんな姿も見当たらない。きっとみんな早朝から商売に勤しむのだろう。
「殺生丸さまと邪見…そろそろ来るはずだけど、本当に分かるのかな…」
ぽつりと呟けば、ひんやりとした気持ちのいい風が吹いてきた。殺生丸さまならこの風に乗って突然現れたりしてもおかしくないな…なんて思いが浮かんではふと物思いにふける。
村に入る前、殺生丸さまも妖怪だって聞いたけど…一体なんの妖怪なんだろう。
前に見た妖怪は鬼のような姿だったし、たまに道中で見かける妖怪はネズミだったりはたまたトカゲだったりと、なにか動物の類が多かったりする。ということはきっと、殺生丸さまもなにかの生き物の妖怪だったりするのかも。
見た感じ鬼ではなさそうだけど…
「ねえりんちゃん。殺生丸さまって…」
聞いてみようと振り返ってみれば思わず声が小さくなる。
なんとなく静かになった気がするなあとは思っていたけれど、どうやらりんちゃんは知らない間に眠ってしまっていたらしい。布団も被らず、可愛らしい小さな寝息を立てて。
よほど日頃の疲れが溜まっていたのか、さっきまで大はしゃぎしていたとは思えないほどぐっすり寝入っている。そんな姿に思わずくす、と小さな笑みが漏れては起こしてしまわないようにそっと傍へ歩み寄った。
「風邪引くよ」
小さく丸まるりんちゃんにそう囁きながら布団をかけてあげる。そのまま優しく頭を撫でれば、りんちゃんは眠ったままふにゃりと微笑みを浮かべてくれた。
ふふ、可愛い。そう思った瞬間、背後から再び涼やかな夜風がぶわりと吹き込んでくる、と同時に、なにかの気配を連れてきた。
「りんは寝たか」
「! 殺生丸さま…」
突然の声にドキ、としながら振り返れば、そこには銀の髪を柔らかに揺らす殺生丸さまが立っていた。
一体どうやって突き止めたのか。迷った様子もない彼は小脇に爆睡する邪見を抱え込んでいる。
「あの…どうしてここだって分かったんですか…?」
「匂いだ」
「へ? に、匂い?」
端的に返された答えで呆気にとられてしまう。
確かにここ数日まともなお風呂に入れてなかったけれど、それでも今日は宿のお風呂を借りられた。それなのに臭ったのかな…そうだとしたらめちゃくちゃ恥ずかしいし申し訳ない。もう一度お風呂にダイブして来たいくらい。
試しに自分の体を嗅いでみるも私自身の匂いだからかなにも感じられずよく分からなかった。
すると殺生丸さまはそんな私を気にすることなくりんちゃんの傍へ歩いていき、抱えていた邪見を彼女の隣へ無造作に放り投げられた。
邪見は「うぐっ」なんて呻き声を上げるけど、どうやら相当に爆睡しているらしく目を覚ます気配がない。これなら部屋について文句を言われることもなさそうだ。
放置された邪見をりんちゃんと同じ布団に入れてやりながら、私はふと殺生丸さまのをちらりと見た。
殺生丸さまがなんの妖怪なのか分からないけど、私たちの場所を特定できるほどだ。それも匂いで。ということはきっと、嗅覚が優れた動物の妖怪なんだと思う。
嗅覚が優れた動物と言えば、ぱっと思い浮かぶのはあれだった。…ただ、どうしてもそうは見えなくてイマイチ信じ込めない。確かにかっこいい子もいるけど、私の中のそれはどうしても可愛いのイメージで、殺生丸さまとはずいぶんかけ離れて……
「なんだ」
「へっ!?」
金色の瞳が突然こちらを向いてドキ、と心臓が跳ねる。
無意識のうちに殺生丸さまを見つめてしまっていたらしいことが、彼の怪訝な表情からしっかりと窺える。
「す、すみませんっ、ちょっと考えごとしてて…」
「……」
慌てて謝ってみれば、殺生丸さまは無言のまま私を見据えられる。
最近分かった…殺生丸さまは言葉こそ少ないけれど、意外と思っていることが読み取れるような気がする、と。いまもきっと“考えごととはなんだ”って言いたいんだろう。そんな目をしているから。
とはいえ、私の予想を本当に口にしてしまっていいのか分からず目を泳がせてしまう。だってもし違った時には失礼かもしれないし…ああでも気になる。
よし、ここは腹を括って聞いてみよう…違ったら全力で土下座だ。
「あの…もしかして殺生丸さまって、犬の妖怪…ですか?」
機嫌を窺うようにそおーっと聞いてみれば殺生丸さまは表情を変えることもなくしばし私を見て、ただ無言でふい、と顔を逸らされてしまった。
そ、その反応は一体どっちなんだろう…でも私の首が飛んでいないということはきっと失礼には当たらなかったんだと思う。というか、否定の意思を感じない辺りもしかしたら当たりなのでは…? それに、犬だとしたらあの肩に纏われたもっふもふの毛皮にも合点がいく気がする。毛足の長いわんちゃん、みたいな…。
(…そっか…犬、なんだ…)
まじまじと主の姿を見つめては脳の処理を促していく。それでもやっぱり中々信じられずにいた。
例えば頭に犬みたいな耳がついてるとか、お尻にふさふさの尻尾がついてるとか…そういう特徴的なものがあれば納得もできるけど、目の前の殺生丸さまはどう見たって人間そのものだ。ちょっとファンタジーな要素はあるけれど、そんなものは気にならないほどに。
私がいつまでも殺生丸さまの姿を見つめていたら、突然がしっ、という衝撃とともに目の前が真っ暗になった。かと思えば、驚く暇も与えられずそのまま布団へぼふっ、と押しつけられてしまう。
「しつこい。早く寝ろ」
「ず…ずびばぜん…」
大きな手が鼻まで余裕で抑え込んでしまってるせいで変な声が出る。それが離れるとはあっ、と大きく息を吸い込んでもう一度殺生丸さまへ振り返った。
「殺生丸さまは寝られないんですか?」
「…私のことは構うな」
殺生丸さまは素っ気なくそう告げられると静かな夜空へ視線を向けられた。
これ以上余計な口出しするとまた鉄槌が下されるかもしれない。そう考えた私はいそいそと空いた布団に身を潜らせた。
…ちなみに布団はさっき見た通り二人分しか用意されていなくて、その片方をりんちゃんと邪見が占領してしまっている。だから私は必然的に殺生丸さまのお隣で寝なければならないんだけど…なんだかとても恐れ多い。
殺生丸さまは布団に入られそうにもないから添い寝なんてとんでもないイベントが起こることはないだろうけど、それでも横にいることに違いはない。寝ている間の私がなにか粗相をしてしまわないかすごく心配になる。緊張しながら布団を引き上げては首元まですっぽりと収まった。
お願いだから寝ている間の私、いびきもよだれもやめてね。寝返りで蹴りなんてかました日にはもう朝日を拝めなくなるから本当にダメだよ。きっと大丈夫だとは思うけど…。
「それじゃ殺生丸さま、おやすみなさい」
返されることはないと分かっていながらも一応挨拶をして目を閉じる。するとまるで疲れた体が布団に溶けていくかのようにじんわりとした気持ち良さが広がって、姿の見えなかった睡魔はあっという間にやってきた。
なんの躊躇いもなく私の意識を持っていこうとするそれに大人しく身を委ねようとした――その時だった。
「ゆっくり休め、
志紀」
いままで聞いたことのないような声で呟かれるその一言。
声の主は殺生丸さまだ。けれど殺生丸さまはそんなお言葉をくれたこともなければ私の名前を呼ばれたこともない。
あまりの驚きにたまらず意識を取り戻しそうになるけれど溜まった疲れと睡魔には抗えず、私はそのまま深い沼の底に沈み込むよう深い眠りについたのだった。
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