05
「気を付けろ」
抑揚はないながら咎めるようなその一言ではっ、と我に返る。
そうだ。完全に見惚れて呆けてしまっていたけれど、私はいま確かに妖怪とやらに襲われかけて殺生丸さまに助けていただいたんだった。
未だに信じ切れてないところはあるけれど、まさか妖怪がいるなんて思いもしなかった。だって妖怪なんて、お伽噺の中だけの空想の生き物だと思っていたから。
しかし実際にこの目でその姿を見て紛れもない現実なのだと分からされた今、ようやく“あまり遠くへは行くな”と言われた意味が分かった。みんなはこういうことがいつ起こるか分からないと身を持って知っていたからだ。それにも関わらず、私はりんちゃんと遊んであげることばかりを考えてこんな結果を招いてしまった。どう考えてもこの状況の非は私にある。
それを自覚すれば見下ろしてくる金の瞳がなんだか怖くなってきて、私は咄嗟に頭を下げていた。
「ほ、本当にごめんなさい! りんちゃんを危険に晒して…すみませんでしたっ!」
「待って殺生丸さまっ。
志紀お姉ちゃんは悪くないよっ」
土下座する私に慌てたりんちゃんが殺生丸さまから私を庇うように両手を広げて立ちはだかった。その勇姿にそっと顔を上げてみれば、殺生丸さまはりんちゃんをただ静かに見下ろしているだけの様子。
どうやら元々私に危害を加えるつもりはなかったのか、それ以上追及することはなく呆れたようにフ…と顔を逸らされてしまった。
助かった…と安堵したその時、森の方から息を切らせた邪見が走ってくる。お待ちくださいなんて騒がしく声を上げる彼はきっと殺生丸さまに置いて行かれたのだろう。しかし殺生丸さまは一切気に留めていないようだ。
邪見はようやく私たちの元へ辿り着くと、突き立てた人頭杖に縋るようにしてはあはあと荒い呼吸を整える。
「せっ、殺生丸さまっ。いきなり置いていかれては…って、んんー?」
苦しげな顔を上げた途端それが怪訝なものに変わり、見定めるように目を細める。その視線は殺生丸さまの背後の妖怪だ。小さな足でそれへ近付いてはまじまじと見つめている。もう残骸と呼ぶに相応しい姿になっているけど、よくそんなもの凝視できるな。
私が信じられないという顔を向ける中、邪見はふん、と鼻で笑い飛ばしながら妖怪の肉片を一蹴りした。
「こんな雑魚妖怪、殺生丸さまの手を煩わせずともこのわしが…」
「貴様では遅い」
「え゙」
自信満々に言い放とうとした邪見だったが殺生丸さまの鋭い一言に遮られてなんとも間抜けな声を漏らしていた。けれど殺生丸さまはそれに構うこともなく「行くぞ」とだけ告げ、同時に踵を返して歩き出されてしまった。
そんなお姿に邪見がああっ、と情けない声を漏らすと、突然こちらをキッ、と睨みつけてくる。
「元はと言えば、貴様らが休憩しようだのと駄々をこねて勝手な行動をするからいかんのだっ」
「うわ…殺生丸さまに冷たくされたからって、私たちに八つ当たりするんだ」
「あたしたち悪くないよっ。妖怪が出るなんて知ってたら、近寄ったりしなかったもんっ」
「ぐっ…」
りんちゃんが容赦なく正論を言い放てば邪見は面食らったように後ずさる。
りんちゃんの言う通りだ。そもそも妖怪なんて存在がいるということを知らなかった私も悪いけど、分かっていればもう少し警戒なりなんなり策は取っていただろう。
二人してじとー、と睨んでやれば、邪見は言葉が見つからないのか悔しそうに歯を食いしばって体を小刻みに震わせる。
八つ当たりなんてするからだ。そんな思いで腕を組んでいると、前方から「早くしろ」との言葉が投げかけられる。やばい、このままでは置いて行かれてしまう。慌てた私はすぐさまりんちゃんの手を握り、邪見を放置して殺生丸さまの元へと駆け出した。
さほど離れていない殺生丸さまの元へはすぐに追いついて、一歩後ろに並ぶと私は小さく頭を下げた。
「すみません…」
「……」
先ほどのこともあり、なんだか少しぎこちなさが胸に残る私はいましがた遅れたことも含めて謝罪を口にしたけれど、殺生丸さまはわずかに視線だけをこちらへ向けて相変わらず黙り込んだままだった。ただ長い銀の髪を揺らし、静かに歩を進めている。
その銀の髪が、つい先ほどは目の前で視界いっぱいに広がっていた。
その光景を思い出し、やはり心さえ奪われてしまいそうなほど綺麗だったと再認識しては小さなため息を漏らしてしまう。
(あの時の殺生丸さま、すごく綺麗だった……だけど、あの時…殺生丸さまが来てくださらなかったら…)
幻想的だったあの光景に忘れてしまいそうになっていた事実をふと思い出す。助かったからこそそんな呑気な考えをしているけれど、あの時は確かに命の危機が迫っていたのだ。
もしあそこで殺生丸さまが助けに来てくれていなければ、私もりんちゃんも確実に殺されていただろう。それを思えばゆっくりと歩みを進めていた私の足もいつしか止まっていて。手を繋ぐりんちゃんも伴うように足を止めては、不思議そうに私の顔を覗き込んできた。
「
志紀お姉ちゃん…?」
「……殺生丸さま」
ぽつりと呟くように呼び掛けてみれば殺生丸さまは足を止めてわずかに私へ視線を向けながら「なんだ」と返してくれる。話を聞いてくれるだけでもありがたかったけれど、それでも私は顔が上げられず表情を暗く曇らせていた。
「その…本当にごめんなさい。私がもっと早く気が付いて…考えて行動できていれば…りんちゃんを危険に曝すことも、殺生丸さまの手を煩わせることもなかったのに…」
「
志紀お姉ちゃん…もーっ。
志紀お姉ちゃんは悪くないってば!」
心配そうな顔を向けていたりんちゃんがぐっ、と私の手を握り締めながら訴えかけてくれる。けれど私は小さく首を振るってそれを否定した。
「違うの、りんちゃん。私がもっとちゃんとこの世界のことを理解していれば…」
「りんの言う通りだ」
「…えっ…?」
私の声を遮るように投げかけられた言葉に目を丸くする。
俯かせていた顔を無意識に殺生丸さまへ向ければ、彼は知らぬ間にこちらへ向き直っていた。正面に立つ彼の金の瞳が、真っ直ぐ私を見据える。
「見たところ、貴様はただの人間だろう。そのような奴が妖怪の邪気を察知できるはずがない」
「で、でも…」
「口答えをする暇があるなら、まずは役に立つことをしろ」
はっきりとそう告げられると、殺生丸さまは再び背を向けて歩き出してしまう。思わず気圧されてしまった私は再び俯きそうになるけれど、まるでそれを止めるようにりんちゃんが私の服の裾をくいくい、と引っ張ってきた。
「
志紀お姉ちゃん。心配しなくても、殺生丸さまは怒ってないよ」
「え? だっていま…」
「殺生丸さまはいつもあんな言い方するけど、ちゃんと分かってくれてるんだよ。本当に怒ってる時は、もっと怖くてすごいんだから」
空気がびりびりするんだよ、と力強く続けるりんちゃんに思わず目をぱちくりさせる。それだけ力説するということは、りんちゃんは殺生丸さまのそんな姿を見たことがあるということだろう。
それを思い知らせる彼女の姿が懸命で健気で。なんだか罪悪感も不安も落ち込みもなにもかもを忘れさせられると、つい小さくふっ、と吹き出してしまった。
「ふふ、ありがとう、りんちゃん」
胸に温かな気持ちが込み上げるのを感じながらお礼を言うと、私はりんちゃんの頭をそっとゆっくり撫でてあげた。するとりんちゃんはくすぐったそうに「えへへ」と笑みをこぼす。
――この時代に来てから、本当にりんちゃんに救われてばっかりだ。私ももっとしっかりしなきゃ。
そう意識を改めては不安を振り払うように強く前を向いた。
「よし、じゃあ行こっか!」
「うんっ。早くしないとまた置いて行かれちゃうもんねっ」
笑顔で差し出されたりんちゃんの手を握ればしっかりと握り返される。
私はその手を離さないように握り締め、再びりんちゃんと一緒に殺生丸さまの元まで走り出した。
…と同時に、後ろから「わしを放置するなーっっ」と叫ぶ邪見の声でようやく彼のことを思い出してりんちゃんと顔を見合わせてしまう。
ごめんね邪見。いまのいままで本気で忘れてました。
back