03
「な、なに…その子…」
強く引き攣った口からそんな声が漏れ出でる。
りんちゃんが“置いてきてる子がいる”と話してくれた方角へついて行ってみれば、かつてないほどの衝撃的生物を目の当たりにした。
邪見も邪見だけど、この子は一体なんなんだ。馬…? でも、鱗とか諸々竜っぽいような気がするし…ていうかなによりも気になるのは……
(なんで首が二つもあるの…!?)
りんちゃんに愛おしそうに首を摺り寄せる馬とも竜ともつかない謎の生物は見間違いでもなんでもなく、体からしっかりと二つの首を伸ばしている。でも誰もそれを気にしてはいないようで、私だけがただただ唖然と大口を開いてしまっていた。
そもそもりんちゃんは怖くないのだろうか。普通に頭撫でちゃってるけど。私だったらびびって触れないどころか近付くことすらできない。現に中々の距離をとっているくらいだし。
「そんなに怖がらなくて大丈夫だよ。阿吽はとってもいい子だもん」
「ア…ハイ…」
木の陰に隠れようとしたところをりんちゃんに諭されてしまって情けない声が漏れてしまう。私の方が全然年上なのにダメダメだ…。
ほら、と阿吽とやらを触るよう促してくるりんちゃんの姿にごくりと生唾を飲み込めば、その様子を傍で見ていた邪見が思いっきり鼻で笑ってきた。
「なんだ小娘。腰が引けておるぞ」
「う、うっさいな…馬だって触ったことないんだし仕方ないでしょ…」
じろりと睨みつけて言うも邪見の馬鹿にするような表情は変わらない。自分は慣れてるからって、初対面でビビる相手を煽って楽しいかコノヤロウ。
「ほれ、早く触るがいい小娘」
「だーっ! ちょっと黙ってて! 大体、私“小娘”なんて名前じゃないからっ」
「ふん、それは名乗らぬ貴様が悪いのだ」
鼻を鳴らしながら言う邪見に思わず目を丸くする。
あれ、うそでしょ? 私、まだ名乗ってなかったっけ。思いっきり首を傾げて出会った時からいまのいままでの記憶を探ってみれば、確かに気が動転しているばかりで全然名乗っていなかったような気もしてくる。
それは確かに私が悪いな…。
「えー…ごほんっ。名乗り遅れました、私は
志紀でございま…すうっ!?」
名乗ろうとしたその時、突然脇腹をぐい、と押し込まれる感触に声を裏返してしまう。咄嗟に勢いよく振り返ってみれば、そこにはりんちゃんを背に乗せた阿吽とやらが私に頭を押しつけていた。ん…? 押しつけて…って、近い! 近いどころの話じゃない!!
ようやく現状を理解した頭が真っ白になりそうになったその時、阿吽が私の両手に頭をぐりぐりとこすりつけてきた。それはまるで、犬や猫のような“撫でて”という仕草。
(あ、あれ…? なんか…意外と可愛い…?)
予想外の動きに呆然としてしまう。見た目はどちらかといえば怖いもので、もっと威嚇してきたり牙を剥いてくるかも知れないと思っていたために、この仕草には心底驚かされた。思わずぽかんとした顔をりんちゃんに向けてみれば「ね?」と嬉しそうな笑顔を見せてくれる。
人も動物も見かけに寄らないものだな、なんて思いながら頭を撫でてやれば阿吽は嬉しそうな声を小さく上げていた。
* * *
阿吽とも打ち解け、ようやく旅の一行が全員揃ったというところで本格的に旅が再開された。けれどみんなの行き先を知らず、自分の目的を果たすための情報もなにひとつない私はただぼんやりとついて歩いている。
その手には阿吽の手綱。これは邪見の指示で、当初はなんで私がと抗議しかけたけど「ついてくる以上、少しは役に立つことをしろ」なんて言われてしまって大人しく従うことにした。その言い方にはちょっとむっとしたけど、無理を言って付き添わせてもらってるのは紛れもない事実なのだ。反論なんてできるはずがない。
そう考えた時、ふとあることを思い出した。
(そういえば…私を連れていくよう説得してくれたのって、りんちゃんなんだっけ)
思い返してみればあの時りんちゃんは唯一私を誘ってくれて、さらには置いて行くのは嫌だと抗議してくれていた。きっと邪見に無理矢理連れていかれたあのあと必死に殺生丸さまを説得してくれたに違いない。それは同行を許されたあの時のりんちゃんの表情からも分かる。
それなのに私はちゃんとお礼も言わずのうのうとついてきていた。いくらなんでもそれはまずいでしょうよ。年上としてだけでなく、人として。
「りんちゃん。あの時はありがとね」
阿吽の背でまっすぐ前を向くりんちゃんを見上げながらお礼を言えば、こちらに向けられた顔がきょとんとした表情を見せる。いまさらすぎて伝わってないのか。続け様に私を誘ってくれた時のことだと言ってあげれば、りんちゃんはさらに深く首を傾げてしまった。
「どういうこと? あたし、なにもしてないよ」
「えっ?」
予想外の返答に思わず足を止めてしまう。謙遜かと考えそうになったけれどこんな年端もいかぬ女の子がそんなことするだろうか。それに向けられた表情は本当に知らないとでも言うよう。
…ということは、りんちゃんは殺生丸さまと邪見に説得なんて一切していないということになる。じゃあなんであの殺生丸さまがわざわざ誘いに戻ってきてくれたんだろう。
申し訳ないけど、そんなに心優しい人だとは思えないしなによりも私に一切の興味がないように見えた。
まったく想像もつかない理由にうーんと唸りながら頭を悩ませていれば、それを察したりんちゃんが視線を上向かせて思い出すように話し出す。
「あたしね、確かに
志紀おねーさんの言う通り殺生丸さまにお願いしようとしたんだよ。だけど殺生丸さま、なんだか難しい顔してて…」
「難しい顔?」と返せばりんちゃんはしっかりと頷き返してくれる。そしてこんなことを話していたとその時のことを思い出しながら再現してくれた。
「邪見。お前はなにか感じたか」
「ひへっ? あの小娘のことでございますか? ゔーん…なんとも変わった人間のようでしたが、特には…」
「…………」
二人が交わした会話はたったその程度で、殺生丸さまは難しい顔をしたまま私の元に戻ってきてくださったのだという。
邪見に“お前は”と聞いたということは、殺生丸さまが私に対してなにかを感じたということだ。でも肝心のそれは分からない。やっぱり奇人認定されたのかと思うけれど、きっとあの方ならわざわざそんな奴に構うことなんてことはしない気がした。
(もしかして殺生丸さまって、意外と優しい人なのかも…)
全く想像のつかない理由は、案外単純に“見捨てられない”なんて思いだったりして。そう思いながら先を行く当人の背中を見つめていれば、不意にその足がピタリと止められた。どうしたのかと思って見ていると、その顔がわずかにこちらへ振り向かされてとてつもなく鋭い瞳で睨みつけてくる。
「その目、潰されたいか」
(うわーお)
前言撤回。やっぱり最初の予想通り、全然優しくないわ。
たぶん私の視線を感じ取って鬱陶しいとかなんとか思ったんだろうけど、それにしても物騒すぎる。もっと単純に“見るな”とかでよかったと思う。
若干引きつつも慌ててすみませんでしたと謝れば殺生丸さまは再び歩みを進め始めた。今回はなんとか見逃してもらえたらしい。
「はあ…このままだといつかバッサリいかれそうだな…気をつけよう…」
安堵のため息を漏らしつつも殺生丸さまのお腰に携えられた刀を見れば背筋がひやりと冷える。きっと粗相をして怒らせてしまったらあの刀でズバーっといかれるに違いない…と身を震わせていれば、頭上から「そんなことないよ」という声が降らされた。
「殺生丸さまはとっても優しいよ。あたしを助けてくれたもん」
「助けてくれた…?」
「うんっ」
にっこりと満面の笑みで頷くりんちゃんは本当に嬉しそう。
なんでこんな恐そうな人に、家族でもなさそうなりんちゃんがついて行ってるのか不思議でたまらなかったけど、まさかそんな過去があったとは。助けてもらった、というのがどういう状況からなのかは聞かされなかったけど、りんちゃんはそれ以来ずっと殺生丸さまについて回っているらしい。
じゃありんちゃんの家族は…? なんて思いが浮かんだけど、こんな時代だ。もしかしたら戦に巻き込まれたり重い病気に罹った可能性だってある。勝手にそうだろうと思い込んでしまった私は、天真爛漫なりんちゃんの姿にじーんと目の奥を熱くした。
「ねえ、りんちゃん。りんちゃんがよければなんだけど…私のこと、お姉ちゃん代わりにしてくれていいからね」
出会ったばかりで厚かましい申し出かもしれない。それに私がこの先どれくらいの期間を一緒に過ごすのかは分からないけれど、それでも、少しでもりんちゃんの家族同然の人間になれたらいいなと思った。
するとりんちゃんはきょとんとしていた表情からんー、と思案する様子を見せると、次いでは花が咲くような明るい笑顔を浮かべてみせた。
「うんっ。よろしくね、
志紀お姉ちゃんっ」
曇りのない純真な笑顔。よかった、少しは喜んでもらえたかな。そう思えるような様子に胸が温かくなるような感覚を抱きながら、私も釣られるように微笑んだ。
そんな時、不意に前方から「おいっ」と粗暴な声が響いてくる。
「なにをぼさっとしておる。殺生丸さまをお待たせする気か! さっさとついて来いっ」
「はいはいただいまー」
せっかくの温かい雰囲気をぶち壊すような邪見の物言いに適当に返事をすれば、邪見は「まったく…」と小さな声を漏らして殺生丸さまを追いかけていく。いちいちうるさい奴め…そんなに殺生丸さまが大事か。
そう悪態づいたその時、ふと殺生丸さまのことが気になった。邪見がなによりも殺生丸さまのことを気にかけて付き従っているけれど、あのお方はそんなにすごい人なんだろうか、と。
「ねえりんちゃん。殺生丸さまってどんな人なの?」
気になったなら聞くのが早い。そう考えて問いかけてみれば、りんちゃんはどこか目を輝かせながらぐっと両手を握って言い張った。
「すっごく強いよ! 誰にも負けないんだっ」
「そうだっ。それにお前なんぞには想像もできんくらい、高貴で大それたお方なのだからな!」
「うわっ、急に入ってきた!」
前を歩いていたはずの邪見が突然誇らしげに迫ってくる。多少なりとも距離があったはずなのに耳ざとく聞きつけてきたのか。どんだけ殺生丸さまのことが好きなんだこいつ。
「へえ…とんでもなくべた褒めだけど、そんなにすごいの?」
「当然だっ。殺生丸さまのお傍におられるだけで光栄なのだからな。お前はちゃんと敬意を払って従っておらねばならんのだぞ!」
「は、はあ…」
ぐいぐいと迫る邪見の圧に負けて顔を引きつらせてしまう。敬意、ねえ。
結局詳しくは分からないけど、殺生丸さまはやっぱり相当お偉い方のようだ。邪見もりんちゃんも揃って敬語を使っているから、私も合わせて“殺生丸さま”と呼んでみていたけれどどうやらそれで正解らしい。
初対面で下手な口を聞かなくてよかったと内心強く安堵していれば、不意に殺生丸さまが足を止めて私たちへ振り返ってきた。
「今宵はここで休む」
そう言うと殺生丸さまは木陰へ腰を降ろしてしまわれた。そういえばいつの間にか太陽も姿を隠し始めている。二人がすぐに返事をするのに遅れて続いた私は阿吽の手綱を引いて、殺生丸さまと少しだけ距離のある木陰に入った。
わざと距離を置いたのはちょっと怖いからだけじゃない。きっとあのお方もあまり近付いてほしくないだろうと思ったからだ。それにあれだけ付き従っている邪見もある程度の距離を置いているくらいだから、一定の距離は保たないといけないのだと思う。
「あ゙ー…疲れたー…」
阿吽の背から降ろしてあげたりんちゃんと一緒にぐったりと座り込む。こんなに歩くのは久しぶりで、体力の限界なんてすぐに訪れてしまう。足ももうとっくに棒みたいだ。
(元の時代ではこんなに歩くこともなかったし…)
はあ、とため息をこぼし横になろうと体を傾ける。
寝るにはかなり早い時間だと思うけれどもう耐えられない。どっと押し寄せてくる疲れのせいか、とんでもなく狂気的な睡魔が私に付きまとうのだ。
体を倒してふと見上げたのはオレンジ色に紺色が混ざり始める鮮やかな夕空。いつの時代もどこにいても変わらないこの空だけは、私の不安をほんの少しだけ和らげてくれる気がする。
(…私、ちゃんと元の時代に帰れるのかな…)
誰に向けたわけでもない、声にならない言葉を胸に響かせる。
帰りたいのは事実だ。けれどもし本当に帰ることができたその時、私は後悔したりしないのだろうかなんて思いが浮かび上がる。というのも、いまのこの状況から離れてしまうのがなんだか惜しい気もするからだ。
好奇心とは恐ろしいもので、あれだけテンパっていたはずのこの非日常的な状況に、いまではなんだかわくわくしている。
きっとこんなに好奇心を駆り立てられるのは、見たこともない世界に置かれたからだけではない。最初に出会ったのが人間離れした美男子とよく分からない二足歩行の生物、双頭の龍のような馬(?)とそれらを怖がりもせずついて行く小さな女の子たちだったということも含まれるだろう。
そんな分からないことだらけの彼らは私の興味を惹くには十分な存在であった。
(みんな悪い人たちでもなさそうだしね)
まだ出会ってから数時間ほどしか経っていないけれど私にはなんだかそう感じられた。悪い人ならきっともう私の身は危険に曝されているような気もするし。
ただ…生憎、殺生丸さまだけは本当にまだ分からない。全然喋らないし私を誘ってくれた割にはなんだか受け入れてくれているようでもなさそうだから。
それでも、きっとりんちゃんや邪見のように悪い人ではないはずだと私は勝手に信じ込んでいた。
(少しずつでいいから…殺生丸さまのことも知りたいな…)
ちらりと殺生丸さまへ視線を送りながら思う。
彼に私と打ち解ける気があるかなんて分からないけれど、私はいつか言葉を交わし合えるほどにはなりたいと思っていた。その日がいつ来るのか、本当に来るのか、それとも来る前に私がここを去ってしまうのか。
それはいまの私には知る術もないのだけど、遠くない未来にこの小さな望みが叶いますようにと密かに願ったのは確かであった。
「…あの女、一体…」
紺色に浸食された空から逃げるように目を伏せた私は、ぽつりと呟かれた殺生丸さまのその声を聞き取れるはずもなく、ただ静かに深い眠りへと落ちていった。
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