02
呆然。ただただ呆然。それが私の現状だった。
公園にいたはずの私は見たこともない草原に飛ばされて、見たこともない人たちを目の前にしている。しかもその服装はめちゃくちゃ時代を感じさせるもの。
もしかしたら倒れている間に新しい大河ドラマのロケに混ざり込んでしまったのかもしれない。夢遊病みたいなやつで。そう考えてみるけれど、いつまで経っても関係者らしい人は誰一人として現れやしない。ということは、撮影の類ではないのだろう。
(じゃあなに? やっぱりタイムスリップなんて非現実的なことが起こっちゃったの?)
状況が全く理解できず混乱してばかりの頭が色んな思考に埋め尽くされそうになる。このままじゃキャパオーバーでパンクしちゃうよ…。
段々と目が回ってくるような感覚に頭を抱えてしまう。するとそんな私を見た小さな女の子が、隣の緑色くんをつんつんとつつきながら不思議そうに問いかけた。
「ねえ邪見さま。あの人、どうして急に出てきたのかな」
「そんなこと、このわしが知るかっ」
すぐさま怒鳴るように反論する緑色くんはどうやら邪見というらしい。その手にはなにやら人の顔が二つくっついた不気味な杖を持っていて、まるで感情を表すようにぶんぶんと振り回している。けれど女の子は暴れている緑色くんなど特に気に留めることもなく、「ふーん」とだけ呟いて再びこちらを見つめてきていた。
その姿がなんだかちょこんとしていて可愛らしい。でもきっと、見慣れない私に怯えているんだ。目が合うたびに、銀の髪を揺らす男の人の陰にささっと隠れてしまうから。
この様子だと、まともに会話できそうなのはたぶん緑色く…じゃなくて邪見くんだけだ。目の前の男の人は私を睨むだけで全然喋らないし、なにより威圧が怖い。
人語を喋るトカゲ(?)相手に話をするのはなんだか変な感じがするけれど、今はそんなことを言っていられる状況じゃない。全くサッパリこれっぽっちも分からない現状に少しでも情報が欲しいから、意を決して邪見くんに尋ねてみるしかないのだ。
「えーっと、教えてほしいんだけど…ここって一体どこなの…?」
「それも知らぬとはやはり怪しい奴…貴様は一体何者だ! いきなり殺生丸さまのお膝に現れおって!」
「殺生丸さま…?」
邪見くんが杖をこちらへ突きつけながら怒鳴るように声を荒げてくる。
その“膝に現れおって”という言葉から、ようやく目の前の男の人がそういう名前なんだと知ることができた。なんというか…とんでもなく変わった名前だ。なんてのんきなことを考えながらふとその男の人へ視線を向けてみる。
う…な、なんとも無表情…。
邪見くんと違い、怒っている様子もないように思える。けれどその目は、睨んだものを凍て付かせてしまいそうなほどひどく冷たい感じがした。
その時、バッチリと目が合ってしまい心臓が飛び出しそうなほどに肩を跳ね上げた。や、やばい。なにか言わないと…でもなんて? もっかい謝るべき?
思考がぐるぐると駆け巡った末、私はドギマギとしたなんともぎこちない様子で言葉を紡いでみせた。
「あ、あのっ…私なんだか…タイムスリップ? をしちゃった、みたい…なん、です…が…」
こちらを真っ直ぐに見つめてくる金の瞳に圧倒されて語尾が弱々しくなってしまった。
そもそも本当にタイムスリップしていたとして、遥か昔の人に“タイムスリップ”なんて言葉が通じるはずがないじゃないか。気付くのが遅い。やっちまった。
案の定言葉が分からず怪訝な表情を浮かべる邪見くんに対して、にへら、と誤魔化すような苦笑を向ける。すると邪見くんは唐突に目を細めて、難しい表情のままそっと口を開いた。
「言葉の意味はよう分からんが…貴様は時を越えて来たと言いたいのだな?」
「えっうそ、通じた!? そうそうっ、未来から来たの!」
「確か…犬夜叉めとともにおる小娘がそのようなことをしておると言っておったような、そうでないような…」
「ん? もしかして…私以外にもいるのっ!?」
ブツブツと呟く邪見くんの言葉に耳を疑う。いま確かに、いぬ…なんとかのところにタイムスリップした人がいるって言ったよね…よかった、私だけじゃなかったんだ!
きっと彼らはそれを知っているから、私に対して“急に目の前に現れた”という現象以外あまり驚かなかったんだなと少し納得する。普通ならまず一目で奇怪だ、とバケモノかなにかの扱いを受けるだろう。こんなラフなパーカー姿の人なんて絶対に見たことがないだろうから。
邪見くんが言う女の子がどこの誰だかは分からないけど、私の初見の警戒心を少しでも解いてくれてありがとう。おかげで目の前のお方の腰に備えられた物騒な刀にかかることはなさそうです。今のところは。
(もしかしたら帰り方とか、知らないかなあ…)
ふとその時をかける少女に思いを馳せる。なにやらその人には犬なんとかさんっていうお仲間もいるみたいだし、きっと私よりももっと前にタイムスリップしているはずだ。
ということは、もしかしたらもう現代への帰り方を知っているかもしれないし、知らないとしてもその人たちと一緒に探せばいい。同じ境遇の人間同士、きっと仲良く前向きに頑張れるはずだから。
そんなことを黙々と考えていれば、少しは警戒心が薄れてくれたのか陰に隠れていた女の子がちょこちょこと私の目の前に歩み寄ってきた。
「おねーさん」
「ん? なに?」
「おねーさん、これからどうするの?」
ちょっとツリ気味の大きな瞳が真っ直ぐに私を見つめてくる。
こちらもぽかんとしながら見つめ返し、そのストレートな質問を頭の中で反芻させた。
(これからどうするって…“これから”…?)
思わずゆっくりと首を傾げると女の子も釣られて首を傾げてしまう。
きっとこの子は“時を越えて来た私が現状この世界でできることもなく帰る場所もない”というのを察して問いかけてくれたのだろう。それはあながち間違ってもいない。私がいま決めたことは、とりあえず同じ境遇の人を探そうということだけだったから。
……でも、どうやって?
どんな人かも分からない相手を、どこにいるかも知らないのに、こんな広大な世界の中から一体どうやって探せばいいんだろう。
いまようやく自分の計画性のなさに気が付いて、段々と頭が真っ白になっていくのを感じた。
「ねえ、おねーさんも一緒に行かない?」
自分の無計画さに呆然とさせられていれば、突然女の子がそんな提案を持ち掛けてくれた。
な、なんていい子…! 突然現れた見ず知らずの人間相手に、怯えていたはずなのに、こうして救いの手を差し伸べてくれるなんて…! 天使だ、天使がいる…!!
…って、そうじゃないそうじゃない。
そもそも一緒に行こうって、一体どこへ? まさか時をかける少女を一緒に探してくれるんだろうか。でもそれにしてはこの子の言葉には違和感がある。この言い方は、すでにどこかへ向かっている最中のようだから。きっとこの子は一緒に探そうという意味ではなくて、仲間に入れてあげるという意味で言ったんじゃなかろうか。
もしそうだとしても、いまの私にとってそんなことはどうでもいい…
「私…ついて行ってもいいの?」
「いいよっ」
身元の知れない私だけど、という意味合いも込めて聞いてみれば女の子はより一層明るく返事をくれる。なんだか分からないけど、私の人畜無害っぷりが伝わったらしい。
――正直、こんなわけの分からない状況はもうどうしようもないと思っていた。けれどまさか救いの手を差し伸べてくれる存在がいるなんて思ってもみなくて、形容しがたい感情を溢れさせた私はぼろ、と涙をこぼした始めた。それは留まることを知らなくて、いつしか滝のようにだばだばだばと流れていく。
ゔれ゙じい゙…濁声でそう呟けば女の子は「大丈夫?」と頭を撫でてくれる。この子に出会えてよかった。そう思いながらぐすぐすとみっともなく涙を拭ってお礼を言おうとしたその時、ことの顛末を隣で見ていた邪見くんが再び血管を浮かび上がらせて騒ぎ立てた。
「りんっ。貴様なに勝手なことを言っておるのだ! そんな小娘を連れていくなど、殺生丸さまが許すわけがなかろうっ。ねえ、殺生丸さま?」
どうやらりんちゃんというらしい女の子に厳しく言いつけた邪見くんが振り返ると、それまで動きを見せなかった殺生丸さまとやらが立ち上がり踵を返した。彼はそのまま小さく「行くぞ」とだけを言い残し、りんちゃんたちの返事を聞くこともなくさっさと歩き出してしまう。
思いっきり邪見くんの質問をスルーしてるけど、邪見くんはそれでいいんだろうか。ちらりと横目に見てみればそれは日常茶飯事なのか特に気にした様子もなく、はいとだけ返事をしていた。
これらを見るに、やっぱりこの集団のボスはあの人だ。そんな人を無視して勝手に同行しようとすればそりゃー怒るだろう。と思いながら彼の背を見つめるけれど、別段怒っているというわけでもなさそうに見える。
ならばものは試しだ。これで怒って斬りかかって来ないことを祈るぞ。
「あ、あのっ。帰る方法が見つかるまででいいので、一緒に行ってもいいですか!?」
わずかに遠ざかる彼に届くよう声を張り上げると、ほんの一瞬だけその足が止められた――かと思えば、またすぐに歩き出してしまう。振り返ることも視線をくれることもない。一切の興味を示されていないようだった。
(ダメ、か…そりゃそうだよね…)
はあ、と大きなため息をこぼせば視界の端でなにかが動く。そちらへ顔を上げてみれば、邪見くんが憎たらしいほど誇らしげな顔をこちらに向けてきていた。
うっわー、めっちゃうざい。
「やめてくんない、その顔」
「ふんっ、ざまをみろ。殺生丸さまは貴様のような人間の小娘と付き合っていられるほど暇ではないのだ」
最大限バカにするように言ってくる邪見く…邪見の顔をいますぐにでも殴り飛ばしたくなった。なんて憎たらしい奴。もう絶対に”くん”なんて付けてやるもんか。
私がじと、と睨めば、邪見は構わず身を翻してりんちゃんへ声を荒げた。
「ほれ、りん! さっさと行くぞっ」
「えーっ、なんでダメなのっ。あたし、おねーさんを置いて行くなんてやだっ」
「文句を言うなっ。いいから早く来い!」
そう怒鳴りつけると邪見はふて腐れるように文句を言うりんちゃんの手を問答無用で引っ張った。りんちゃんはその手を振り払うこともできず、ただ申し訳なさそうな表情をこちらへ向けたまま遠ざかっていく。
私はその様子をただ見つめることしかできず、小さくなる彼女たちを静かに見送ってしまった。
はたと気が付けばその姿は完全に見えなくなっていて、今さらながらの焦りを沸々と湧き上がらせていく。
(いや…いやいやいや、うそでしょ? もしかして私、知らない場所に放り出されていきなり放置プレイされてる?)
予想もしなかった状況に唖然とする。いや、そもそもなにもかもが予想外だけどさ。
ものの見事に置いて行かれて二人と一匹(?)がいなくなったこの場所は、まるで嵐が過ぎ去ったかのようにしーん…と静まり返っていた。すると突然そこへぶわりと風が吹き抜けていく。
やめて。虚しさが煽られる。私そろそろ泣いちゃうから。
人知れずそんな思いを胸中でこぼすと、頭が空っぽになってしまったような感覚に見舞われて力が抜けるままその場にへたり込んでしまった。
もしかしたら少しは心配してくれて、戻ってきてくれるかも、なんて期待を込めて地平線を見つめ続けるけど、そこには誰一人として姿を見せてくれない。
(…もしかして私、本当に…やばい?)
想像以上にピンチかもしれないと分かった途端、サー…と血の気が引いていくのを感じてしまう。
いま私の救いとなりそうなものは同じ境遇の人がいるという情報だけ。でもそれはどんな人でどこにいるのかなんてさっぱり分からない。それを水もまともな食料もないこの状況で一人で探せなんて、鬼畜にもほどがある。こんなことならもっとしっかりした食料を買っていればよかった。
ああ無理だ、見つけられっこない。
さよなら現世。私はここで飢え死にしてあの世へと旅立ちます。
半ばやけくそ気味にそんなことを考えてぐったりと俯けば、不意に遠くがほんの少し騒がしくなったような気がした。けれどそれはすぐに静まり、私が顔を上げようとした寸前でなにかの影が音もなく差し込んでくる。
「……?」
なんだろう、なんて思いながら頭を持ち上げてみれば、ちょうど太陽に重なる人影が目の前にあった。眩しくて思わず目を細めてしまうけれど、逆光で陰るその姿は確かについさっき私を置いて行った人物――殺生丸という人だった。
それを認識すると同時に、邪見とりんちゃんまで慌てたように駆け寄ってくる。
(も、戻って来てくれたっ…!?)
思わず嬉しさでぱあっ、と目を輝かせるけれど、直後に嫌な予感がよぎる。
この人は私が(故意でないにしろ)勝手に膝に乗ってしまった人だ。絶対嫌な思いをしたはず。そんな人がわざわざ心配だから戻ってくるなんて煩わしいことをするだろうか。いや、普通はしない。
そんな経緯で戻ってくるとすれば、仕返しに決まって……
あ、やばい。私今度こそ終わった。
「貴様は来んのか」
「……へ?」
とてつもなく予想外なことを唐突に言われて素っ頓狂な声を漏らしてしまう。
だって。だっていま、なんておっしゃいました?
私があまりの信じられなさに衝撃に受けてぽかんとしていると、不満そうな顔の邪見がぺたぺたと歩み寄ってきては不気味な杖で私の頭を小突いてきた。普通に痛い。
「せっかく殺生丸さまが許可してくださったのだ! さっさと決めんかっ」
「でもさっき無視して…ほ、ほんとにいいの…?」
「当たり前だろうっ。殺生丸さま直々のお誘いなのだぞ。なにをいまさら確認することがあるっ」
当たり前なのか…なんて思いながら小突かれた頭を擦っていると、殺生丸さまは再び踵を返して歩き出してしまう。これ以上無駄な会話はしないということなんだろう。それに伴うように、邪見とりんちゃんもこちらをちらりと見ながら殺生丸さまの後を追い始めた。
その振り返り際にりんちゃんが“よかったね”と声もなく囁いてくれる。
ああそうか。きっとりんちゃんが殺生丸さまたちを説得してくれたんだ。
(急に現れた、見ず知らずの人間なのに…)
受け入れてくれた。それを改めて実感すれば胸の奥がじわりと熱くなる。
掛けられた言葉は“貴様は来んのか”なんて、すごく素っ気なくて短い、たったの一言だけど。それでもいっぱいの不安を抱えていた私にはなによりも嬉しくて、温かくて…
グ…とその余韻を噛みしめていれば目尻が熱を帯びてくるのを感じる。けれど泣いてはいられない。私の旅はこれからだから。
はあ、と強く息を吐き出せば、前言撤回なんて言われてしまわないように急いでみんなのあとを追いかけていった。
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