01

夏。 コンビニへの買い出しから帰路を辿る私へ、殺人鬼並みの太陽がギラギラと照らしつけてくる。 夏は嫌いだ。暑いし湿気はすごいし虫は多いし…いいことがない。 「はあ…あっつ…」 うんざりしながらどっかりとベンチに座り込む。 真っ直ぐ家に帰ればいいものを、私はわざわざ途中の公園に立ち寄って木陰になっているここで休息を挟んでいた。買ってきたのはお菓子とか軽いものだし、要冷蔵のものもないから気兼ねなく休むことができる。というわけですぐさま買ってきたアイスを口にした。 はあ~…生き返る…アイス最高。 口の中に広がる幸せをじっくりと堪能していれば、ボールで遊んでいる子供たちがちらちらと羨むような視線を向けてきていた。うーん、申し訳ない…これは分けてあげられるようなアイスでもないんだ。 心の中でそう謝罪していれば、ふと日傘を差して歩く女の人が目に入ってあ、と小さく声を漏らす。思い出したのは家を出る前のことだ。 (そういえば傘立て蹴飛ばしてきたんだっけ…帰ったら直さなきゃなあ…) 思わずため息がこぼれる。 置いている位置が悪いのか、出掛ける時にたまにやってしまうのだ。いつもは直してから外出するんだけど今日はそれすらも億劫で、早くアイスが食べたいという欲も合わさり、傘を拾うこともなくさっさと出てきてしまっている。 後回しにするとそれはそれで面倒だけど、もう外に出てしまった以上は仕方がないよね。恨んでくれるな未来の自分。 そんなことを考えながら、あっという間に食べ終えてしまったアイスのゴミをくしゃりと潰した。 アイスのおかげで少しは涼めたけど、やっぱり暑いものは暑い。どれだけ拭っても汗が噴き出してくる。 うんざりするような熱気にため息をこぼせば、その声はけたたましいセミの鳴き声にあっさりかき消されてしまった。これもまた、一段とうんざりさせられる。 「はあ…セミなんていなくなればいいのに…ん?」 疎ましくぼやいたその時、なにかが目の前をひらひらと横切った気がした。 それに釣られるように顔を向けてみれば、そこには見たこともない模様をした蝶がまるで私を誘うように優雅に飛んでいる。青と白だけで構成されている模様。それは涼しげで、とても幻想的だった。 こんな蝶がいるなんて知らなかった…綺麗だなあ。テレビでも見たことない。 もしかして新種? なんて思いながらそれをじっと見つめてみた。虫嫌いな私でも蝶は平気だ。むしろ遠目に見るだけなら好きかもしれない。 よく見れば蝶がなにやら光る鱗粉のようなものを振り撒いていた。それがまた美しくて、私は思わずその蝶へと手を伸ばしてしまう。すると蝶はそんな私を止まり木だとでも思ったのか、ヒラヒラと優雅に羽ばたきながら私の指に触れようとした。 ――その時、町内放送用に備え付けられていたスピーカーが突如キイィィンッ、と強くハウリングした。 「っ!?」 思わずビク、と体を跳ねさせてしまう。しかしハウリングはほんの一瞬でそれ以上なにかが聞こえることもなく、他に異変もなければ辺りはさっきまでと同じように騒々しいセミの鳴き声だけが木霊している。 思わず周りの反応を窺うように辺りを見回したけれど、どうやら元気に駆け回っていた子供たちは気が付いていないのかはたまた気にしていないのか、変わらずボール遊びに夢中な様子だった。 あれだけの音がしたのに驚きもしなかったのかな…普通なら立ち止まったりすると思うんだけど…。 なんだか“私だけが経験した”かのような不可思議な状況に違和感を抱きながら大人しくなったスピーカーを見つめる。誰かが操作でも誤ったのだろうか…なんて知る由もない原因をぼんやりと考えていれば、ふと目の前の小さな異変に気が付いた。 「あれ? 蝶が…」 いない。 いまのいままで目の前にいた幻想的な蝶が、この一瞬にして姿を消してしまった。伸ばしていた自分の手をくるくると返してみるもそれらしい姿はなく、辺りへ視線を巡らせてみても見つからない。蝶もスピーカーの音に反応して逃げてしまったんだろうか。 そうは思いながらも私の目は蝶を捜していた。けれど辺りをどれだけ見渡そうとその姿はやはり見えないまま。 そういえば幼い頃、虫取りをしていてふとした瞬間に見失ってしまうことが多々あった。今回もそれと同じなのだろうかと考えるけれど、どうしても違和感が拭い切れない。その感覚とはなにかが違うんだ。 まるで本当に“消えてしまった”かのような、そんな感覚。 「暑さで幻覚でも見てたのかな…」 首を傾げながら額を拭ってみれば、いつの間にか相当の汗を掻いていたようでべったりと嫌な感触が手の甲に広がる。うわあ、気持ち悪い…早く帰ってシャワー浴びよう。 うんざりしながら拭った汗を振り払い、立ち上がろうとしたその時だった―― 「あ…?」 突如頭がぐらりと傾くような感覚。 私はそのままスローモーションのようにゆっくりと傾いていく世界を見つめながら、気付かないうちに意識を手放してしまった。 * * * ――目の前は真っ暗。そんな中でなぜだかとても爽やかな風が全身を撫でるように吹き抜けていった。 こんな風吹いてたっけ。もっと鬱陶しいくらいの蒸し暑さしかなかった気がするんだけど…と考えて、ようやく自分の意識が戻っていたことを確信する。 そうか、私気を失ってたんだ…あんな暑さの中にぶっ倒れてて、よく生きていられたなあ。 自分の生命力の強さに感心するけど、ふと自分の体制に違和感を覚える。この感じ…倒れてない気がするぞ。どちらかといえば、しっかりと座っているような… 違和感に押し潰されそうになった私は現状を確認すべく目を開いてみた。 「……っわ…」 恐る恐る広げた視界へ映った光景に思わず声を漏らしてしまう。 だって、だって。近所の公園じゃない。それどころか、街ですらない。 どういうわけか私は、視界いっぱいに広がる爽やかな草原をこれでもかというくらいハッキリと目の当たりにしていた。 「え…なに…? ここどこ…? あれ…?」 なにもかもが消えた。遊具も子供たちも住宅もビルもすべて。 ほんの一瞬の間に起こった、あまりにも大きすぎる変化に全くついていくことができず、私はただただ困惑して戸惑いながら辺りを見回してしまう。けれどどれだけ見渡そうと、目に映るのは全く見覚えのない草原や森だけ。まさかここは極楽浄土? 実はあのまま熱中症でお陀仏したの? 「貴様…」 「ひっ!?」 不意に掛けられた近すぎる声に肩がビク、と跳ね上がった。誰かがいる。それも私の真後ろに。 とんでもなく激しく鼓動を繰り返す中、慎重に慎重にそーっと声の元へと振り返ってみた。 (お…男の人…? なんで、私の真後ろに…) 見知らぬ誰かというだけで警戒するというのに、その相手はよりにもよって異性のよう。おかげでより一層の警戒心を抱きそうになるけれど、それより先に感じ取ったのは単純で率直な感想だった。 綺麗。 その人は男でありながら、“美しい”という言葉が最も似合うという容姿をしていて、思わず惚けてしまうほどに目を奪われてしまった。 爽やかな風に揺れる銀の髪。こちらを警戒した様子で見据える金の瞳。人間の姿でありながら人間離れしたその美しさに、私はただただ呆然とするしかなかった。 (…って、なに見惚れてるんだ私は!?) 首を左右に振って正気を取り戻しては、ふと私と目の前の男の人の距離に違和感を抱く。 なんだか近くない…? 近いというか、近すぎるくらい。たぶん五センチくらいしか離れてないよ? なんで人がそんなに近付いていることに気が付かなかったんだ、と思い始めるけれど、よく見れば相手も私と同じように座っている。…ということは、この人は今しがたこちらへ近付いてきたわけではないようだ。 じゃあなんでそんなに近いんだ? と頭上に大量の疑問符を浮かべて、男の人の体を頭から順当に見下ろしていく。 「んんん…?」 自分でも眉がきゅ、と寄ったのが分かる。いまの私はとんでもなく怪訝な顔をしているだろう。なぜなら目の前の男の人の腰辺りから先に、どういうわけか私の体が見えたからだ。 この人の足は? 見えるはずの足が見えず、私の体が見えてしまっているぞ? 訳が分からず困惑する頭をひとまずリセットして、私はもう一度よく見てみることにした。 「…え゙…あ、あ、あああ…! ごっ、ごめんなさいっっ!!」 の、乗ってしまっていた! 膝の上に!! 私の脳みそがようやく状況を理解した途端にがばっ、と立ち上がってはすぐさま頭を地面に擦り付けんばかりに土下座をかました。 なんでそんなことになっていたのかは自分でもサッパリ分からないけど、それでも無断で思いっきり座ってしまっていたことに違いはない。向けられる冷ややかな目に顔面蒼白になりながら、とにかく故意ではないんですと何度も何度も繰り返しながら頭を下げ続けた。 (あっ…?) 首が吹っ飛ぶのでは、と思うほど頭を上下させていれば、不意に男の人の陰に隠れていた二つの小さな影に気を取られてしまう。髪を左側に小さく結った女の子と、それよりも小さな、見たこともないような緑色の生物。 女の子は不思議そうな顔で、緑色の生物はとんでもなく驚いたように口をあんぐりと開いていた。 え…あの緑の、なんだろう。トカゲ…? なんて思いが浮かぶ中、それよりも強く感じられた違和感にドキ…と小さく心臓が跳ねる。よく見ればその女の子は、時代劇に出てくるような古びた着物姿をしているのだ。浴衣だろうかと思うも、それにしてはあまりにも質素すぎる。見た限りでは生地もその類いではなさそうだった。 ということは、和服を着るお家柄…? そう考えかけた時、女の子の隣にいる緑色くんも古風な着物を召していることに気が付いた。しかもこちらはしっかりとした上物そうなやつ。なんて言うんだっけ…時代劇とかでよく見る、それなりの身分の者が着るような、そんな作り。小さい烏帽子…だっけ、そんなものまで被っている。 二人がそうとなるともしかして…という思いで、私が座ってしまっていた男の人に視線を戻してみれば、案の定こちらもしっかりと着物を纏っていた。それもまたお高そうなもの…。 しかもこの人に至っては見たこともない鎧のような防具まで着けている。 な…なに、これ。 みんなして着物姿だなんてそんな… (タイムスリップでもしたみたいな) 脳みそが無意識にそんな判断を下した瞬間、もう一度気を失ってしまいそうなほどの衝撃が私の頭を強く打ち付けた。 back