少年少女は移り行く
濡れた髪をドライヤーで乾かして、ドアを開ける。先にお風呂を譲ってくれた翔に空いたよと伝えようと思ったのだけど、足を踏み入れたリビングにその姿は見当たらなかった。つい数分前までここにいたのに。トイレかな、と思ったのだけど、ふわりと揺れるカーテンに目を引かれた。窓が開いている。もしかしてと思って歩み寄り、揺れるカーテンの向こうに続くベランダを覗き込んでみた。
「翔？」
そう呼び掛ければ、ベランダに寄りかかりながら空を見上げる顔がこちらを向いた。「お、出たか」なんて言いながら。それだけでなく、翔は小さく手招きをして隣にくるよう促してくる。
「見ろよ、星がすげぇ綺麗だぜ」
そう言って翔が再び仰いだ夜空に、私も顔を上げてみる。すると確かに、そこに散らばる綺麗な星々が小さくも強く輝いていた。雲一つない晴れ渡った紺碧の夜空に、まるで宝石のようにキラキラと光を瞬かせる星たち。それを眺めたまま、私は翔に「本当に綺麗だね」と言葉を向けながら表情を緩めた。
「でも…急に星なんて、どうしたの？」
「ん？ あぁ、さっきニュースで映ってさ。最近はゆっくり夜空を見ることもなかったし、久しぶりに見てみようかと思って出てみたんだよ」
「そっか。なにかあったのかと思っちゃった」
翔が言ったように、普段こうして夜空を見上げることがあまりないから、お仕事なんかで思うことがあったのかなと思ってしまった。けれどそんな私の心配に翔は「そんなんじゃねぇから、心配すんな」と少しばかり眉を下げて笑う。私の頭をくしゃ、とひと撫でしながら。
それには私も小さく微笑んで、また二人、空を見上げる。
それほど遅い時間でもないのに、外は静かだった。虫の小さな鳴き声、時折遠くに聞こえる車の音、風が緩やかに葉を揺らす音。夜特有の微かな音色に包まれる中、私たちは会話を交わすでもなくただ隣り合って星々を眺めていた。けれどその静寂は、ぽつりと声を漏らした翔によって破られる。
「なんか…こうして星を眺めてんのも、懐かしいな」
「懐かしい？」
「あぁ。弟の薫がよく天体観測しててさ。昔は俺も一緒になって、二人で空を見上げてたんだよ」
言いながら、翔の表情が優しく緩む。そんな彼の瞳には満天の星空が映り込んでいて、まるで宝石のように輝いていた。キラキラ、キラキラ、吸い込まれそうなほどに、眩く。
ついそれを眺めていると、ベランダの手すりに頬杖を突いた翔が柔らかい表情を私に向けてきた。
「今まで、星なんていつ見ても全然変わらねぇって思ってたけど…#name#と見る星は、昔よりもずっと輝いて見える気がする」
…なんて、薫に聞かれたら怒られそうだけどな。そう付け加えるように言って、翔は笑った。それにつられて私も少しばかりはにかんだのだけど、翔の言葉が嬉しくて、恥ずかしくて。お風呂上がり特有のものとは違う熱を頬に集めながら、つい顔を隠すように俯かせてしまいそうだった。
だけどその時、翔の落ち着かない様子に気が付いた。なんだか気まずそうに、そわそわしている雰囲気。俯けそうになった顔を思わず翔へ向けると、私の顔を横目で見た翔は苦笑いを浮かべて。頬を掻きながら、言いづらそうに口を開いてくれた。
「その、実はさ…俺…まだ薫の奴に#name#と付き合ってること、言ってないんだ」
「え！？ え、な、なんで…！？」
突然飛び出してきたまさかの発言に愕然としてしまう。同棲を始める前に“家族には話した”って聞いていたから、もちろん薫くんも知っていると思っていたのに。まさか薫くんにだけ話してないなんて、思いもしなかった。
でも、なんで薫くんにだけ…？ ご両親には話しているのに。薫くんには言いづらい理由があるのかな…。でも普通、言いづらいとしたら親の方だと思うのだけど…。
ど、どうしよう、全然分からない。
状況が呑み込めず混乱してしまった私が難しい顔を見せたせいか、それに気付いた翔がはっとして、すぐさま慌てたように弁解の声を上げた。
「べ、別に悪い意味じゃねぇぞ！？ 本当に単純な話でさ…薫ってすげぇ心配症だから、いつもおれを助けようとしてくれるんだ。ただ、それがたまに行きすぎることがあって…」
「行きすぎるって…？」
「もうずっと昔のことなんだけど、薫の奴、俺を好きだって言ってくれた女の子に結構きついこと言っちまったことがあるんだよ。あいつが俺を心配してくれてんのは分かるんだけど、もし#name#にもそんなことしたら、さすがにわりぃと…」
「あの…ご、ごめん、翔…」
懸命に説明してくれる翔の言葉を遮って、謝る。
…とりあえず、翔が薫くんに私との関係を話さなかった理由が分かって安心した。安心した、のだけど…今度は私が気まずさと申し訳なさに苛まれて、つい視線を逸らしながら呟くように声を紡ぎ出した。
「実は昨日、薫くんと会って…まさか言ってないなんて思わなくて…流れで、お付き合いさせてもらってますって言っちゃった…」
「は！？ い、言ったって…いや、会ったのか！？ 薫に！？」
「うん…後ろ姿が翔そっくりで、声を掛けてみたら薫くんで…」
ものすごく驚いた様子で目を見張る翔に申し訳なくて、ただ縮こまるようにしながらもう一度謝った。私もまさか会うとは思ってなかったけれど、なんとなく出向いたショッピングモールで出会ってしまったのだ。最初は私のことを翔のファンだって思われたみたいなんだけど、薫くんのことを知っていたし、翔の話をしていたらそうじゃないことに気付いてもらえて、とっくに知っているものだと思っていた私は“お付き合いさせていただいてます”なんて馬鹿正直に言ってしまったのである。
それを端的に説明すると、翔は唖然とした顔のまま硬直していて。やがて薄ら笑いを浮かべた表情を右手で覆ってしまった。
「そうか…言っちまったのか…」
「ご、ごめんね…あ、でも私、薫くんと翔を間違わなかったよ。顔を見たらすぐに翔じゃないって分かった」
「うん…見分けてくれたのは嬉しいんだけど、今はそこじゃねぇぞ#name#…」
私の必至な弁解に翔はがっくりと肩を落としている様子。
うぅ、知らなかったとはいえ、なんでも簡単に話してしまうんじゃなかった…。まさに後悔先に立たず。ただひたすらにごめんと謝るしかなかったのだけど、翔は顔を持ち上げて苦い笑みを向けてくる。
「いや、言ってなかった俺もわりぃんだ、#name#は気にすんな。それにしても、まさか薫と会うとはなぁ…。なんか言われたりはしなかったか？」
「と、特には…。私たちのことも、もうご両親から聞いてたみたいだし…少し話してたら、なんとか認めてもらえたんだと思う」
言いながら、ポケットに入れていた携帯を取り出す。それに不思議そうな顔を向けてくる翔へ、電話帳の『か行』を開いて見せた。そこには昨日出会った、件の薫くんの電話番号とメールアドレス。なにかあった時は連絡をください、と言って薫くんが教えてくれたのだ。
それを目の当たりにした翔は驚いた様子で、けれども感嘆するように「はぁー…」と気の抜けた声を漏らしていた。
「あの薫がそこまですんなり認めたのか…さすがだな、#name#」
「わ、私は別になにもしてないよ」
買い被りすぎだって、そう言いながらポケットに携帯を押し込んだ。と同時、小さくくしゃみをしてしまった。お風呂上がりには夜風が気持ちよかったのだけど、さすがに風に当たりすぎたのかもしれない。そう思って体を軽く擦ると、翔が少しばかり慌てた様子で私に手を伸ばしてきた。
「わりぃ、風呂上がりなのに外で引き留めちまった…ほら、早く中に戻ろうぜ」
「星はもういいの？」
「あぁ。お前に風邪ひかれる方が嫌だからな」
そう言って、翔は私の体を支えるように手を添えたまま部屋へ促してくれる。夜空とは違って眩いくらい明るい部屋。そこへ入った途端私はソファに座らされ、傍にあったブランケットに包み込まれた。「温かくしてろよ」と言われて。
そして私の後ろで暗闇が隠されるようにカーテンが閉められると、ブランケットに覆われる私の肩に、細くも逞しい翔の腕が回された。その上に、そっと顔を乗せられる。
「薫には間接的になっちまったけど、これで家族全員にちゃんと伝えられたってわけか」
後ろからソファ越しに私を抱きしめてくれる翔が呟くように言う。私はその声に小さく笑んで、回される翔の腕に手を添えた。
「また今度、薫くんに直接伝えに行こうよ。薫くんもきっと、翔の口から聞きたいと思ってるんじゃないかな」
「そうだな…」
私の提案に、翔はどことなく上の空のような、軽い返事を小さくくれた。そのあと、翔の腕がそっと離れる。名残惜しそうに髪に残された手は私の髪を一筋なぞって、離れる。それをもう一度繰り返した時、翔は囁くように――それでいて確かな声で、私に言い掛けた。
「#name#のご両親にも、挨拶しねぇとな」
「え…？」
思いもよらない言葉を耳にして、堪らず翔に振り返る。そこには頬を深く朱に染めた、真剣な翔の顔。状況整理が追い付かない私は、ただその顔を見つめていた。すると静かに伸ばされた手は私の頬に触れて、そこに掛かる髪をそっと掬い上げる。持ち上げられた髪が、翔の指が、私の耳の裏を通る。
そうして翔の口から紡がれた、言葉。
真剣で、恥ずかしそうで、期待に満ちたその言葉に、私はつい、涙をこぼしてしまった。
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