特別な君には特別を
瞼の向こうに光を見る。それに気付くように目を覚ました私は、ぼんやりとする視界を広げて見慣れた天井を見つめた。そこにはカーテンの隙間から差し込んだ光が一筋の線を伸ばしている。それに照らされた空気中の埃がきらきらと輝きながらゆっくり漂うのを、しばらく眺めて。それから静かに、隣へ視線を移した。
私の隣に、主人のいない枕がひとつ。
見慣れた光景だ。彼は几帳面な性格の通り、毎朝決まった時間に起きている。だから今日もひとり目を覚ましては、私を残して寝室を出てしまったわけだ。
ぼんやりする頭でそれを把握した私は、体を起こしてベッドから足を降ろすと、彼を追うように寝室のドアを開けた。リビングにいるかと思ったけど、そこに求めた姿はなくて。うろうろと捜し回った結果、窓を抜けた先の庭にしゃがみ込む見慣れた背中を見つけた。
「トキヤ、」
おはよう。自分が思っていた以上に間の抜けた声でそう呼びかけると、彼は振り返って、小さく微笑んでくれた。
「おはようございます、#name#。もう少し寝ているかと思いましたが、今日は少し早かったですね。起こしてしまいましたか?」
「ううん、目が覚めただけ。でも、気にせず起こしてくれてもいいんだよ」
「いえ…あなたがあまりに幸せそうに寝ているので、どうしても邪魔したくないんです」
そう言って優しい笑顔を見せてくれるトキヤ。するとその笑顔は再び向こうを向いて、目の前に並ぶ緑を見つめだした。それはトキヤが育てている野菜たちのひとつ。
決して大きいとは言えない我が家の庭だけど、ここにはトキヤが育てている数々の野菜たちが所狭しと並んでいる。言ってしまえば、小さな農園。彼は毎朝ここのお世話をしていて、たまに収穫した野菜で朝ごはんやお弁当を作っているのだ。
私は足を進めると、トキヤの隣へ腰を落とす。彼と同じ目線で、同じく野菜たちを見てみた。生き生きとした深い緑色の葉に、キラキラと輝く透明の粒をいくつも着飾っている。植物の感情なんて分かるはずがないのに、どうしてかその姿は嬉しそうに見えて。つい小さく笑みを浮かべてしまうと、「トキヤはすごいよね」と改めて実感するように呟いていた。
「こうしてきちんと育てられて、美味しい野菜を作れちゃう。私にはできないよ」
「褒められるほどではありません。#name#でも、手順通りにやればできるはずです」
「この前挑戦したイチゴは枯れちゃったけどね」
「あれは#name#が水を与えすぎなんです…」
「あはは…育ててると可愛くて、つい」
トキヤの呆れたようなため息につい苦笑を受けべてしまう。
そう、以前トキヤに感化されて、私も栽培に挑戦してみたことがある。するといつしかそれが可愛く感じられてきて、早く大きく育ってほしいと思うあまり、必要以上の水をたくさんあげすぎてしまったのだ。おかげで気付いた時にはすでに根が腐り、取り返しのつかない状態に。それを経験して以来、私はやっぱり眺めている方が性に合っているかも、と思ってトキヤの家庭菜園を見守ることに徹しているというわけだ。
それをひとり静かに振り返っていた私の隣で同じく当時のことを思い出していたのか、トキヤが足元の湿った土をわずかに掬い取りながら、どこか教授するかのように冷静に語り始めた。
「イチゴを栽培する場合、毎日水やりをしなければいけないのは最初だけなんです。新しい葉が展開してからはむしろ控えるべきで、土の様子を見ながら水やりをしなければなりません。…と、栽培する際に教えたはずなんですが」
「…き、聞いたような…聞いてないような…」
「言いましたよ。#name#は忘れっぽいところがありますから、どうせまたすぐに忘れていたんでしょう?」
全部分かり切っている、と言わんばかりの呆れの笑みを向けられて、私は思わず「う、」と小さな声を漏らすほど狼狽えてしまった。思えばイチゴを枯らしてしまった時にも同じようなことを言われた気がする…。それを思い出すと、トキヤはそれすら覚えていますよ、といった様子を見せていて。返す言葉もない私は、ただその視線から逃げるように顔をそっぽへ向けた。
そんな時ふと、向こうで大きな実をぶら下げている作物が目についた。深い紫色が綺麗なそれ。私は話も忘れて腰を上げると、その実の前で再び腰を落とした。
「わぁ…このナスすごいね。お店で売ってるものより大きいかも」
「そうですね。どうしてかこれだけはずいぶん大きくなりました」
同じくトキヤもこちらへ来ては腰を落として、目の前の大きなナスに手を添える。そのナスは形も整っていて艶が良く、小さな傷みもない、本当に立派なものだった。トキヤが丹精込めてお世話をしていたのがよく分かるほど。きっと味もすごくおいしいんだろうな、なんて考えながら見つめていると、その視線から悟られたのかトキヤがふふ、と小さく笑った。
「早く食べたいようですね。よかったら#name#が収穫しますか?」
「え、いいの?」
「ええ。どうぞ」
そう言ってトキヤは園芸用のハサミを差し出してくれる。それを受け取った私は恐る恐る手を伸ばして、「ここ? このまま切っちゃって大丈夫?」と逐一確認をとってしまっていた。それでも丁寧に教えてくれるトキヤの言葉に従うまま、私は小さく力を込めたハサミでパチン、と茎を切ってみせた。するとその重心は私の手の中へと移る。
思っていたよりも重たく感じるほど引き締まった実。目を奪われるほど鮮やかで深い紫色。一点の穢れもない艶。それらを改めて実感するように見つめていると、なんだかトキヤの姿が思い浮かぶような気がした。毎日欠かさずお世話をして見守っている、優しい彼の姿が。
それだけ愛情を注がれているのだろうと人知れず考えてしまうと、自然と言葉が出た。
「…我が家の野菜たちは幸せだね。トキヤにこれだけお手入れされて、尽くしてもらって…」
羨ましいなぁ。ふとそう思った時、「羨ましい?」とトキヤが不思議そうに復唱した。え、と慌てて振り返ればトキヤは私を真っ直ぐ見つめている。どうやら無意識のうちに最後の言葉まで声に出してしまったらしい。それに気付くも時はすでに遅く、私が訂正の声を上げるよりも先にトキヤの口元に小さく笑みが浮かべられた。それもどこか、怪しげな。
「まるで、私があなたに尽くしていないとでも言いたげですね? #name#」
「えっ。い、いや、別にそういうわけじゃ…」
「どうやら、日々の私の思いが伝わっていないようだ」
トキヤは私に訂正する暇もくれず、食い気味に言葉を続ける。それに戸惑う私を見つめたまま、彼は私の手を取った。そして立ち上がると同時に、私の手をグイ、と引いて私まで立ち上がらせてしまう。
「#name#、これから私が目一杯お手入れをしてあげましょう。あなただけの、特別なお手入れを」
腰に手を回され、至近距離で覗き込んでくる瞳が挑戦的に細められる。その瞳が、手が、普段とは違うなにかを感じさせていて。未だ状況についていけない私はただただ困惑するまま、様子を窺うように彼の瞳を見つめ返していた。
「えっと、あの…トキヤさん…? どうして急に…そ、それに、お手入れって…なにを…」
「さぁ、なんでしょう? …たっぷりと堪能させてあげますよ。あなたが満足するまで…」
ね。そう言って浮かべられた笑顔が少し、怖い。どうやら私は、彼の変なスイッチを入れてしまったようだ。無意識とはいえ、下手なことを口にするんじゃなかった…。
そう後悔したところでもう取り返しはつかず。なにをされるかも分からないまま硬直する私を軽々と抱き上げた彼は、笑顔のまま「行きましょうか」と囁いて部屋の中へと私を連行してしまったのだった。
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