貴方との幸せな一時

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私が生まれた。 その時からこの男、奈落はずっと私の目の届く場所にいた。 いや…"私が"奈落の目の届く場所にいたのかも知れない。 気になって仕方がないから、この前思い切って『生みの親なの?』と聞いてみた。 けれど彼は全く答える素振りを見せなくて。 その後、代わりに神楽が答えてくれた。 "あんたは私たちと同じ──奈落の分身だよ" はっきり言うと、呆然とした。 そんなこと言われても、最初は全然理解できなかったもの。 今でも…たまに分からない。 神楽たちはみんな、奈落に命令され、動き続けている。 ──……私は? 今まで命令なんて、一度も聞いたことがなかった。 私がこの奈落から生まれた分身なんて…中々信じ切れない。 それでも神楽や神無たちは、私が生まれてくるところを見たって言ってた。 やっぱり、分身…なんだろうな。 「何で今まで教えてくれなかったの?」 「……何の話だ」 奈落は私の言葉に、表情をひとつも変えないで答えた。 視線さえ、こちらに向けずに。 そんな彼に、よく分からない感情が胸の奥に渦巻いて来て。 それを紛らわすように、次の言葉を口にした。 「私が、奈落の分身だってこと」 「……………」 どうしてだか、奈落は口を閉ざしてしまった。 答えて、と言わんばかりに顔を除き込む。 すると奈落はただ真っ直ぐ、目の前を睨むように見つめていた。 「誰に聞いた」 「…みんなから。自分でも、薄々は気付いてたけど…」 「そうか。…確かに、お前はわしの分身だ」 それだけ言い残すと、奈落は目を閉じて黙り込んでしまった。 奈落に寄りそい、閉じた目を見つめながら、私は言った。 「何で私には命令、してくれないの?」 「お前に命令する必要がないからだ」 それから私は言葉を失った。 ただ、それだけ…? それだけ…なの? 絶対この奈落は、私の思いに気付いてない。 分身なら分身らしく、貴方の役に立ちたいのに…。 いつも思ってたのに…気付いてよ…。 「っ…奈落のバカ…!」 私は込み上げてくる何かに押され、この場を立ち去ろうとした。 その瞬間だった。 右腕を力強く掴まれ、動きを止められてしまった。 やだ…今ここにはいたくない…。 奈落のところにはいたくない…! 振り払おうともがくけれど、奈落の力には敵わなくて。 抵抗を諦めると、後ろから声が掛かった。 「何故逃げる?」 「っ……」 そんなこと、説明できるわけがなくて。 下唇を噛みしめて、私はいたたまれない気持ちで立ち竦む。 すると奈落は、私の腕を離してくれた。 どうして…? 思わず私が振り返ると、奈落はいつもより微かに、優しい声で言った。 「私の傍にいろ」 「えっ…?」 「聞こえなかったのか?私の傍にいろ、と言ったんだ」 「それって…命令…?」 「ふん、好きなように思っていろ」 言い方は素っ気ないけれど、私には何よりも嬉しくて。 精一杯笑って、私はすぐに奈落の傍に寄り添った。 彼の温かみが、直接肌に伝わって来る。 私がずっと、待ち望んだこと。 胸の奥の変な感情も、浄化されたように消えて行った。 end.

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