焼き付く二色の感情
薄曇りの昼下がり。殺生丸さまと旅をしている私は、この日も変わらず普段通りといった様子で殺生丸さまが進む道を辿り続けていた。
けれど不意に殺生丸さまが足を止める。どうやらなにかの臭いを感じ取ったらしいのだけれど、遠くを見据える殺生丸さまは黙り込んだまま。わずかに眉をひそめるだけでその口を開こうとはしなかった。
「殺生丸さま、どうかされましたか?」
その様子が気になってたまらず問いかけてみれば、殺生丸さまは静かにこちらへ振り返って言う。
「少し離れる。邪見、名前とりんを見ていろ」
「はいっ。お前ら、勝手にわしの元を離れるでないぞ」
「はーい。行ってらっしゃい殺生丸さま」
「お気をつけて」
途端に背筋を正す邪見に返事をしながらりんちゃんと私は殺生丸さまを見送る。すると殺生丸さまは静かに踵を返し、尾を広げながら空高く舞い上がった。
なんだかあまりいい雰囲気ではなかったけれど、大丈夫かな…。殺生丸さまの心配をするなんて杞憂だってことは分かっているものの、なんとなく嫌な予感のような居心地の悪い不安が胸のどこかに見え隠れしている気がして、つい彼の姿が消えゆく空を見つめてしまう。
そんな時、突然「あ!」と大きな声が上げられた。少し驚きながらそれに振り返ってみると、そこでは声の主であるりんちゃんが身を乗り出すようにしてなにかを指差していた。
「見て! 向こうに柿の木があるっ」
「柿の木? どこ?」
「ずーっと向こう。ほらあそこっ」
りんちゃんが指し示す場所に件の柿の木を見つけられないでいると、りんちゃんは一層ぐっと指を突き出すようにして示してくれる。
うーん…確かによく見れば柿っぽい実がなっている木がある気がする。さすが戦国時代に生きる子供、すごく目がいいなあ。なんて関心をしていたその時、突然りんちゃんが「取ってくる!」と言って軽快に走り出してしまった。
「えっ、ちょっとりんちゃん!?」
「こら、りんっ。勝手に離れるなと言ったばかりだろうっ!」
「すぐ戻るからーっ」
私と邪見が慌てて声を掛けるもりんちゃんはたったか走っていってしまう。
なんとか見える距離ではあるけれど…もしなにかあったら大変だ。咄嗟に足を踏み出した私は邪見へ「連れ戻してくるっ」と言付けながら雑草が生い茂る草むらを突き進んでいった。
そんな私に対しても邪見は声を上げているけれど、そっちに構うよりりんちゃんを捕まえる方が先。そう思って少し足を速めれば、その小さな体にはすぐに追いつくことができた。
なんとか彼女を止められたけれど…きっとこれは柿を取るまで戻ってくれないんだろうな。少し不満げにむくれた顔からそう感じた私は困ったように笑いかける。
本当はすぐにでも戻ってほしいんだけど…譲ってくれなさそうだし、他にりんちゃんを連れ戻すいい方法も思いつかない。ここはいっそ柿の収穫に付き合って満足させてあげた方が早く戻れるかも。半ば諦めがちにそう判断すると、「いいよ、行こうか」とりんちゃんを促して彼女の歩幅に合わせるようゆっくりと歩きだした。
「いい? りんちゃん。柿を取ったらすぐに…」
戻るからね、と続けようとした注意の声は、進めていた足とともに止まってしまう。
――消えてしまった。
りんちゃんが、今まさに私の目の前で。
信じられないその現象に思わず目を見張りながら辺りを何度も見回すけれど、どの木の陰にも茂みの中にも彼女の姿は見当たらない。足を滑らせてどこかに落ちてしまったのかも、と思い至って足元に注視するけれどそんな穴さえ見つからない。
どういうこと? なんでりんちゃんが消えたの?
原因を必死に考えていると、不意に、過去にあった似たような現象を思い出した。それは以前殺生丸さまが奈落を追っていた時、目の前を進んでいたはずの殺生丸さまだけが景色に溶けるよう消えてしまったという不可解な現象。
結局それは奈落が張った結界によるものだったのだけど、今回のことはそれととても似ている。ということは、またなにかの結界に巻き込まれたに違いない。
「でも…なんでりんちゃんが結界の中に…?」
「そうではない。結界の中に招かれたのはお前の方だ、名前よ」
「!」
不意に投げかけられた声にビク、と肩を揺らす。咄嗟に声の元へ振り返ってみれば、そこには妖しい笑みを湛えながらこちらを見つめる男がいた。
「奈落っ…」
思ってもみない人物との遭遇に思わず身構える。
どうしてここに奈落が…そう思うとともに、なんだかわずかな違和感を覚える気がした。というのも、奈落の様相がいつもと違っていたからだ。今まで私たちに接触してきたそれはいつも白い狒狒の皮を被っていたのだけれど、いま目の前に立つその姿は紫色の肩衣に深い紺色の着物と、あまり見慣れない装いをしている。
そのいつもと違う姿がなにを意味するのかは分からないけれど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。とにかく相手の様子を窺って、逃げる隙を探さなきゃ…。
そう決意した私は思惑を悟られないよう小さく息を飲みながら奈落へ問いかけた。
「なんであなたがこんなところにいるの。それに…結界に招かれたのが私って、どういうこと?」
「ふっ。相変わらず肝の据わった奴だ。それでこそ、この奈落に相応しい…」
「……?」
私の態度に奈落はどこか満足げな笑みを浮かべる。けれどなにひとつ理解のできない私はただ眉をひそめて奈落を見据えていた。
すると奈落はこちらを真っ直ぐに見やり、至極冷静に言葉を続ける。
「なにも難しいことはない。少しばかりお前に用があってな…邪魔が入らんよう、お前だけが入れる結界を張ったのだ」
淡々と施される説明に一層怪訝な表情を見せてしまう。
奈落が私に用? なんのために? 私は殺生丸さまのように強くはないし、かごめちゃんのように特別な力を持っているわけでもない。いわばなんの変哲もない、平凡な人間だ。そんな私になにかを要求したところで、役に立つとは思えないけれど…
「…まさか、私を人質にでもするつもり?」
「くくく…確かに最初はそのつもりだったが…これまでのお前を見ていて気が変わった…」
「…どういうこと?」
どこか煮え切らない言葉ばかりを返してくる奈落に眉根を寄せる。
彼は一体なにが言いたいんだろう。姿も、様子も、なにもかもがいつもと違って調子が狂いそうになる。
いつしか逃げ出すことさえ忘れてその真意を求めていた時、彼の足がそっと踏み出されて距離を縮められる。それに身を退きそうになるけれど、目の前に迫った彼からは不思議と普段の威圧感を感じなかった。
その違和感に驚くよう立ち竦めば、ゆっくりと伸ばされる手が私の右手を優しく掬い上げるように触れる。思わずビク、と小さく肩を揺らした、その時――
「わしはお前が欲しい。お前をわしのものにしたいのだ」
正面から真っ直ぐに見つめて落とされる言葉。自分よりも背の高い彼のその瞳を見上げるまま、私は思わず「え…」と微かな声が漏れるほど狼狽えてしまっていた。
「な…なに、言って…そんな言葉…」
「嘘ではない」
戸惑いながら、それでも否定しようとする私の言葉を即座に否定する奈落。彼はこれまで感じたことのない真剣な空気を纏いながら、持ち上げた私の手を返して手のひらに親指を滑らせる。
相手があの奈落だとは思えないほど優しいその感触に困惑するまま目を奪われていれば、彼は一層持ち上げた私の手に顔を近付ける。
やがてそれが――彼の唇が、私の手首にそっと柔らかく押し付けられた。
リップ音さえ聞こえないほど優しく、ゆっくりと離れていく唇。これまでとは違う、あの奈落からは考えられないようなその紳士的な動作が、私の目を奪って離さない。その視線を絡め取るように彼の瞳が私を覗き込んでくると、奈落はもう一方の手で静かに私の頬へと触れた。
「お前がわしのものになるというなら、これ以上殺生丸に手出しせんことを約束しても良い。わしはお前さえ手に入れば、それで良いのだからな」
頬に添えられた手が優しく表面を撫でる。視線を繋ぎ止めるように見つめてくる赤い瞳はいつも湛えていた不気味さをなくしていて、ただ真っ直ぐな感情だけを覗かせていた。
――それだけ、奈落は本気ということなのだろうか。信じてもいいのだろうか。でも、もしそれが本当だとして、どうして自分なんかを…
次々に芽生える疑問に瞳を揺らがせる。これだけ接近されて音を大きくする鼓動は、一体どちらの意味なのだろうか――
私が自身を見失いそうになった――その時、奈落がなにかに気が付いたと同時に、突如ザン、と風を斬る音がした。
突然の出来事に目を見開けば、目の前にいたはずの奈落は大きく跳び退き離れていて、私の前には銀糸を靡かせる彼の姿が。
「殺生丸さま…!」
思わずその人の名前を呼ぶ。その様子を奈落に一瞥されたような気がするけれど、彼はすでに正面の殺生丸さまを見据えながら挑発的な笑みを浮かべていた。
「存外早かったな」
「傀儡で私を遠ざけるとは、小賢しいことを…」
どこか余裕そうな奈落を疎ましげに睨視しながら殺生丸さまがこぼす。
どうやら殺生丸さまが感じ取り追いかけたなにかの気配は傀儡のものだったようで、それも奈落の策略によるものだという。殺生丸さまの言葉からそれを悟って再び奈落を見やれば、彼は諦めた様子で臨戦態勢を緩めた。
「邪魔が入っては話もできんな。また日を改めるとしよう」
そう呟くように落とした奈落は殺生丸さまからわずかに視線をずらす。その瞳が真っ直ぐに捉えたのは、私の方――
「覚えておけ名前。わしの言葉は偽りではないと…」
不敵に笑みながら自身の唇の縁を小さくなぞるように親指を滑らせる。それに確かな鼓動を響かせた私が思わず口付けられた場所を握ってしまえば、彼はふっ、と笑みを深めた。
その直後、濃密な瘴気が奈落の足元から荒波のように溢れ出す。すると殺生丸さまは即座に私を抱え、瘴気が届かないほど離れた場所へ大きく飛び退ってみせた。
その隙にも奈落は大量の瘴気に身を包み、渦を巻くようにして天へと昇っていく。やがてその影が小さくなるに伴って静けさを取り戻した頃、私は彼が去った薄曇りの空を見上げていた。
…殺生丸さまが現れたからにはなにか攻撃を仕掛けてくるかと思っていたのだけど、今回はそれもなく潔く引き下がっている。もしかして本当に私と話をするためだけに現れたのだろうか…
そう考えた時、ふと違和感に気が付いた。
(そういえばあの奈落…なんとなくだけど、傀儡らしくなかったような…)
確信はないながら、芽生えた違和感にそう考えてしまう。
傀儡が一体だけしか用意できないとは限らないけれど、殺生丸さまを誘き寄せるためにすでに使っていたようだし、なにより、私の前に現れた奈落はいつもの傀儡の彼とは違っているような気がした。格好も、あの瞳も、手を出すことなくすぐに引き下がったところも、なにもかもがいつもと違って見えて、“もしかしたら本物だったんじゃ…”という思いがどうしても脳裏にちらついてしまう。
でももしそれが本当だったとして、どうしてわざわざ生身で私の前に現れたのだろう。いつも傀儡を使うくらい危険を避ける人なのに、どうして…
――まさか、本当に私を……?
これまでにない相手の全てに思わずそんな思いがよぎる。あれほど直接的に求められたことがないから、嫌でも彼の言動の全てが“そういうこと”なのでは、と結びついてしまう。
信じているわけではないのに、否定したいのに――そう思わせてしまう要因が多すぎる。
たまらず彼が触れた場所を握る手に力が入る。その時、突然グイ、と手を引っ張るように持ち上げられた感覚に目を丸くした。慌ててその手を見てみれば、その先には眉をひそめる殺生丸さまの姿。
なんだか、怒っているような雰囲気を醸し出している。
「名前、奴になにをされた」
「え? な、なにを…って…」
まるで問い詰めるように迫る殺生丸さまに戸惑いながら慌てて思い返す。
けれど、特に思いつくものがなかった。確かに触れられたり口付けされたりといった接触はあったけれど、危害を加えられるようなことはなにもない。思えば私を強引に連れ去ることだってできたはずなのに、あの人は終始優しく触れるだけだった。
それを改めて実感してはつい戸惑ってしまいながら、殺生丸さまへ「特には、なにも…」とだけ答えた。すると殺生丸さまはどこか訝しげに眉根を寄せてしまう。
「ならばあの表情は…」
「…?」
呟くようにこぼされた殺生丸さまの言葉に小さく首を傾げる。聞き間違いではないと思うけれど、“あの表情”ってどういうことなんだろう…私、そんな変な顔してたのかな…?
殺生丸さまの言っていることが理解できなくて、さらには怒らせてしまっているかもしれないことにも焦ってただ狼狽えるように目を泳がせる。すると殺生丸さまはそんな私にまたも怪訝そうに眉をひそませて、私の手を握る力をわずかに強めた気がした。
「奴となにを話した。なにがあった。全て話せ」
「へ、す…全て、ですか? えっと…さ、最初は突然、結界に捕まっちゃって…奈落が私に用があるとか言ってきたので、人質にでもするつもりか、って聞いたんです。そうしたら、その…なんというか…あの人、利用するためじゃなく…わ…私が欲しい、とか…そんなことを…」
恥ずかしいような申し訳ないような、よく分からない思いのせいでなんだか言いづらくて、少し口籠るようにしながらもなんとか経緯を伝えてみる。けれどどうしても、このあとの手首に口付けされたことだけは口にできなかった。
そんな私の躊躇いを悟ったのか、殺生丸さまの顔色が少しだけ変わった気がした。かと思えば着物の袖を握って、突然私の手首――奈落に口付けられた場所をグイ、と強引に拭われる。それが少し痛くて、殺生丸さまの苛立ちが明確に感じられるようだった。
「っ…あ、あの、殺生丸さま…」
「あれの言うことなど信じるな。お前を惑わせようとしているだけだ」
私が口を開けば殺生丸さまは説き伏せるかのように食い気味で釘を刺してくる。
もちろん殺生丸さまの言いたいことは分かっている。私だってあの人は信用してはいけないと常々思っていた。けれど…
「信じているわけではないんです。でも…あの人、いつもと様子が違うような気がして…だから、なんだか少し、気になったというか…」
「…もう惑わされたのか」
「いっ、いえそんな…あっ」
どこか冷ややかな殺生丸さまの声に慌てて否定の声を上げるけれど、それを遮るように突然強く手を引かれてバランスを崩すまま殺生丸さまの方へ倒れ込んでしまう。そんな私を受け止めた殺生丸さまは隙を与えないかのように右腕を私の背中に回して、グ、と体を密着させた。
その唐突な出来事に目を見開き戸惑うも殺生丸さまは解放も説明もしてくれないまま、どういうわけか私の首元に顔を埋められられた。と同時に、柔らかい感触が首筋へ押し当てられる。
その時――
「んっ…!」
わずかにチク、とした痛みが走って小さな声が漏れる。するとほんの微かなリップ音に似た音を鳴らされた気がして、それを最後に殺生丸さまの顔がそっと離された。
やがて正面に現れた強く芯を持った金の瞳は、私の瞳を覗き込むように真っ直ぐに見つめてくる。
「聞け名前。お前はすでにこの殺生丸ものだ。私以外の者の戯言に誑かされるなど、許しはせんぞ」
凛としていながらも低く威圧感さえ与えるような声音ではっきりと告げられる。
その言葉を、真剣な瞳を一身に受けた私は、声を発することも忘れるほど深く陶酔してしまうように殺生丸さまを見つめていた。いや、彼がそうさせているようにさえ感じてしまう。それくらい真剣で力強くて――どこか、必死で。
初めて目にするそんな彼の姿に目を奪われるまま立ち尽くしていれば、殺生丸さまは私の髪をサラリと梳くように撫でて言った。
「これから先、片時も私の側を離れるな」
有無を言わせないように強く、凛と向けられる言葉。ただ見つめ返すことしかできずにいた私は、その言葉が自分の鼓動に混ざっていくのを感じながら微かに口を開いた。
「…は、い…気を付けます…」
彼の言葉、手の動き、瞳が秘める感情、その全てにいちいち緊張してしまいながらもようやくといった思いでなんとか返事を口にする。それに対して殺生丸さまはひとまず許してくださったのか、静かに私から手を離すとそれ以上の忠告はなく踵を返された。
どうやらりんちゃんたちの元へ戻るらしい。それが分かる様子に慌てて続くよう足を踏み出しながら、私は俯きがちに忙しない胸の鼓動を聞いていた。
――なにもかも信じられない、けれど、これほど直接的なことをされて分からないほど私も鈍感ではない。あの殺生丸さまが――嫉妬、している。
奈落が私に対して好意のような感情を向けていることさえ理解できなかったのに、まさか殺生丸さまがそこへ対抗心を剥き出しにされるなんて…
あまりにも信じられないことが連続しすぎていて、一向に感情の整理がつきそうにない。
思わず視線を落としたのは、自分の右手首。そこは奈落の唇が確かに触れた場所。殺生丸さまに強引に拭われてしまったけれど、真意の読み取れない彼の口付けは私の記憶に強く刻み込まれていた。
そしてそれは、そのあとに強引に与えられた首筋の甘い痛みも同じ――
未だ感触が残っているような気さえしてしまうそこに手を伸ばすも、触れられないまま。私はドキドキとうるさい鼓動に息を詰まらせてしまいながら、緩く手を握ってそれを胸の真ん中へ押し付けた。そうしてそっと降ろした瞼の裏には、赤色と金色が焼き付いたように映る。
二人の口付けが、瞳が――忘れられない。
この高鳴る鼓動は、一体どちらに揺らいでいるのだろう。