雷鳴と鼓動
今日も今日とて旅は続く。あまり代わり映えのない日々を送る私たちはいま、山を越えるべく木々に囲まれた道なき道を進んでいた――のだけど、そろそろ頂上に差し掛かっただろうかというところで不意にゴロロロ…と低い唸り声のような音を聞いては自然と足を止めた。
まるでご機嫌な猫が喉を鳴らしているような音。だけど実際にその音を響かせているのは不機嫌な空で、私はいまにも雨粒を落としそうなほど重く暗雲が立ち込めるそこへ顔を上げた。
「うわあ…いつの間にか真っ暗だ…」
「ほんとだー。さっきまで晴れてたのに」
私が呟くのに続いて同じく空を見上げたりんちゃんが驚いた様子で言う。
りんちゃんの言う通り、つい先ほどまでこの空はしっかりと晴れていたのだ。それこそ、今日は天気がいいね、なんて話してしまうくらいに。だというのに、なにやら風が出てきたかと思えばあっという間に空が黒雲に覆われてしまった。
山の天気は変わりやすいとは言うけれど、まさかこれほどだとは。一雨来そうな予感につい殺生丸さまの方を窺ってみれば、これまた空を仰ぐ邪見が口を開いた。
「なにやら荒れそうですな…殺生丸さま、いかがなさいますか?」
「…雨が過ぎ去るのを待つ。行くぞ」
邪見の問いに殺生丸さまは端的に返すなりどこかへと足を進め始める。
行くぞ、って…どこか当てでもあるのかな。そう思いながらも言う通りにあとをついて歩いていけば、やがて鬱蒼と茂る木々の向こうにお堂のような建物が見えてきた。
一目で廃屋だと分かるほど荒れているそこは壁や屋根にいくつもの穴が開いているけれど、大きく崩れているわけではないから確かに雨なんかは凌げそうな造りだ。たぶんあそこで雨をやり過ごすのだろう。
実はこうして雨を事前に察して避けることは、私たちにとってそう珍しいことじゃない。というのも殺生丸さまが天気が崩れるタイミングもそれをやり過ごす場所もなんでも把握していて、その兆しが見える頃にはすでに雨宿りができる場所へ移ったりと対策してしまうのだ。
どうやら匂いや気配なんかで察知しているらしく、殺生丸さまにとっては取るに足らない当然のことなのだとか。でもそれができない私にはめちゃくちゃ大助かりで大変ありがたいこと。ほんっとーーーに、頭が上がらない。
…と、いまさらそんなことを考えてしまいながら、今回も雨に降られることなくお堂へ身を寄せた。
これだけ古いと床が抜けてしまわないか心配で慎重に足を踏みしめてみたけれど、ギシ…と大きく軋む程度でたわむこともない。どうやら思っていたよりも丈夫みたいだ。
そんなことを思っていたその時、いましがた離れた屋外からポツポツと雨が地面や屋根を打つ音が聞こえ始めた。かと思えば、その音はすぐに強さを増して、あっという間にザアアァ、と激しく叩き付ける音へと変わってしまう。
「わー…一気に降り始めましたね…」
読んで字のごとく瞬く間に荒れ模様となった外の様子に思わず声が漏れる。本当にあと数秒遅れていたらずぶ濡れになるところだった。
そんなことを思う間にも雨は激しさを増し続けて、いつしか外は雨と水しぶきで白く霞み滝が打ち付けているかのような激しい音を立て始めた。
これだけ激しく降られるとさすがに雨漏りもしてくる。ひとまず私たちは雨漏りの少ない奥の方へと移動して、暗い部屋の中で外の景色を遠巻きに眺めていた。
「思ってたよりとんでもない雨になっちゃったけど、いつ止むんだろ…」
「雷雲が流れてきた影響だろうから、そう長くは続かんはずだ。じきに治まるだろう」
私の諦念のぼやきに邪見が返してくれる。
なるほど、と理解はしてみるけれど、その言葉が信じられないくらい雨はザンザン降っているし雷も唸りまくっている。本当にこれがすぐ治まるんだろうか…なんて疑いの気持ちを持ってしまいながら部屋の隅の抜けた天井を眺めた。
――そんな時、突然空が強く光ったのに遅れて、どこか遠くからドオオォン、と激しい音が轟いた。
「うわ、すごい音…どこかに落ちたんですかね…」
不意打ちの雷鳴に少し驚いてしまいながら音が聞こえた方角を見つめるけれど、そこに見えるのは細く穴の開いた壁だけ。その穴の向こうにも降りしきる雨しか窺えるものはなく、ここからではどの辺りに落ちたかなんて情報はなにひとつ確かめられなかった。
大きな音ではあったけれど、近くという感じではなかったし心配するほどでもないのかな。そう判断して壁に向けていた視線を戻すと、すぐ傍に両耳を手のひらでぎゅ、と押さえ込んだりんちゃんの姿が目に入った。
「りんちゃん?」
うずくまるようにしゃがみ込んだまま目を閉じているりんちゃんに声をかけてみるけれど、よほど強く押さえているのか聞こえていない様子。そっと肩にとんとん、と手を触れてみると、ようやくその顔を上げて眉を少し八の字に曲げた不安げな表情が向けられた。
あれ、この様子は…
「りんちゃん…もしかして、雷怖い?」
「…うん…大きな音は苦手だから…」
りんちゃんがそう呟いた時、外ではもう一度落雷の音が響いた。それにびく、と身を縮ませてしまうりんちゃんは完全に怯えてしまっている様子。
――…そういえば以前、りんちゃんから殺生丸さまと出会う前の話を聞いたことがある。
りんちゃんは家族を目の前で殺されてしまい、近くの村に引き取ってもらえたはいいものの、とても良好とは言えない環境や待遇で過ごしていたらしい。というのも、戦ばかりのこの時代だ。村の人たちも戦や妖怪と隣り合わせの生活で、自分たちの食い扶持を維持するのに精いっぱいだったのだろう。そのせいか、いわゆる“よそ者”であるりんちゃんは幼いにもかかわらず一人で外れのあばら家に追いやられ、冷たくあしらわれることもあったという。
そんな日々に加えて殺生丸さまと出会った当時、深手を負って動けない彼のための食糧を調達しようと村のいけすの魚を捕ったことで、大の大人数人に囲まれて痣ができるほどのひどい暴力を振るわれたのだとか。
そんな痛ましい壮絶な日々を送ってきたからこそ、大きな音には恐怖心を抱いてしまうようになったのだろう。そう思い至っては小さく震える彼女の姿に唇を結ぶ。
けれどすぐにその口を緩めて、身を寄せながら「大丈夫だよりんちゃん」と呼びかけた。
「私が耳を塞いで、ぎゅーってしててあげる! ね、それなら怖くないでしょ?」
優しく語り掛けながら両手を広げて迎えてあげれば、りんちゃんは少しきょとんとした様子で私を見る。けれどそれも束の間、すぐに私の胸へと飛び込んできてくれた。
どうやら身を委ねてくれるらしい。それに安堵した私がすぐさま空気を明るくさせるために大袈裟なくらいがばっ、と大きくりんちゃんを抱きしめると、りんちゃんはきゃーっ、と楽しそうな悲鳴を上げて笑ってくれた。
よかった…なんとかりんちゃんの笑顔が取り戻せたみたい。これならきっと少しは恐怖も和らげてあげられるだろうし、一安心だ。
それに…
(こうしてくっついているおかげで、私の恐怖も和らげられる…!!)
思わず心の中でガッツポーズをしてしまうくらい舞い上がってしまう。…というのも、りんちゃんの手前気丈に振舞ってはみたけれど、私も雷は苦手な方なのだ。よほど大きな音じゃなければそこまで怯えたりもしないし、めちゃくちゃ怖い! 無理! というわけではないのだけれど…さすがに鼓膜や体にビリビリ響いてくるような大きな音は苦手だ。普通に怖い。
だというのにさっきから聞こえてくる雷の音がなんだか近くて大きくて、正直そろそろやばいとびびり始めていたところだった。
もうこの恐怖心を隠すのも限界かと思ったけれど、りんちゃんを抱きしめられたことで彼女を安心させられて私も安心。万事解決。win-winだ。
あとはこの嵐が過ぎ去ってくれるまでこのままりんちゃんと抱き合っていればいい。
――なんて安堵していた時、突然ビシャアアンッ、と一層激しい音が鳴り響いて、たまらずびくうっっ、と思いきり跳ね上がってしまった。
幸いりんちゃんの耳は塞いであげられたし私がびびっていることには気付かれていないようだけれど、私の心臓はいまにも胸を突き破って出てきそうなほどバックバクだ。
落ち着け…落ち着け私の心臓…。思わず胸のうちで自分の臓器へ言い聞かせながら床の木目を見つめていれば、不意に近くから「ふっ、」と小さく笑うような吐息が聞こえた。
あれ…いまの、殺生丸さまだよね? もしかして笑われた…? 怯えたことに気付かれたとか? ついそんな予感をよぎらせては咄嗟に誤魔化すよう笑いながら、
「す、すごかったですねー、いまの雷。さすがにちょっとびっくりしちゃいましたよー」
なんて言って後頭部を掻いてみせた。
本当はりんちゃんにさえ悟られなければいいだけなんだけど、大きくなっても雷に怯えてしまうなんてなんだか少し恥ずかしい気がしてつい誤魔化してしまった。
いや、大人でも雷に怯える人はいるしそれが悪いことでも恥ずかしいことでもない。それは分かってる。分かってはいるんだけど、そんな“か弱い女の子”なタイプではない私が雷に怯えるのはなんだか笑われてしまいそうで嫌というか…やっぱり、恥ずかしい。
なんて聞かれてもいない言い訳を人知れずもそもそと考えていれば、そんな私に目をくれていた殺生丸さまが「意外だな」と口を開かれた。
「お前は雷など平気だと思っていたが」
「う…な、なに言ってるんですかっ。平気ですよ、ぜーんぜんへーき…」
殺生丸さまの見透かすような言葉に慌ててしらを切ろうとしたその時、再びほど近い場所で雷が落ちる激しい轟音と地響きのような唸りが響く。あまりに不意打ちすぎるそれには誤魔化すこともできないほど大きく跳ね上がって、咄嗟にりんちゃんを抱きしめてしまった。
その直後、はっとした私はすぐさま丸めていた背中を伸ばして平静を装いつつ言い訳を並べようとした――けれど、殺生丸さまの全てを見抜くような視線が真っ直ぐに注がれていて。うぐ、と声を詰まらせるように閉口してしまった私は観念して、肩を落とすまま正直に話すことにした。
「殺生丸さまの言う通りです…さすがにこれだけ大きな音がする雷は怖くてだめなんです」
ついため息混じりにこぼす言葉。するとどういうわけかそれに最も反応を示したのは殺生丸さまではなく、私が耳を塞いでいたはずのりんちゃんだった。
「#name#お姉ちゃんも怖かったの? それなのに、りんの耳を塞いで…」
「ああ、大丈夫大丈夫っ。りんちゃんは気にしないで! 怖いって言ってもちょっとだけだし。私はりんちゃんがぎゅーってしてくれたらへっちゃらだから!」
申し訳なさそうに眉を下げてしまうりんちゃんへ不安を払拭するよう言ってあげる。するとりんちゃんはぱっと表情を変えて「じゃあいっぱいぎゅーってしてあげるね!」と私のお腹に腕を回して抱きしめてくれた。
それに合わせて私もぎゅーっ、と声に出しながらりんちゃんを抱きしめると、彼女は楽しそうに笑って私にくっついていた。
なんとか不安は拭えたようだ。その様子にりんちゃんの頭を撫でてあげては、話を戻すように殺生丸さまへ顔を向け直した。
「殺生丸さまが意外だと思っちゃうのも分かります。こんな私が雷に怯えるなんてガラじゃないっていうか…変ですよね」
自嘲気味にへら、と笑いながら言う。これは自分でも思うことだ。やっぱり私はどちらかというとか弱い女の子ってタイプでもないし、雷に怯えて委縮する、なんて私らしくない気がする。
だからこそあまりそういう弱い部分を人に見られたくなかったのだけど、鋭いこの人の前じゃ隠しきることもできなかったようだ。
もういっそ笑ってくれ。ネタにしてくれ! と願いながら殺生丸さまの反応を待っていると、しばらく黙っていた彼は私を見やるままそっと口を開いた。
「…確かに意外だとは思ったが、似合わんなどと感じたわけではない。ただ私が、お前のことをまだ知らなかっただけのことだ」
至極当たり前のように、むしろ私が間違ったことを言っているような気さえしてくるほど真っ直ぐに告げられる。
…ああ、そっか、私が無意識のうちに変なプライドを持っていただけだったんだ。恥ずかしい思いをしないために隠してたのに、杞憂だったんだ。
本当、この人には敵わないなあ。なんて思っていたら、またも空が眩く光った。あ、これは…と身構えそうになったその時、伸ばされた手が私の片耳を塞ぐように押し当てられる。かと思えばそのまま頭を軽く引き寄せられて、ほのかに冷たくて固い感触へと押し付けられた。
あっという間に両耳を塞がれる形になって、光を追うように轟く雷の音がずっと遠くに感じる。やがてそれが治まったかと思えば、わずかに緩められた手の隙間から殺生丸さまの声が落とされた。
「こうしていれば、少しは和らぐか」
私の様子を窺うような、少し柔らかさを孕んだ声。
突然のことで状況の理解が追い付かなかったけれど、“こうしていれば”という言葉にようやく頭が回り始める。
どうやら私はいま、殺生丸さまの鎧に頭を押し付けられているらしい。いや、きっと頭というよりも耳だ。片方は右手で、もう片方は鎧に押し付けて耳を塞ごうとしてくれている様子。
もしかして、私の両手がりんちゃんで塞がっているからこうして手を貸してくれたんだろうか。まさかこんな風に気遣ってもらえるとは…というよりも、こんなに密着させられることになろうとは思ってもみなくて、混乱するままに忙しなく目を泳がせていた。
――そんな時ふと聞こえた、小さな音。私のうるさい鼓動の向こうに、ほんの微かにだけれど似たような小さな音が聞こえる気がした。
(あ…もしかして、この音…)
なんとなく察した私はその音を手繰り寄せるように片側の耳に意識を集中させる。それは、殺生丸さまの鎧にぴたりと押し当てられた方の耳。押し付けられて密着しているから聞こえたのか、その音の正体は殺生丸さまの心音のようだった。
私とは違って雷にも動じていないその鼓動は、乱れのない落ち着いたもの。どこか温かささえ感じるような穏やかなその鼓動は、自然とこちらまで落ち着かせていくような気がして。
気が付けば、あれほど強張っていた体から心地よく力が抜けている。
「…ありがとうございます、殺生丸さま…」
まるで包み込まれるような穏やかさが染み渡るのを感じながら、無意識のうちに心の底から込み上げてきた言葉を感嘆のため息のように口にする。その金色の瞳を見上げて。
するとそれを向けられた殺生丸さまはほんのわずか、きっと近くで見ている私にしか分からない程度に怪訝そうに眉根を寄せた。
「…ふん。落雷のたびに怯えられる方が鬱陶しいと思っただけだ」
顔を背けてしまいながら呆れたようにこぼされる言葉。
だけど、私は知っている。こんな風に悪態をついていても、本当は私を案じてくれていることを。
そんな素直じゃない彼の姿につい口元を緩めてしまいながら目を伏せた。
「そういうことにしておきます」
ほんの小さく、彼に届くかどうかの声で囁く。
気が付けば私の鼓動はすっかり殺生丸さまと同じペースを刻んでいて、あれだけ早く終わってほしいと思っていた悪天候も、いまでは少しでも長く続け、なんて願ってしまうような気持ちでその不器用な温もりに身を委ねていた。